帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

 三日後、神楽坂邸の執務室で森部から報告を受けた鷹臣は、珈琲を飲みながら眉間に皺を寄せた。

「人相書きを私立探偵と興信所にばら撒いた結果、複数の筋から『班目』という名が浮上しております」
 大正の世では、法と秩序に縛られる警察よりも、金と利権で動く民間の情報網の方が闇を暴くには早い。
 劇場の芳名録には名前はなかったが、御用絵師に描かせた人相書きですぐにヒットしたと森部は淡々と報告した。

「俺の知る班目ではない」
「えぇ。顔も似ていません」
「唯一似ているのは髪の色くらいか?」
 元帝国陸軍大将、対魔特務部隊・初代隊長を務めた班目勲は、鷹臣の剣術の師匠であり、父にも等しき存在。
 そして、その背中を追い続けた憧れの人だ。

「ですが、珍しい姓ゆえ、親族の可能性があるのかと」
「……親族ならば俺を恨んでいて当然……か」
 班目は俺を庇って死んだのだからと、鷹臣は自嘲しながら珈琲をソーサーに戻した。

「もうひとつ不穏な知らせが。富士の氷穴が、日に日に冷気を増し、凍てついていると報告が入っています」
 森部がスッと差し出した報告書に、鷹臣の目が鋭く細められる。
 
「古のあやかしの封印がいよいよ限界か……」
 鷹臣は手袋に包まれた自身の右手を見つめ、静かに瞼を閉じた。

「森部、約束は覚えているな?」
「えぇ。あなたが鬼に堕ちる瞬間、俺が仕留めますのでご安心を」
「……千歳が何不自由なく暮らしていけるように、手助けも頼む」
「承知しました」
 森部はただの優秀な副隊長ではない。
 森部一族は代々、神楽坂一族が鬼に堕ちた時、その引導を渡す処分役を担ってきた陰陽師の血筋だ。
 本来の姓は「護辺」。
 神楽坂が守りきれない境界線を、いかなる非道な手段を用いてでも護り抜く一族の隠し名なのだ。
 
 鷹臣の父が鬼と化した時、その首を跳ねたのは森部の父だった。
 そして祖父もまた、森部の祖父の手によってこの世を去っている。
 森部一族は、水鏡の術を施した手袋や屋敷の結界で神楽坂の延命に尽くすが、記録の限り鬼に堕ちなかった当主は一人も存在しない。

「鬼の血が絶えれば、おまえもようやくこの因縁から解放されるな」
「馬鹿なことをおっしゃらないでください。いなくなったら誰が帝都を守るというのですか」
 森部は下がってもいない眼鏡のブリッジをグイッと押し上げる。
 その指先は、主を斬らねばならぬ宿命への静かな抵抗のようにも見えた。
 
 水鏡の娘を傍らに侍らせたのは、鬼を喰らった初代と、この鷹臣だけ。
 神楽坂の初代当主は、古のあやかしを富士の氷穴へと追い詰め、その身を捧げて絶命した男。
 そして神楽坂の初代当主ごと古のあやかしを封じたのが、水鏡の娘だ。
 それから千年の時を経て再び現れた水鏡の娘、千歳。
 それは神楽坂の宿命が終焉へと向かっていることを示す不吉な予兆のようだった。
 
「俺の死に場所は、富士というわけだな」
 水鏡の加護を得たこの手が最後に掴み取るのは滅びか、それとも――。
 鷹臣は再び珈琲を手に取ると、自嘲しながら最後の一滴まで飲み干した。

    ◇

 帝都の喧騒から離れた街外れ。
 鬱蒼とした木々に囲まれた隠れ家で、班目はスコットランドから取り寄せたウヰスキーを湛えたクリスタルグラスを弄んだ。

「顔に模様のある娘……か」
 琥珀色の液体越しに歪んで見える世界を眺め、班目は低く呟く。
 
 大事な女が消えたら、あの男はどうなるだろか?
 復讐に狂うか、あるいは鬼の衝動に身を任せ、帝都を焼き尽くすか。
 あの男がたった一人の女の喪失によって、どれほど無惨に崩壊するのか。
 想像するだけで背筋に愉悦が走る。
 班目は口の端を吊り上げ、一気に毒のような酒を煽った。
 
 神楽坂鷹臣。
 かつて父であり、民衆に英雄と呼ばれた班目勲が、実の息子である自分よりも目をかけ、その命と引き換えに守り抜いた男。
 あの日、名もなき若造であった鷹臣を庇って命を落としたその瞬間から班目の時計は止まったままだ。

「……最後まで、息子と呼ばれることはなかったな」
 班目の脳裏には、かつて「班目勲の私生児」として、日陰を歩まされた屈辱の日々が泥のように渦巻いていた。
 父の死によって鷹臣は「鬼神」として覚醒し、今や帝都の頂点に君臨している。
 一方の自分は、父にすら存在を隠され、歴史の隙間に捨て置かれたまま。
 この埋まらぬ差こそが、班目の心に消えない痣を残していた。
 
「奈落へ引きずり落としてやる」
 班目は机の引き出しから真っ黒な怨嗟の香を取り出した。
 
 それは人の心を内側から蝕み、あやかしへと変える禁忌の香。
 銃も刀も扱えない自分にあの人がくれた復讐する力だ。
 あの方がいなければ、自分が英雄の血を引く者だということさえ知らないままだった。
 
「純真な小鳥にふさわしい、死の贈り物だ」
 班目は香を豪奢な小箱に収めると、可憐な桃色のリボンを手に取った。