「森部、千歳を頼む」
「帝国劇場を壊すのはやめてください」
森部は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、重苦しい溜息を吐き出す。
急に聞こえた鷹臣以外の人の声に、千歳の肩はビクッと揺れた。
え? 森部さんはいつからそこに?
二人きりだと思い込んでいたが、最初から影のように控えていたというのだろうか。
だが、羞恥に頬を染める暇さえ今の状況は許してくれなかった。
「このまま抑え込む」
手袋を脱ぎ捨てた鷹臣の赤い紋章が、あやかしの瘴気に呼応するように脈打ち始める。
劇場の空気が物理的な重さを伴い、千歳は肺を圧迫されるような錯覚に陥った。
服の隙間から鷹臣をそっと覗きながら、千歳は無造作に放り投げられた手袋をそっと拾う。
以前、実家の屋敷に連れて行ってもらった時、妬み・恨み・羨みが蓄積されたものが澱みとなり、意思を持ったものが『あやかし』なのだと鷹臣は教えてくれた。
帝国劇場のような華やかな場所には、人々の羨望や虚栄心、そして手に入らぬものへの渇望が渦巻いているのかもしれない。
鷹臣の手が一瞬鮮やかな紅い光を放ち、目には見えない衝撃波のような風が劇場を駆け抜けたと思った瞬間、千歳の頭からふわりと上着が除けられた。
「森部、男の素性を調べろ」
「あの席では芳名録に記載しませんね。前売券を購入した者を洗います」
「一緒にいた女は、千歳の義妹の斎宮百合子だ」
聞き捨てならぬ名に、千歳は慌てて一階席を覗き込む。
だが、客席にはもう誰の姿もなかった。
そんな男性と一緒にいて大丈夫なの……?
なぜだろう、嫌な予感が拭えない。
自分を虐げてきた相手だというのに、千歳は百合子のことが心配になってしまった。
「千歳、手袋を」
名を呼ばれた千歳は慌てて手袋を差し出す。
「……内側に何か?」
手袋をつけるのを手伝おうとした千歳は、絹の裏地に施された細かな刺繍に目を奪われた。
「水鏡だ」
「……水鏡って」
この頬の紋章と同じ?
手袋の裏にまで術を刻まねばならぬほど、鷹臣は「鬼」に苛まれているのだろうか。
千歳は鷹臣の右手を取り、自分の左頬の紋章に押し当てる。
「少しはお役に立てますか?」
「少しどころか、永遠に離れ難い」
手袋なんかより数百倍の効果があると言われた千歳は、嬉しそうに微笑んだ。
「……お熱いところを失礼いたしますが、神楽坂邸に早く戻っていただいても?」
お屋敷の寝所で思う存分どうぞと森部に言われた千歳は真っ赤な顔に。
手袋を嵌め直した鷹臣にエスコートされ、千歳は静まり返った大理石のロビーを歩く。
靴音が広大な空間に反響し、まるで世界に二人だけが取り残されたような錯覚に千歳は陥った。
「贅沢ですね」
独り占めみたいですと千歳が笑うと、後ろを歩く森部が冷静に突っ込んだ。
「えぇ。この美しき建築物が壊されなくてよかったです」
「文句はあやかしに言え」
鷹臣は苦々しく吐き捨て、玄関先に横付けされた黒塗りの重厚な自動車へと千歳を促した。
後部座席の革張りシートに腰を下ろした千歳は、そこに置かれた一冊の冊子に目を見開く。
それは、先ほどまで上演されていた歌劇『カルメン』のパンフレットだった。
「文字が読めずとも、絵を眺めるだけで楽しめるだろう」
「ありがとうございます」
森部に見送られながら黒塗りの車が走り出す。
パンフレットを嬉しそうにページをめくっていた千歳は、隣に座る鷹臣が手袋を外していたことに気づいていなかった。
熱い指先が髪に触れ、鷹臣の大きな手で耳の下から頬を包まれる。
顔を上げた瞬間、千歳の唇は鷹臣に塞がれた。
肺の空気がすべて吸い出されるような深い口付けに眩暈がしそうになる。
「屋敷までなど、待てるわけがないだろう」
口付けの合間に囁かれた言葉に、千歳は頬を赤らめながら鷹臣の手の上に自分の手を重ねた。
「千歳に触れると鬼が静まり苦しみが和らぐ。千歳はどうだ?」
苦しい、痛いと思っているのならば教えてくれと言われた千歳は小さく横に振った。
「私は触れられていると嬉しいです」
「……嬉しい?」
「守られているようで幸せです」
その言葉は、嘘偽りのない千歳の本心だった。
鷹臣が背負う苦しみが自分に触れることで和らぐのなら、この身などいくらでも捧げたい。
絶望しかなかった斎宮家とは比べ物にならないほど愛情を与えてくれる鷹臣に、少しでも恩返しがしたい。
「……おまえは、本当に」
鷹臣の喉から、掠れた吐息が漏れる。
鷹臣は千歳の唇を再び深く奪うと、「ならば、遠慮はしない」と囁いた。
「帝国劇場を壊すのはやめてください」
森部は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、重苦しい溜息を吐き出す。
急に聞こえた鷹臣以外の人の声に、千歳の肩はビクッと揺れた。
え? 森部さんはいつからそこに?
二人きりだと思い込んでいたが、最初から影のように控えていたというのだろうか。
だが、羞恥に頬を染める暇さえ今の状況は許してくれなかった。
「このまま抑え込む」
手袋を脱ぎ捨てた鷹臣の赤い紋章が、あやかしの瘴気に呼応するように脈打ち始める。
劇場の空気が物理的な重さを伴い、千歳は肺を圧迫されるような錯覚に陥った。
服の隙間から鷹臣をそっと覗きながら、千歳は無造作に放り投げられた手袋をそっと拾う。
以前、実家の屋敷に連れて行ってもらった時、妬み・恨み・羨みが蓄積されたものが澱みとなり、意思を持ったものが『あやかし』なのだと鷹臣は教えてくれた。
帝国劇場のような華やかな場所には、人々の羨望や虚栄心、そして手に入らぬものへの渇望が渦巻いているのかもしれない。
鷹臣の手が一瞬鮮やかな紅い光を放ち、目には見えない衝撃波のような風が劇場を駆け抜けたと思った瞬間、千歳の頭からふわりと上着が除けられた。
「森部、男の素性を調べろ」
「あの席では芳名録に記載しませんね。前売券を購入した者を洗います」
「一緒にいた女は、千歳の義妹の斎宮百合子だ」
聞き捨てならぬ名に、千歳は慌てて一階席を覗き込む。
だが、客席にはもう誰の姿もなかった。
そんな男性と一緒にいて大丈夫なの……?
なぜだろう、嫌な予感が拭えない。
自分を虐げてきた相手だというのに、千歳は百合子のことが心配になってしまった。
「千歳、手袋を」
名を呼ばれた千歳は慌てて手袋を差し出す。
「……内側に何か?」
手袋をつけるのを手伝おうとした千歳は、絹の裏地に施された細かな刺繍に目を奪われた。
「水鏡だ」
「……水鏡って」
この頬の紋章と同じ?
手袋の裏にまで術を刻まねばならぬほど、鷹臣は「鬼」に苛まれているのだろうか。
千歳は鷹臣の右手を取り、自分の左頬の紋章に押し当てる。
「少しはお役に立てますか?」
「少しどころか、永遠に離れ難い」
手袋なんかより数百倍の効果があると言われた千歳は、嬉しそうに微笑んだ。
「……お熱いところを失礼いたしますが、神楽坂邸に早く戻っていただいても?」
お屋敷の寝所で思う存分どうぞと森部に言われた千歳は真っ赤な顔に。
手袋を嵌め直した鷹臣にエスコートされ、千歳は静まり返った大理石のロビーを歩く。
靴音が広大な空間に反響し、まるで世界に二人だけが取り残されたような錯覚に千歳は陥った。
「贅沢ですね」
独り占めみたいですと千歳が笑うと、後ろを歩く森部が冷静に突っ込んだ。
「えぇ。この美しき建築物が壊されなくてよかったです」
「文句はあやかしに言え」
鷹臣は苦々しく吐き捨て、玄関先に横付けされた黒塗りの重厚な自動車へと千歳を促した。
後部座席の革張りシートに腰を下ろした千歳は、そこに置かれた一冊の冊子に目を見開く。
それは、先ほどまで上演されていた歌劇『カルメン』のパンフレットだった。
「文字が読めずとも、絵を眺めるだけで楽しめるだろう」
「ありがとうございます」
森部に見送られながら黒塗りの車が走り出す。
パンフレットを嬉しそうにページをめくっていた千歳は、隣に座る鷹臣が手袋を外していたことに気づいていなかった。
熱い指先が髪に触れ、鷹臣の大きな手で耳の下から頬を包まれる。
顔を上げた瞬間、千歳の唇は鷹臣に塞がれた。
肺の空気がすべて吸い出されるような深い口付けに眩暈がしそうになる。
「屋敷までなど、待てるわけがないだろう」
口付けの合間に囁かれた言葉に、千歳は頬を赤らめながら鷹臣の手の上に自分の手を重ねた。
「千歳に触れると鬼が静まり苦しみが和らぐ。千歳はどうだ?」
苦しい、痛いと思っているのならば教えてくれと言われた千歳は小さく横に振った。
「私は触れられていると嬉しいです」
「……嬉しい?」
「守られているようで幸せです」
その言葉は、嘘偽りのない千歳の本心だった。
鷹臣が背負う苦しみが自分に触れることで和らぐのなら、この身などいくらでも捧げたい。
絶望しかなかった斎宮家とは比べ物にならないほど愛情を与えてくれる鷹臣に、少しでも恩返しがしたい。
「……おまえは、本当に」
鷹臣の喉から、掠れた吐息が漏れる。
鷹臣は千歳の唇を再び深く奪うと、「ならば、遠慮はしない」と囁いた。



