帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

 朝、目が覚めると抱きしめられながら眠っているのが当たり前になり、朝食を一緒にいただき、仕事に出かける鷹臣の着替えを手伝い、玄関でお見送りをすることが千歳の日課になった。
 昼間は刺繍だけではなく、マナーや文字の勉強、生け花やピアノも。
 鷹臣は千歳が少しでも興味を持ったものは、なんでもやらせてくれた。
 
「……斬新だな」
 夕刻、執務から戻った鷹臣は、リビングの花瓶の前で足を止める。
 千歳が活けた花は伝統的な型とは違い、季節の草花が奔放に顔を出す賑やかすぎる作品になっていた。
 
「やはり、おかしな形ですよね……」
「いや、いい。形式張ったものより、おまえの楽しそうな心根が見えるようで俺は好きだ」
 鷹臣は軍服の襟を緩めると、千歳のそばに寄り、その柔らかな髪を大きな掌で撫でる。

「形になど、はまらなくていい」
 自由でいてくれと言われた千歳は「甘やかしすぎです」と笑ってしまった。

「千歳。来週、帝国劇場でオペラを観よう」
「オペラ……! 私、観たことがなくて」
 義妹の百合子が殿方に誘われて観に行ったと自慢しに来た時、千歳は裏庭で洗濯をしながら話を聞くことしかできなかった。
 
「……とても、羨ましかったのを覚えています」
 俯く千歳の顎を、鷹臣の指が優しく持ち上げる。
 
「他に行きたいところは? 見たいもの、欲しい物、なんでも望め」
 鷹臣の問いかけは命令に近いほど力強いのに、千歳を甘く包み込むようだった。
 
 千歳は少し困ったように眉を下げてから、鷹臣の軍服の詰襟を外す。
 たくましい肩から軍服を脱がせた千歳は、軍服を大切に腕に抱えながら上目遣いで鷹臣を見つめた。

「……もし許されるのでしたら」
「あぁ、なにが望みだ?」
「ほんの少しの間だけで構いません。鷹臣様と庭の散策がしたいです」
 かつて義妹の自慢話を裏庭で聞き流していたあの頃、千歳が本当に羨ましかったのは、豪華なオペラそのものではない。
 誰かと言葉を交わし、何気ない日常を共に過ごすという当たり前の幸せだった。

「……そんなことでいいのか?」
 宝石でも領地でも、誰にも文句を言わせぬ絶対的な地位でもなんでも手に入るのにと鷹臣は笑う。
 鷹臣は千歳の腕にある軍服ごと力強く抱き寄せた。
 
「欲のないやつだ」
 それを片付けたら庭へ行こうと言われた千歳は「はい」と嬉しそうに微笑む。

 手を繋ぎながら広大な庭を歩いた千歳は、ひとりで見るよりも数倍美しい花に心が温かくなった。
 二人のささやかな草履の音と、なにげない会話だけが庭園に広がる。
 
「……千歳」
 ふいに足を止めた鷹臣が繋いでいた手を顔の高さまで持ち上げた。
 指先に軽く口づけされただけで千歳の心臓が跳ね上がる。
 
「欲のないおまえに、本当の『欲』というものを教えてやりたい」
 鷹臣の顔が鼻先が触れ合うほどの距離に。
 庭園に咲き誇るどの花よりも、自分を映し出している鷹臣の瞳の方が残酷なほどに美しく見えた。

 髪を撫でられ、耳の後ろに触れられただけで身体が熱くなる。
 頬に添えられた鷹臣の手がずっと離れなければいいのにと、千歳は思わず願ってしまった。
 
 唇に柔らかい熱が触れ、魂が揺さぶられる。
 鷹臣の大きな手が背中に回された千歳は、力が入らなくなった指先で必死に鷹臣の着物の袖を掴んだ。
 密やかな吐息が重なり、夢中で口づけを交わす。
 
 ずっと欲しかった「自分だけの居場所」。
 千歳は熱を持った唇を震わせながら、自分を強く抱き寄せる鷹臣の胸に甘えることしかできなかった。
 
    ◇

 帝国劇場の重厚な扉の向こうは、別世界だった。
 天井の巨大なシャンデリアから降り注ぐ光が、正装した女性たちの宝石を輝かせる。
 千歳は鷹臣のたくましい腕に手を添え、慣れないヒールで赤い絨毯の上を歩いた。
 
 鷹臣が誂えてくれた赤いイブニングドレスは、歩くたびに柔らかい布がふわっと広がり、まるで薔薇の花びらのようだ。
 数日ヒールで歩く練習をしたけれど、みっともない姿勢になっていないだろうか?
 自分の姿が不安になった千歳は、隣を歩く鷹臣を見上げた。

 軍服を脱ぎ、夜会用の燕尾服に身を包んだ鷹臣は冷徹で美しい。
 周囲の令嬢たちが頬を染めていることに鷹臣は気が付いているのだろうか。
 それとも彼にとって、このような視線は日常茶飯事なのだろうか。

「緊張しているのか?」
「……申し訳ございません。あまりに綺麗で、圧倒されてしまって」
「案ずるな。ここにいる誰よりも、おまえの方が美しい」
 鷹臣が低く囁き、千歳の手に自分の手を重ねる。
 そんなことを言う変わり者は鷹臣だけだと、千歳は思わず笑ってしまった。

「見間違いかと思ったけれど……お姉様?」
 背後から響いたのは、記憶にこびりついて離れない、高く突き刺さるような声。
 反射的に俯きそうになる顎を、鷹臣の指先が優しく、けれど強く制した。

「驚いたわ。裏庭で洗濯をしていたお姉様が、帝国劇場に?」
 百合子は扇子の陰でくすくすと笑い、千歳を値踏みするように上下に眺める。
 千歳はゆっくりと深呼吸をし、家庭教師に教わった通り、背筋を伸ばして微笑みを返した。