茶器を載せたお盆を捧げ持った千歳は、慎重な足取りでリビングへと向かった。
「お待たせいたしました、鷹臣様」
ソファーで新聞を読んでいる鷹臣の前に紅茶を置くと、すぐに新聞から視線を上げ、千歳にお礼を言ってくれる。
千歳は「失礼します」と断った後、静かにソファーへ腰を下ろした。
「いい香りだ」
鷹臣は新聞を横に置き、満足そうに紅茶を口にする。
昼間のように失敗しなくてよかったと千歳が胸を撫でおろすと、すべてを見透かしたように鷹臣は口の端を上げた。
「牛の乳は入れずにすんだな」
「ど、どうして、ご存じ……」
部屋の隅に控える女中に慌てて視線を送ると、女中はブンブンと首を横に振る。
千歳は耳まで林檎のように真っ赤に染まった。
「こんなに学ばせてもらったのは初めてで……とても贅沢な1日でした」
はじめは何をしたらよいのかわからなかったこと、やってみたらとても楽しくて夢中になってしまったことを千歳は鷹臣に伝える。
もちろん紅茶の失敗も正直に話したが、鷹臣は責めるどころか可笑しそうに肩を揺らした。
「失敗もまた一興。千歳が驚いたり困ったりしている姿を想像するだけで、退屈な軍務の合間の慰めになる」
書類の確認は本当につまらないと鷹臣は肩をすくめる。
「そういえば、千歳は班目という男を知っているか?」
「いいえ……存じません」
聞き覚えのない名に千歳が首を傾げると、鷹臣は手にしていたティーカップをソーサーに戻しながら「ならばいい」と短く答えた。
「明日は銀座でも行くか」
その後、班目という人物の話題は出ることがなく、新しく銀座に開店したカフェーの噂など、他愛もない話に花が咲く。
冷え切った物置での生活からは想像もできない穏やかで幸せな日々。
今、目の前で微笑んでいるこの人が、自分の世界のすべてだ。
千歳は溢れる感謝を胸に、鷹臣との甘い時間をいつまでも惜しむように過ごした。
◇
帝都の喧騒から離れた街外れ。
鬱蒼とした木々に囲まれたその場所は、帝都の地図からも忘れ去られたような静寂に包まれていた。
蔦に覆われたレンガの壁、軋む鉄の扉、埃の舞うサンルーム。
「ねぇ、本当にこんな場所に住んでいるの?」
千歳の義妹の百合子は、あまりにも陰惨な洋館の佇まいに形の良い眉を不快げに寄せた。
贅沢な刺繍が施された着物の裾を気にしながら、百合子は目の前を歩くコートの男性の背中を追う。
薄暗い室内には、出所不明の洋書や分解された機械部品、そして埃を被った蓄音機が転がっていた。
「ここから先は特務機関の犬も、お堅い軍人も入れない」
男が部屋の壁に埋め込まれた不自然な形の石を強く押し込むと、重低音とともに壁の一部が内側へと沈み込む。
「ようこそ、お嬢様」
扉の向こうに広がっていたのは、磨りガラスの天窓から淡い光が降り注ぐ秘密の書庫。
重い石の扉が背後で「ガタン」と閉まり、完全に外の世界から遮断される。
百合子の心臓は、恐怖とは別の、未知の世界に足を踏み入れた高揚感で激しく脈打った。
「ここが……あなたの家なの?」
「あぁ。俺たちのアジトだ」
「俺たち?」
男は黒いコートを脱ぎ、近くの椅子に無造作に放り投げる。
部屋の中央にある古い蓄音機に歩み寄った男が慣れた手つきで針を落とすと、ジリジリというノイズの後に、帝都の街角では決して耳にすることのない奔放で哀愁を帯びたジャズの旋律が流れた。
「俺は班目。ここは鬼退治をする者が集まる場所だ」
「……鬼退治?」
童話のようだが不吉な響きを持つ言葉に、百合子は思わず首を傾げた。
班目は百合子を値踏みするように見つめ、獲物を狙う獣のごとく目だけを細めた。
「お待たせいたしました、鷹臣様」
ソファーで新聞を読んでいる鷹臣の前に紅茶を置くと、すぐに新聞から視線を上げ、千歳にお礼を言ってくれる。
千歳は「失礼します」と断った後、静かにソファーへ腰を下ろした。
「いい香りだ」
鷹臣は新聞を横に置き、満足そうに紅茶を口にする。
昼間のように失敗しなくてよかったと千歳が胸を撫でおろすと、すべてを見透かしたように鷹臣は口の端を上げた。
「牛の乳は入れずにすんだな」
「ど、どうして、ご存じ……」
部屋の隅に控える女中に慌てて視線を送ると、女中はブンブンと首を横に振る。
千歳は耳まで林檎のように真っ赤に染まった。
「こんなに学ばせてもらったのは初めてで……とても贅沢な1日でした」
はじめは何をしたらよいのかわからなかったこと、やってみたらとても楽しくて夢中になってしまったことを千歳は鷹臣に伝える。
もちろん紅茶の失敗も正直に話したが、鷹臣は責めるどころか可笑しそうに肩を揺らした。
「失敗もまた一興。千歳が驚いたり困ったりしている姿を想像するだけで、退屈な軍務の合間の慰めになる」
書類の確認は本当につまらないと鷹臣は肩をすくめる。
「そういえば、千歳は班目という男を知っているか?」
「いいえ……存じません」
聞き覚えのない名に千歳が首を傾げると、鷹臣は手にしていたティーカップをソーサーに戻しながら「ならばいい」と短く答えた。
「明日は銀座でも行くか」
その後、班目という人物の話題は出ることがなく、新しく銀座に開店したカフェーの噂など、他愛もない話に花が咲く。
冷え切った物置での生活からは想像もできない穏やかで幸せな日々。
今、目の前で微笑んでいるこの人が、自分の世界のすべてだ。
千歳は溢れる感謝を胸に、鷹臣との甘い時間をいつまでも惜しむように過ごした。
◇
帝都の喧騒から離れた街外れ。
鬱蒼とした木々に囲まれたその場所は、帝都の地図からも忘れ去られたような静寂に包まれていた。
蔦に覆われたレンガの壁、軋む鉄の扉、埃の舞うサンルーム。
「ねぇ、本当にこんな場所に住んでいるの?」
千歳の義妹の百合子は、あまりにも陰惨な洋館の佇まいに形の良い眉を不快げに寄せた。
贅沢な刺繍が施された着物の裾を気にしながら、百合子は目の前を歩くコートの男性の背中を追う。
薄暗い室内には、出所不明の洋書や分解された機械部品、そして埃を被った蓄音機が転がっていた。
「ここから先は特務機関の犬も、お堅い軍人も入れない」
男が部屋の壁に埋め込まれた不自然な形の石を強く押し込むと、重低音とともに壁の一部が内側へと沈み込む。
「ようこそ、お嬢様」
扉の向こうに広がっていたのは、磨りガラスの天窓から淡い光が降り注ぐ秘密の書庫。
重い石の扉が背後で「ガタン」と閉まり、完全に外の世界から遮断される。
百合子の心臓は、恐怖とは別の、未知の世界に足を踏み入れた高揚感で激しく脈打った。
「ここが……あなたの家なの?」
「あぁ。俺たちのアジトだ」
「俺たち?」
男は黒いコートを脱ぎ、近くの椅子に無造作に放り投げる。
部屋の中央にある古い蓄音機に歩み寄った男が慣れた手つきで針を落とすと、ジリジリというノイズの後に、帝都の街角では決して耳にすることのない奔放で哀愁を帯びたジャズの旋律が流れた。
「俺は班目。ここは鬼退治をする者が集まる場所だ」
「……鬼退治?」
童話のようだが不吉な響きを持つ言葉に、百合子は思わず首を傾げた。
班目は百合子を値踏みするように見つめ、獲物を狙う獣のごとく目だけを細めた。



