「奥様。他になにか、やってみたいことはございませんか?」
「……私、何をしたらよいのかわからなくて」
斎宮邸の物置で過ごした歳月には、彩りなどなかった。
成すべきことも、何かを創造するための道具さえも。
義妹の百合子は女学院へ通い、優雅に琴を弾き、異国の言葉を操り、艶やかな絹糸で刺繍に励んでいたけれど……。
「あっ。……私、刺繍と……それから、文字を習ってみたいです」
千歳は、膝の上で握りしめた自分の手をそっと見つめた。
百合子が華やかな絹糸でハンカチに刺繍をし、恋文を添えて殿方に贈りたいとはしゃいでいたのを遠い場所から眺めていたことがある。
「文字、でございますか?」
「はい。……お手紙を書けるようになりたくて。いつか鷹臣様にお礼を伝えられるようになりたいです」
帝都を統べる公爵家の奥方ともなれば、読み書きができぬなど、本来あってはならないこと。
一文字も読むことのできない「無能」な自分に、あの方は呆れてしまうだろうか。
せめて、お名前だけでも。
あの方の尊いお名前を、私の手で綴ることができたなら……。
「刺繍も……いつか綺麗にできるようになったら、鷹臣様に」
千歳は耳たぶまで林檎のように赤らめ、消え入りそうな声で付け加えた。
「承知いたしました。早速、最高級の絹糸を準備いたします。文字は人気講師を」
「い、いえ。そんな」
千歳は思わず腰を浮かせて否定する。
女中たちに手ほどきをしてもらえたらと思い、気軽な気持ちで口にしたことだったが、このままではとんでもない騒ぎになりそうだ。
「できれば、みなさまに教わりたいです。あっ、でも仕事を増やしてしまうなら……」
「私どもでよろしいのですか?」
想定外だったのか、女中は目を丸くした。
「はい。私に教えていただけないでしょうか?」
「仕事が増えるなんてとんでもない。むしろ、私どもにとっては光栄の至りに存じます」
「よかった」
千歳がホッと胸を撫でおろすと、女中は優しく微笑んでくれた。
「手近な布の切れ端と今ある針と糸でよろしければ、今日から刺繡を始められますが」
「ぜひお願いします」
千歳は弾むような声で答える。
「あと、もうひとつ。できればで良いのですが……」
「……奥様は、本当に……」
女中は込み上げる感動を堪えるように「もちろんです」と深く頭を下げた。
これまでの人生で、何かを「学びたい」と望み、それが許されたことなど一度もなかった。
学ぶということがこんなに楽しいことだったなんて。
女中が手早く整えてくれた道具を前に、千歳は真っ直ぐに針を通す練習から始める。
「難しいのですね」
一針ずつ丁寧に刺しているはずなのに、不器用なのか真っ直ぐにならない。
「初めてでこれほど糸目が揃っていれば、上出来でございます」
すぐ上達なさいますと励まされた千歳は、恥じらいながら針を刺していく。
夢中で針を動かしていた千歳の背後に、音もなく長い影が落ちた。
「随分と熱心だな」
「……鷹臣様!?」
驚いた千歳が弾かれたように振り返ると、そこには凛々しい軍服を纏った鷹臣が立っていた。
「お、お帰りなさいませ」
どうしよう。
お出迎えもせず、作業に夢中になってしまった。
千歳は立ち上がり、深々と頭を下げる。
「あの、これは」
何かを望むことは贅沢であり、許しなく動くことは罪だ。
斎宮邸ではそう叩きこまれたのに、神楽坂邸のみなさんが優しくてつい甘えてしまっていた。
千歳は頭を下げたまま、必死で言い訳を考えた。
「申し訳ありません、鷹臣様。お許しも得ずに、勝手な真似を」
千歳はお辞儀したまま指をぎゅっと組み、震える声で謝罪する。
「何をそんなに怯えている?」
頭上から降ってきたのは怒鳴り声ではなく、どこか呆れたような声だった。
軍服の衣擦れの音とともに、鷹臣が千歳の目の前に屈み込む。
磨き上げられた軍靴が視界に入った千歳は、さらに身を縮め小さくなった。
だが、いつまで経っても振り下ろされるはずの「痛み」はやってこない。
「顔を上げろ、千歳」
「すぐに片付けます。女中さんは悪くないんです。私がどうしてもと我が儘を申しました」
千歳は縋るような思いで顔を上げ、必死に弁解の言葉を紡ぐ。
だが、千歳の言葉を遮るように、鷹臣の大きな手は千歳の頭にぽんと置かれた。
「……え?」
予測もしなかった温もりに、千歳は驚きで目を丸くする。
「おまえがこの家で『何かをしたい』と、己の意志で望んだことが嬉しい」
「……学ばせていただいても良いのですか?」
「止める理由がどこにある?」
好きなだけやればいいと笑う鷹臣に、千歳は目を輝かせた。
「ありがとうございます。鷹臣様」
「だが、没頭しすぎて俺を後回しにするのは許さん」
鷹臣の手が千歳の頬に触れ、熱を帯びた鷹臣の瞳が千歳の全身を絡め取る。
それは命令ではなく、まるで剥き出しの愛の徴のようだった。
おかしいわ。この方が欲しているのは紋章だけのはずなのに。
耳元で囁かれる独占的な響きも、肌を焼くような執着に満ちた視線も、すべて自分自身に向けられているのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
そうであってほしいと、私が願ってしまっているのかしら……?
自分の内に芽生えた恐ろしい願望に、千歳は胸の奥をギュッと締め付けられた。
「……私、何をしたらよいのかわからなくて」
斎宮邸の物置で過ごした歳月には、彩りなどなかった。
成すべきことも、何かを創造するための道具さえも。
義妹の百合子は女学院へ通い、優雅に琴を弾き、異国の言葉を操り、艶やかな絹糸で刺繍に励んでいたけれど……。
「あっ。……私、刺繍と……それから、文字を習ってみたいです」
千歳は、膝の上で握りしめた自分の手をそっと見つめた。
百合子が華やかな絹糸でハンカチに刺繍をし、恋文を添えて殿方に贈りたいとはしゃいでいたのを遠い場所から眺めていたことがある。
「文字、でございますか?」
「はい。……お手紙を書けるようになりたくて。いつか鷹臣様にお礼を伝えられるようになりたいです」
帝都を統べる公爵家の奥方ともなれば、読み書きができぬなど、本来あってはならないこと。
一文字も読むことのできない「無能」な自分に、あの方は呆れてしまうだろうか。
せめて、お名前だけでも。
あの方の尊いお名前を、私の手で綴ることができたなら……。
「刺繍も……いつか綺麗にできるようになったら、鷹臣様に」
千歳は耳たぶまで林檎のように赤らめ、消え入りそうな声で付け加えた。
「承知いたしました。早速、最高級の絹糸を準備いたします。文字は人気講師を」
「い、いえ。そんな」
千歳は思わず腰を浮かせて否定する。
女中たちに手ほどきをしてもらえたらと思い、気軽な気持ちで口にしたことだったが、このままではとんでもない騒ぎになりそうだ。
「できれば、みなさまに教わりたいです。あっ、でも仕事を増やしてしまうなら……」
「私どもでよろしいのですか?」
想定外だったのか、女中は目を丸くした。
「はい。私に教えていただけないでしょうか?」
「仕事が増えるなんてとんでもない。むしろ、私どもにとっては光栄の至りに存じます」
「よかった」
千歳がホッと胸を撫でおろすと、女中は優しく微笑んでくれた。
「手近な布の切れ端と今ある針と糸でよろしければ、今日から刺繡を始められますが」
「ぜひお願いします」
千歳は弾むような声で答える。
「あと、もうひとつ。できればで良いのですが……」
「……奥様は、本当に……」
女中は込み上げる感動を堪えるように「もちろんです」と深く頭を下げた。
これまでの人生で、何かを「学びたい」と望み、それが許されたことなど一度もなかった。
学ぶということがこんなに楽しいことだったなんて。
女中が手早く整えてくれた道具を前に、千歳は真っ直ぐに針を通す練習から始める。
「難しいのですね」
一針ずつ丁寧に刺しているはずなのに、不器用なのか真っ直ぐにならない。
「初めてでこれほど糸目が揃っていれば、上出来でございます」
すぐ上達なさいますと励まされた千歳は、恥じらいながら針を刺していく。
夢中で針を動かしていた千歳の背後に、音もなく長い影が落ちた。
「随分と熱心だな」
「……鷹臣様!?」
驚いた千歳が弾かれたように振り返ると、そこには凛々しい軍服を纏った鷹臣が立っていた。
「お、お帰りなさいませ」
どうしよう。
お出迎えもせず、作業に夢中になってしまった。
千歳は立ち上がり、深々と頭を下げる。
「あの、これは」
何かを望むことは贅沢であり、許しなく動くことは罪だ。
斎宮邸ではそう叩きこまれたのに、神楽坂邸のみなさんが優しくてつい甘えてしまっていた。
千歳は頭を下げたまま、必死で言い訳を考えた。
「申し訳ありません、鷹臣様。お許しも得ずに、勝手な真似を」
千歳はお辞儀したまま指をぎゅっと組み、震える声で謝罪する。
「何をそんなに怯えている?」
頭上から降ってきたのは怒鳴り声ではなく、どこか呆れたような声だった。
軍服の衣擦れの音とともに、鷹臣が千歳の目の前に屈み込む。
磨き上げられた軍靴が視界に入った千歳は、さらに身を縮め小さくなった。
だが、いつまで経っても振り下ろされるはずの「痛み」はやってこない。
「顔を上げろ、千歳」
「すぐに片付けます。女中さんは悪くないんです。私がどうしてもと我が儘を申しました」
千歳は縋るような思いで顔を上げ、必死に弁解の言葉を紡ぐ。
だが、千歳の言葉を遮るように、鷹臣の大きな手は千歳の頭にぽんと置かれた。
「……え?」
予測もしなかった温もりに、千歳は驚きで目を丸くする。
「おまえがこの家で『何かをしたい』と、己の意志で望んだことが嬉しい」
「……学ばせていただいても良いのですか?」
「止める理由がどこにある?」
好きなだけやればいいと笑う鷹臣に、千歳は目を輝かせた。
「ありがとうございます。鷹臣様」
「だが、没頭しすぎて俺を後回しにするのは許さん」
鷹臣の手が千歳の頬に触れ、熱を帯びた鷹臣の瞳が千歳の全身を絡め取る。
それは命令ではなく、まるで剥き出しの愛の徴のようだった。
おかしいわ。この方が欲しているのは紋章だけのはずなのに。
耳元で囁かれる独占的な響きも、肌を焼くような執着に満ちた視線も、すべて自分自身に向けられているのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
そうであってほしいと、私が願ってしまっているのかしら……?
自分の内に芽生えた恐ろしい願望に、千歳は胸の奥をギュッと締め付けられた。



