元帝国陸軍大将、対魔特務部隊・初代隊長、班目勲。
鷹臣の師であり、特務部隊を創設し、数多のあやかしを退けてきた軍神。
その班目が、なぜ千歳の命に値段を付けたのか。
「……間違いないのか?」
「本人かどうかはわかりかねます。ただ、名前がそうであるとしか」
班目という姓は珍しい。
さらに名前まで一緒だというのは、偶然にしては出来すぎている。
その事実が、鷹臣の胸をどす黒い殺意で満たした。
「班目はあやかしとの戦いで、俺を庇って亡くなった」
「はい」
「故人が支払いを続けることは不可能だ」
「……それこそが、一番の謎なのです」
森部の眼鏡が、逆光を受けて白く光る。
「班目大将の戦死は公的な事実。ですが、斎宮家への振り込み手続きは数日前、正確には18歳の誕生日を迎えられた日に行われていました」
「……亡霊が、金を払うというのか」
鷹臣の喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
「それとも地獄の底からでも、俺を監視しているという宣言か」
鷹臣は報告書を机に放り投げると、自分の手の甲に浮かび上がる鬼の紋章を見つめながら、切なそうに吐き捨てた。
◇
神楽坂邸のリビングに残った千歳は、ゆっくりとティーポットを傾けた。
「あら?」
白磁の注ぎ口から流れ出したのは、先ほどまで目にしていた透き通るような琥珀色ではなく、光を一切通さない濁った深褐色の液体だった。
千歳はティーポットの傾きを戻し、不思議そうにカップを見つめる。
「奥様、少々よろしいでしょうか?」
千歳の危うい手つきをハラハラしながらも見守っていた女中が、静かに進み出てティーポットの蓋を開ける。
立ち上る香りは芳醇さを通り越し、喉を刺すような強い渋みを帯びていた。
「どうやら茶葉を入れすぎてしまったようです」
「このスプーンに……」
「はい。先ほど鷹臣様が淹れられた紅茶はお二人分でしたので」
女中の言葉に、千歳は「あ……」と小さく声を漏らした。
そうだ。見本で見せてくれたのは二人分。
そして今は一人分のお湯しか入れていない。
教わった手順をなぞることに必死で、肝心な『分量』が抜け落ちていたのだ。
鷹臣様がいらっしゃらなければ、私はお茶の一杯も満足に淹れられないなんて……。
「ごめんなさい」
おいしい茶葉を無駄にしてしまったと千歳が謝罪すると、女中は頭を下げる。
「鷹臣様より、まずはおひとりで淹れさせてほしいと言われたため、わざと黙っておりました。お許しください」
失敗だと知りながら見て見ぬふりをしたと逆に謝罪された千歳は、慌てて首を振った。
失敗を経験させて学ばせようという鷹臣の意図を汲み取った千歳は、思う壺のようで悔しくなる。
もし鷹臣が隣にいたなら、「失敗もまた一興だろう?」と不敵な笑みを浮かべていたに違いない。
「お下げいたします」
「いえ、このままいただきます。もったいないので」
目の前にある煮詰まったような色の紅茶の香りは強烈で、いかにも渋みが強そうだ。
千歳は少しだけ背筋を伸ばし、覚悟を決めて白磁のカップを手に取った。
「……っ」
一口含んだ瞬間、舌を刺すような鮮烈な苦みが口いっぱいに広がり、千歳は思わず眉の間にぎゅっと力を込めた。
「……苦い、ですね」
「温かいミルクをお持ちします。これほど濃く淹れられたのであれば、美味しいミルクティーになります」
涙目で告げた千歳を見た女中は、お待ちくださいと姿を消す。
「……みるくてぃ、ってなにかしら?」
ミルクとは確か牛の乳のことだ。
義妹の百合子が、高価な瓶入りの乳を指差しながら「これこそ文明開化の味よ」と自慢げに語っていたのを思い出す。
「もしかしてお茶に、牛の乳を入れてしまうの?」
千歳の不安は的中し、女中は持ってきたミルクを紅茶に入れるように勧める。
「本当に、ここへ入れてもよろしいのですか?」
「はい」
真っ白なミルクが深褐色の水面に触れた瞬間、紅茶は薄茶色に姿を変える。
「温かいうちにどうぞ」
女中に促された千歳はおそるおそるカップに唇を寄せた。
先ほどまでの刺すような鋭い香りは影を潜め、まろやかで甘い香りが鼻をくすぐる。
「おいしい」
あんなに苦かったのが、嘘のようだ。
渋みはどこへ行ったのかと聞きたくなるほど、舌の上でとろけるような優しい味に。
「鷹臣様は奥様がこうして新しい味を見つけるのを楽しみになさっていたのかもしれませんね」
千歳はふと、この部屋を出ていく鷹臣の悪戯っぽい瞳を思い出した。
失敗することも、そこから工夫することも、すべてお見通しだったのかもしれない。
千歳は幸せを噛みしめるように、二口目のミルクティーをゆっくりと喉に流し込んだ。
鷹臣の師であり、特務部隊を創設し、数多のあやかしを退けてきた軍神。
その班目が、なぜ千歳の命に値段を付けたのか。
「……間違いないのか?」
「本人かどうかはわかりかねます。ただ、名前がそうであるとしか」
班目という姓は珍しい。
さらに名前まで一緒だというのは、偶然にしては出来すぎている。
その事実が、鷹臣の胸をどす黒い殺意で満たした。
「班目はあやかしとの戦いで、俺を庇って亡くなった」
「はい」
「故人が支払いを続けることは不可能だ」
「……それこそが、一番の謎なのです」
森部の眼鏡が、逆光を受けて白く光る。
「班目大将の戦死は公的な事実。ですが、斎宮家への振り込み手続きは数日前、正確には18歳の誕生日を迎えられた日に行われていました」
「……亡霊が、金を払うというのか」
鷹臣の喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
「それとも地獄の底からでも、俺を監視しているという宣言か」
鷹臣は報告書を机に放り投げると、自分の手の甲に浮かび上がる鬼の紋章を見つめながら、切なそうに吐き捨てた。
◇
神楽坂邸のリビングに残った千歳は、ゆっくりとティーポットを傾けた。
「あら?」
白磁の注ぎ口から流れ出したのは、先ほどまで目にしていた透き通るような琥珀色ではなく、光を一切通さない濁った深褐色の液体だった。
千歳はティーポットの傾きを戻し、不思議そうにカップを見つめる。
「奥様、少々よろしいでしょうか?」
千歳の危うい手つきをハラハラしながらも見守っていた女中が、静かに進み出てティーポットの蓋を開ける。
立ち上る香りは芳醇さを通り越し、喉を刺すような強い渋みを帯びていた。
「どうやら茶葉を入れすぎてしまったようです」
「このスプーンに……」
「はい。先ほど鷹臣様が淹れられた紅茶はお二人分でしたので」
女中の言葉に、千歳は「あ……」と小さく声を漏らした。
そうだ。見本で見せてくれたのは二人分。
そして今は一人分のお湯しか入れていない。
教わった手順をなぞることに必死で、肝心な『分量』が抜け落ちていたのだ。
鷹臣様がいらっしゃらなければ、私はお茶の一杯も満足に淹れられないなんて……。
「ごめんなさい」
おいしい茶葉を無駄にしてしまったと千歳が謝罪すると、女中は頭を下げる。
「鷹臣様より、まずはおひとりで淹れさせてほしいと言われたため、わざと黙っておりました。お許しください」
失敗だと知りながら見て見ぬふりをしたと逆に謝罪された千歳は、慌てて首を振った。
失敗を経験させて学ばせようという鷹臣の意図を汲み取った千歳は、思う壺のようで悔しくなる。
もし鷹臣が隣にいたなら、「失敗もまた一興だろう?」と不敵な笑みを浮かべていたに違いない。
「お下げいたします」
「いえ、このままいただきます。もったいないので」
目の前にある煮詰まったような色の紅茶の香りは強烈で、いかにも渋みが強そうだ。
千歳は少しだけ背筋を伸ばし、覚悟を決めて白磁のカップを手に取った。
「……っ」
一口含んだ瞬間、舌を刺すような鮮烈な苦みが口いっぱいに広がり、千歳は思わず眉の間にぎゅっと力を込めた。
「……苦い、ですね」
「温かいミルクをお持ちします。これほど濃く淹れられたのであれば、美味しいミルクティーになります」
涙目で告げた千歳を見た女中は、お待ちくださいと姿を消す。
「……みるくてぃ、ってなにかしら?」
ミルクとは確か牛の乳のことだ。
義妹の百合子が、高価な瓶入りの乳を指差しながら「これこそ文明開化の味よ」と自慢げに語っていたのを思い出す。
「もしかしてお茶に、牛の乳を入れてしまうの?」
千歳の不安は的中し、女中は持ってきたミルクを紅茶に入れるように勧める。
「本当に、ここへ入れてもよろしいのですか?」
「はい」
真っ白なミルクが深褐色の水面に触れた瞬間、紅茶は薄茶色に姿を変える。
「温かいうちにどうぞ」
女中に促された千歳はおそるおそるカップに唇を寄せた。
先ほどまでの刺すような鋭い香りは影を潜め、まろやかで甘い香りが鼻をくすぐる。
「おいしい」
あんなに苦かったのが、嘘のようだ。
渋みはどこへ行ったのかと聞きたくなるほど、舌の上でとろけるような優しい味に。
「鷹臣様は奥様がこうして新しい味を見つけるのを楽しみになさっていたのかもしれませんね」
千歳はふと、この部屋を出ていく鷹臣の悪戯っぽい瞳を思い出した。
失敗することも、そこから工夫することも、すべてお見通しだったのかもしれない。
千歳は幸せを噛みしめるように、二口目のミルクティーをゆっくりと喉に流し込んだ。



