帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

 翌朝、目を覚ました千歳は、目の前の黒と肌色に自分の目を疑った。

「……っ!」
 目の前にあるのは、はだけた黒い着物から覗く鷹臣のたくましい胸元。
 千歳の心臓が跳ね上がり、小さな悲鳴が漏れそうになった。

 昨日は斎宮邸に連れて行ってもらい、夕食後に湯あみを済ませてから、このふかふかの寝具へ横になった。
 眠りに落ちる瞬間まで、傍らには誰もいなかったはずなのに。

 あやかしと戦うときは冷徹な殺気を放ち、近寄りがたい「鬼神」として君臨している鷹臣が、今は無防備に千歳の横で眠っている。
 涼やかな目元を縁取る長い睫毛、彫刻のごとく整った鼻梁と、硬く結ばれた薄い唇。
 眠っている時でさえ、どこか険しさを帯びたその表情は、彼が背負っている業の深さを物語っているようだった。

 どうしましょう。動けないわ。
 鷹臣の太い腕が、逃がさないと言わんばかりに腰をしっかりと抱き寄せ、身動きが取れない。
 密着した体から伝わる、熱いほどの体温。
 せめてこの拘束を緩めようと、そっと腕を退かそうと指先を動かした瞬間、鷹臣の眉根がピクリと動いた。

「……どこへ行く」
「お、おはようございます」
 ゆっくりと開かれた鷹臣の目が千歳をジッと観察する。
 
「……朝か」
「はい。そろそろ……」
 起きたいと窮屈な腕の中から千歳が縋るように見上げると、鷹臣はなぜかさらに腕の力を強めて千歳を引き寄せた。
 薄い寝衣越しに、彼の強靭な体躯の熱がダイレクトに伝わってくる。
 
「もう少し、このままで」
 もしかしてまだ夢の続きにいるのだろうか。
 耳元に触れる吐息がくすぐったい。
 
「おまえが隣にいると、この身を巣食う鬼が静かに眠る」
 その告白は、千歳の胸を激しく締め付けた。

 私を、必要としてくださっているのだわ。
 齊宮家では「無能」と蔑まれ、息を潜めて生きるしかなかった自分。
 そんな自分にしかできないことがあり、それを求めてくれる人がいる。

「私でよければいつでも……」
「ほう。自分から『添い寝をしてやる』と? 殊勝なことだ」
 意地悪く口角を上げる鷹臣に、千歳は「あわわ」と手を振って否定する。

「ち、違います! そういう意味では……っ」
「わかっている」
 千歳の狼狽を存分に愉しんだあと、鷹臣は満足げに身を起こした。
 寝乱れた前髪を無造作にかき上げる動作ひとつにも、軍服を纏っている時とは異なる、野性味を帯びた色気が溢れている。
 鷹臣は戸惑う千歳の額にそっと唇を落とした。

「今日は何をしたい?」
 不意に投げかけられた問いに千歳は詰まってしまった。
 斎宮邸での生活は、朝から晩まで洗濯板に向かい、荒れた手で裏庭に干すだけの日々。
 自分のやりたいことなど考えたこともなく、そもそも世間を知らない。

 なんでもいいと言われた千歳がふと思い出したのは、このお屋敷に来た日に振る舞われた琥珀色の飲み物。
 白磁のカップの中で琥珀色の液体が揺らめき、これまでに嗅いだことのない花のようないい香りがしていた。
 舌に残る微かな苦みと、喉を通り過ぎる瞬間の優雅な甘み。
 その余韻は、今も鮮明に覚えている。
 
「私……、琥珀色の飲み物の淹れ方を、学んでみたいです」
 自分のような「無能」が、そんな贅沢な作法を教わりたいなどと言って、不興を買わないだろうか。
 ダメでしょうかとおそるおそる視線を上げた千歳は、鷹臣の面白がるような視線に驚いた。
 
「紅茶か」
「紅茶という飲み物なのですね」
「俺が手ずから教えてやる」
 鷹臣の指先に触れられた頬が熱い。
 高鳴る心臓の音も隠せそうにない。
 千歳は真っ赤な顔で頷くのが精いっぱいだった。

    ◇

 穏やかな日差しが差し込む神楽坂邸のリビングで、千歳は指先を震わせながらティーポットを握りしめた。

 落としてしまったらどうしましょう。
 ティーポット自体は驚くほど軽いのに、緊張のあまり今の千歳は鉛でも持っているかのような気分だった。
 ポットの取っ手に添えた人差し指が、小刻みにカタカタと音を立て蓋を叩く。
 静まり返った室内に響く音は、千歳の心臓をさらに速く打ち鳴らした。

「そんな茶器くらい、いくらでも買ってやる」
 気負わなくていいいと言ってくれる鷹臣の声を聞いても、千歳の緊張はなかなかほぐれない。
 実家で浴びせられた「無能」「出来損ない」という罵声が、耳の奥で呪詛のように蘇り、千歳の手はますます震えてしまった。

「そんなに肩を強張らせるな」
 耳元で低い声が響いたと思った瞬間、千歳の背中に分厚い胸板が重なる。
 逃げ場を塞ぐように回された鷹臣の大きな手が、震える千歳の手を支えた。

「ゆっくりと傾けるぞ」
 鷹臣の手のひらから伝わる体温が、千歳の指先の冷たさを溶かしていく。
 二人の手が重なったまま、琥珀色の液体が美しい弧を描きながら白磁のカップへと吸い込まれていった。
 花の香りがふわっと広がり、冬なのに春ではないかと錯覚させられる。

 そう、この香り。
 この琥珀色。
 凍えそうな雪の中、このお屋敷を訪れ、呪いのような厚化粧を拭い去ってくれた鷹臣が、身も心も温めてくれたお茶。
 こんなに温かくて、美味しいものがあったのだと教えてくれた奇跡の一杯。

「横は熱いから気をつけろ」
「はい。触れないようにいたします」
 注ぎ終えたポットを置いた鷹臣は手を離すどころか、千歳の指の間を割り込むように深く指を絡め合わせた。