帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

 ほんの数刻前、千歳と訪れたばかりの斎宮邸。
 使用人の雑居部屋には負の澱みしかなかったが、実は屋敷の中心に『あやかし』がいることはわかっていた。
 
 昼間はあやかしを牽制し続け、千歳の無垢な魂に穢れが触れないように細心の注意を払った。
 だがもう遠慮する必要はない。

 鷹臣が解き放った冷徹な殺気が、冬の夜気よりも鋭く斎宮邸に満ちる。
 同時に闇から這い出してきたのは、幾百もの青白い腕が蠢くあやかしだった。
 無数の手が掴んでいるのは、粉砕された膳の破片、割れた白磁の皿、煤けた書物、引き裂かれた反物。
 
「おまえ、義母だな?」
 物に執着し醜く肥大したその本性を、鷹臣の眼光は瞬時に射抜いた。
 
 手袋を脱ぎ捨てた鷹臣は軍刀の柄に手をかけ、一息に引き抜く。
 赤い紋章があやかしの瘴気に呼応し、ドクンと脈打った。

「おまえたちが千歳を閉じ込め、心を削ってきた歳月……そのすべてを終わらせてやる」
 赤い閃光が爆ぜた瞬間、幾百もの腕がのたうち回る。
 あやかしは邸内に残されたゴミ同然の家財道具を離すまいと執着の塊を剥き出しにした。
 かつて家格を誇り、贅に執着した女の末路。
 義母の成れの果ては、死してなお虚栄に縋り付く醜いあやかしだった。
 
「消えろ」
 あやかしは断末魔を上げる暇もなく霧散していく。
 バキバキと音を立てて柱が折れ、天井が崩落し始めた斎宮邸から抜け出した鷹臣は、崩れ去る屋敷を一度も振り返ることなく軍刀を鞘に納めた。

「……あいつが起きる前に帰らねばな」
 腕の中を蠢く鬼の胎動が、皮膚を突き破らんばかりに暴れている。
 あやかしを喰らい、その負の情念を力に変える神楽坂の血。
 それは敵を屠るたびに鷹臣自身の精神を削り、どす黒い狂気へと引きずり込もうとする逃れられぬ呪縛だった。
 視界が赤く染まり、理性が鬼の咆哮に塗り潰されそうになる。
 
「……静まれ」
 内側から噴き上がる破壊衝動を抑え込むように、鷹臣は赤黒く脈打つ右手を新雪の中へと深く突き立てた。
 肌を焼くほどの熱が、雪の冷気に触れてジリジリと蒸気を上げる。
 混濁する意識の底、闇を払い除けるように浮かび上がったのは、自分を案じて震える指先で手を握ってくれた千歳の柔らかな温もりだった。

『鷹臣様が苦しまれていないかと……』
 その一言が、荒れ狂う鬼の衝動を鎮めていく。
 
「千歳……」
 手袋を嵌め直した鷹臣は深い溜息を夜の闇に吐き出した。

「やりすぎです」
 駆けつけた部下、対魔特務部隊の頭脳ともいえる副隊長の森部が、無惨に砕け散った屋敷を見ながら頭を抱える。
 
「あとはまかせた」
「さすがに全壊の報告書をしたためるのは骨が折れます。せめて壁一枚くらい残してください」
 森部は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら深い溜息をついた。
 
 鷹臣はその泣き言を気にする素振りも見せず、迎えの馬車へと足を向ける。
 だが、ふと足を止めた鷹臣は瓦礫の山に視線を送った。
 視線の先は、ぐにゃりと曲がった斎宮邸の物置。千歳が義母から不当な扱いを受け、閉じ込められていた場所だ。
 いつもなら気に留めずに帰るのに、鷹臣はわずかな間だが足を止め、そして何も言わずに馬車に乗り込んだ。
 
 遠ざかる蹄の音を聞きながら、森部は珍しいものを見たとばかりに目を見開く。
 隊員たちは唖然とした表情で斎宮邸の残骸を見つめた。
 
「いつもより容赦なかったと思いません?」
 若手の隊員が瓦礫の中に漂う鬼の気に身震いする。
 森部は眼鏡の奥の目を細めた。
 
 「帝都の鬼神」と呼ばれる神楽坂鷹臣は、孤高で他者を寄せ付けない氷のような男。
 部下たちにとって鷹臣は、決してその内側に踏み込んではならない完成された「兵器」に近い存在だ。
 
「少しは『人間』に戻れたのか?」
 夜明け前の冷たい風に吹かれながら、森部は小さな声で呟く。
 
「森部副隊長、何か仰いましたか?」
「いや、何も。日の出までに浄化作業を終わらせなくては」
 森部は部下たちに指示を飛ばしながら、暗闇の先へ消えていった馬車の轍に視線を送った。