帝都の鬼は泥中の花を愛で喰らう〜呪われた異能の娘は、鬼神大佐の腕の中で愛を知る〜

 二ヶ月ぶりに訪れた実家は、想像以上に荒れ果てていた。
 鳳夫人は使用人たちが家財道具を持ち逃げしたと言っていたが、まさかここまでとは。
 驚くほど何もない屋敷は、昨晩の主の死に同調するように、家そのものが死に向かっているようだった。

「何もないな」
「そう、ですね……」
 屋敷の中を自由に歩き回る許可はもらっていなかった千歳がしっかり覚えているのは、裏庭と物置と屋敷の裏口、そして使用人たちの居住スペース。
 そんな場所でさえ荒れ果てた様子に、千歳は絶句した。

「ここが私の部屋です」
 裏庭に回り、千歳が住んでいた物置の扉を開けると、出て行った時と変わらないカビ臭い空気が鼻につく。
 家財道具を持ち逃げした使用人たちでさえ、この薄汚れた物置にだけは指一本触れなかったようだ。
 千歳が毎晩、寒さに震えながら丸まっていた古びた薄い毛布は、物置の片隅に畳んでおいたままの状態だった。

「……こんな場所に?」
 千歳が自嘲気味に微笑むと、鷹臣の拳がみしりと音を立てる。
 鷹臣に肩を抱き寄せられた千歳は、温かい腕の中に閉じ込められた。
 
 上質な軍服越しに伝わる怒りに満ちた鼓動が、千歳の耳の奥まで響いてくる。
 自分以外の誰かが、自分のために怒りを感じてくれていることが、こんなにうれしいなんて。

「鷹臣様のもとへ嫁げてよかったです」
「誰もが恐れる鬼神に嫁げてよかったとは、変わった女だ」
 鷹臣は呆れたように肩をすくめた。
 
「母親の物がありそうな場所は?」
 軍靴の音を立てながら進んだ鷹臣は、鴨居に頭がつきそうなほどの長身を屈め、部屋の隅々を見渡す。
 
「使用人の部屋……?」
 千歳がおずおずと口にすると、鷹臣はわずかに目を細めた。
 
 湿り気を帯びた薄暗い廊下の突き当たりにある大勢の女中たちが寝起きしていた雑居部屋は、乱雑に脱ぎ捨てられた古い草履や繕い途中の布が放置されたまま。
 千歳が足を踏み入れようとすると、鷹臣の大きな手が千歳を止めた。
 
「入るな。ここは澱んでいる」
 鷹臣は千歳を背後に庇うと、軍刀の鞘でカツンと床を鳴らす。
 その瞬間、床の隙間からドロッとした黒い靄のようなものが動いた。

「……っ!」
「これは、あやかしになる前の負の澱みだ」
 女中たちの妬み・恨み・羨みが蓄積されたもの。
 この負の澱みが膨れ上がり、意思を持ったものが『あやかし』なのだと鷹臣は千歳に教えてくれた。

 鷹臣が威圧するだけで、澱みはスッと消えていく。
 一瞬で消し去ってしまったが、あやかしのように苦しい思いをしていないか心配になってしまった千歳はそっと鷹臣の手を握った。

「……怖かったか?」
「あ、いえ。鷹臣様が苦しまれていないかと……」
 鷹臣は一瞬だけ呆気に取られたように目を見開いた。
 この帝都で「鬼神」と恐れられる自分に対し、化け物への恐怖ではなく、その身を蝕む毒を心配する者など、これまで一人もいなかったからだ。
 鷹臣はふっと自嘲気味に口角を上げると、握られた千歳の小さな手を握り返した。
 
 雑居部屋の中に入った千歳は引き出しや棚をのぞいたが、母の物だとわかるようなものは何もなかった。
 母の顔も名前も知らないのだから、当然といえば当然だが。
 それでも、この屋敷がなくなる前に来ることができてよかった。

「鷹臣様、ありがとうございます」
「もういいのか?」
「はい」
 何も見つからなかった。
 だが、母がかつてこの空気を吸い、この暗い廊下を歩いていたということを感じられただけで、千歳の心は不思議と穏やかだった。
 
「さようなら」
 この生家の敷居を跨ぐことはもう二度とないだろう。
 手入れの行き届いていない小さな裏庭から空を仰ぐことも、遥か遠くにある富士の山で季節を知ることも、凍えながら一人で過ごす夜も、もう来ない。
 千歳は小さな声で呟くと、振り返らずに斎宮邸をあとにした。

    ◇

 雪がすべてを隠すように舞い落ちる真夜中。
 凍てつく空気の中、斎宮邸の門扉を囲むのは黒い外套を纏った帝国陸軍、対魔特務部隊の精鋭たちだった。

「隊長、結界配置が完了しました」
「ご苦労。全員、退避」
「はっ!」
 鷹臣の指示に答えた部下たちの吐き出す息は白く濁り、新雪を軋ませる軍靴の音だけが不気味なほど統制されたリズムで遠ざかっていく。
 残されたのは静寂と邸内から漂う『あやかし』の気配だけ。
 鷹臣は刀に手をかけると不敵に笑った。