縁談を知らされたあの日、父は確かに言っていた。
鳳公爵夫人たっての縁談だと。
だが、それはあまりにも不可解な話だった。
物心ついた頃には屋敷の物置に住み、近隣の住人にさえその姿を見せたことはない。
女中たちでさえ千歳のことを見て見ぬふりをし、誰の目にも留まらないはずの自分を、なぜ雲の上の存在である鳳夫人が指名したのか。
「理由が、知りたくなっただろう?」
耳たぶをかすめる鷹臣の熱い吐息が、全身を甘く痺れさせる。
「……はい」
千歳が消え入りそうな声で正直に答えると、鷹臣は満足げに目を細め、包み込んでいた腕をゆっくりと解いた。
「まずは残さず食べろ。俺は少し出掛けてくる」
軍靴の規則正しい足音が遠ざかり、重厚な扉が閉まる。
「いってらっしゃいませと、告げる間もなかったわ……」
一人残された静かな食卓。
かぼちゃのスープは甘いはずなのに、どこか胸の奥が締め付けられるような切ない味がした。
なぜ、私だったのか。
答えを知るのは怖いが、彼の側にいられる正当な理由も欲しくて堪らない。
複雑な胸中を抱えながらも、千歳は鷹臣の言いつけを守るため食事を続けた。
◇
鳳邸は白を基調とした壮麗な洋館だった。
至る所に花が活けられ、大きな窓から明るい日差しが差し込む広々とした応接室は、物置生活が長い千歳には眩しい。
愛らしい花柄の磁器カップ、触れるのも躊躇うほどに磨き抜かれたスプーン。視界に入るすべてが美しい世界を体現していた。
「昨日は鷹臣がいてくれて、本当に助かったわ」
「逆だろう。俺がいなければ会場は壊れなかった」
珈琲を飲みながら肩をすくめる鷹臣を「相変わらず捻くれているわね」と鳳夫人が笑う。
昨夜は『神楽坂閣下』と呼び、あんなに畏まっていらしたのに……?
祖母と孫ほど年齢の離れた二人が、互いに気兼ねなく親密な空気で言葉を交わしている。
その不思議な光景を千歳は目を丸くしながら見つめた。
「あら、やだ。お話ししていないのね?」
「必要ない」
そっけない鷹臣に呆れた鳳夫人は、困惑する千歳の顔を見ながら優雅に微笑む。
「孫のお嫁さんになってくれてありがとう」
「……えっ? 孫? ええっ?」
千歳は驚きのあまり、鷹臣と鳳夫人を何度も交互に見つめてしまった。
そしてすぐに自分の失礼な振る舞いに気づき、瞬時に顔を真っ赤にして深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません! 鳳夫人と鷹臣様が、その……ご、ご親族だとは露知らず……!」
「気楽にしてちょうだい。硬い挨拶は、昨日の夜会だけで十分でしょう?」
鳳夫人は動揺する千歳の素直さが気に入ったのか、楽しげに笑いながら目の前に置かれた黄金色に輝くカステラを勧めてくれた。
「それにしても驚いたわ。斎宮の家に娘が二人いたなんて」
当たりの娘が来てよかったと鳳夫人は胸を撫で下ろす。
夫人は柔らかな手つきで珈琲へミルクを注ぎ、ミルクが混ざり合うのを確かめたあと優雅に口に含んだ。
「あなたのお祖父様との約束で、あなたは生まれてすぐに鷹臣の嫁になることが決まっていたのよ」
「……お祖父様……?」
記憶にはまったくない祖父との約束と言われた千歳は戸惑う。
「水鏡の娘が生まれたと。これからの帝都に必要な神の子だからと、あなたのお祖父様は誇らしげだったわ」
鳳夫人は、遠いあの日を懐かしむように目を細めた。
その後、祖父が亡くなり、斎宮家に様子を見に行ったら可愛らしい女の子が遊んでいたと。
鳳夫人はその子が水鏡の娘だと思い込み、両親に愛された幸せそうな娘を18歳になるまでは親元に置いておこうと決めたのだと、千歳に教えてくれた。
「遊んでいたのは……」
「えぇ。妹の方だったのね。あなたが幸せに過ごしていると思い込んでいて申し訳なかったわ」
もっと早く助ければよかったと鳳夫人は目を伏せる。
鳳夫人の後悔している顔を見た千歳は、自分のことをこんなに思ってくれる人がいたことに驚いた。
「あの日、縁談をくださったのは」
「あなたが18歳の誕生日を迎えたからよ」
「私は……18歳、だったのですね」
千歳の口から漏れたのは、歓喜ではなく戸惑いに満ちた呟きだった。
自分がこの世に生を受けた日など、誰も教えてはくれなかった。
祝われることも、名前を呼ばれることさえない物置の中では、年齢という概念すら霧の向こう側だったのだ。
「……知らなかったのか?」
「はい。毎日同じ日の繰り返しで、天気が変わるくらいしかわからなくて」
ただ、毎年妹が祝われるたびに、私もひとつ年を取ったのだと思ったと、千歳は悲しそうに告げた。
不意に隣からボキッという変な音が聞こえる。
驚いた千歳が隣を見ると、鷹臣が手にしていた銀のスプーンがぐにゃりと歪んでいた。
鳳公爵夫人たっての縁談だと。
だが、それはあまりにも不可解な話だった。
物心ついた頃には屋敷の物置に住み、近隣の住人にさえその姿を見せたことはない。
女中たちでさえ千歳のことを見て見ぬふりをし、誰の目にも留まらないはずの自分を、なぜ雲の上の存在である鳳夫人が指名したのか。
「理由が、知りたくなっただろう?」
耳たぶをかすめる鷹臣の熱い吐息が、全身を甘く痺れさせる。
「……はい」
千歳が消え入りそうな声で正直に答えると、鷹臣は満足げに目を細め、包み込んでいた腕をゆっくりと解いた。
「まずは残さず食べろ。俺は少し出掛けてくる」
軍靴の規則正しい足音が遠ざかり、重厚な扉が閉まる。
「いってらっしゃいませと、告げる間もなかったわ……」
一人残された静かな食卓。
かぼちゃのスープは甘いはずなのに、どこか胸の奥が締め付けられるような切ない味がした。
なぜ、私だったのか。
答えを知るのは怖いが、彼の側にいられる正当な理由も欲しくて堪らない。
複雑な胸中を抱えながらも、千歳は鷹臣の言いつけを守るため食事を続けた。
◇
鳳邸は白を基調とした壮麗な洋館だった。
至る所に花が活けられ、大きな窓から明るい日差しが差し込む広々とした応接室は、物置生活が長い千歳には眩しい。
愛らしい花柄の磁器カップ、触れるのも躊躇うほどに磨き抜かれたスプーン。視界に入るすべてが美しい世界を体現していた。
「昨日は鷹臣がいてくれて、本当に助かったわ」
「逆だろう。俺がいなければ会場は壊れなかった」
珈琲を飲みながら肩をすくめる鷹臣を「相変わらず捻くれているわね」と鳳夫人が笑う。
昨夜は『神楽坂閣下』と呼び、あんなに畏まっていらしたのに……?
祖母と孫ほど年齢の離れた二人が、互いに気兼ねなく親密な空気で言葉を交わしている。
その不思議な光景を千歳は目を丸くしながら見つめた。
「あら、やだ。お話ししていないのね?」
「必要ない」
そっけない鷹臣に呆れた鳳夫人は、困惑する千歳の顔を見ながら優雅に微笑む。
「孫のお嫁さんになってくれてありがとう」
「……えっ? 孫? ええっ?」
千歳は驚きのあまり、鷹臣と鳳夫人を何度も交互に見つめてしまった。
そしてすぐに自分の失礼な振る舞いに気づき、瞬時に顔を真っ赤にして深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません! 鳳夫人と鷹臣様が、その……ご、ご親族だとは露知らず……!」
「気楽にしてちょうだい。硬い挨拶は、昨日の夜会だけで十分でしょう?」
鳳夫人は動揺する千歳の素直さが気に入ったのか、楽しげに笑いながら目の前に置かれた黄金色に輝くカステラを勧めてくれた。
「それにしても驚いたわ。斎宮の家に娘が二人いたなんて」
当たりの娘が来てよかったと鳳夫人は胸を撫で下ろす。
夫人は柔らかな手つきで珈琲へミルクを注ぎ、ミルクが混ざり合うのを確かめたあと優雅に口に含んだ。
「あなたのお祖父様との約束で、あなたは生まれてすぐに鷹臣の嫁になることが決まっていたのよ」
「……お祖父様……?」
記憶にはまったくない祖父との約束と言われた千歳は戸惑う。
「水鏡の娘が生まれたと。これからの帝都に必要な神の子だからと、あなたのお祖父様は誇らしげだったわ」
鳳夫人は、遠いあの日を懐かしむように目を細めた。
その後、祖父が亡くなり、斎宮家に様子を見に行ったら可愛らしい女の子が遊んでいたと。
鳳夫人はその子が水鏡の娘だと思い込み、両親に愛された幸せそうな娘を18歳になるまでは親元に置いておこうと決めたのだと、千歳に教えてくれた。
「遊んでいたのは……」
「えぇ。妹の方だったのね。あなたが幸せに過ごしていると思い込んでいて申し訳なかったわ」
もっと早く助ければよかったと鳳夫人は目を伏せる。
鳳夫人の後悔している顔を見た千歳は、自分のことをこんなに思ってくれる人がいたことに驚いた。
「あの日、縁談をくださったのは」
「あなたが18歳の誕生日を迎えたからよ」
「私は……18歳、だったのですね」
千歳の口から漏れたのは、歓喜ではなく戸惑いに満ちた呟きだった。
自分がこの世に生を受けた日など、誰も教えてはくれなかった。
祝われることも、名前を呼ばれることさえない物置の中では、年齢という概念すら霧の向こう側だったのだ。
「……知らなかったのか?」
「はい。毎日同じ日の繰り返しで、天気が変わるくらいしかわからなくて」
ただ、毎年妹が祝われるたびに、私もひとつ年を取ったのだと思ったと、千歳は悲しそうに告げた。
不意に隣からボキッという変な音が聞こえる。
驚いた千歳が隣を見ると、鷹臣が手にしていた銀のスプーンがぐにゃりと歪んでいた。


