〚 new 神獣鏡 〛
山梨県の四尾連湖という湖の近くの村落には、ソンガソン村という村がある。
そこの集落に村長の武尊とその1人息子でキリトという若者が2人で暮らしていた。
その頃の安政の大噴火で富士山が噴火して、富士山の麓に暮らしていた村人たちは、四方八方に散らばって逃げて行った。
その村人の中でもサクヤという姫は村人たちが大切にしていた青銅鏡をお腹の中に入れて、お付きのミズホと2人で本栖湖畔から山を越えて夜通しかけてソンガソン村まで逃げのびて行った。
そこに村人たちが汚れた2人を見て、村長の武尊の家に2人を預ける事にした。
武尊とキリトはサクヤとミズホから少しだけ訳を聞いて、すぐにお風呂を沸かしてお風呂に入れた。
風呂から出た2人から富士山の麓の様子を聞く事にして2人を暫くの間、世話する事にした。
サクヤという姫のお腹には赤ちゃんが宿っていてすでに産気づいていた。
そこでソンガソン村の週間では赤ちゃんを産む時にはソンガソン村の清水の湧く湧き水のある所で産むとそこで産まれた赤ちゃんは、立派で元気に育つというならましがあり、サクヤも武尊のはからいでそこの清水の湧き水の所で赤ちゃんを産ませて、その清水のある場所には記念碑を建てて、コノハナヤクヤヒメが富士山の噴火によりソンガソン村まで逃げのびてきてここでお産をした。という説明書きを記しておいた。
サクヤとミズホから詳しい話を聞いた武尊とキリトは2人の面倒を見ながら、それぞれを自分の女房にする事にした。
武尊にはミズホ。息子のキリトにはサクヤを嫁にする事にして産まれた女の子はソンガソン村の跡継ぎになる事になった。
富士山の噴火により、ソンガソン村からも
噴煙が見えたり毎日地震が起きていたので
ソンガソン村からも富士山が噴煙をした事はわかっていて、暫く地震が続いたけど地震も噴煙も収まって落ちついてきた頃にはサクヤの娘のニニコも落ちついてきてサクヤはニニコの面倒をみていて、たまに煮炊きや家事をしていてお付きのミズホは薪割りや、職人の仕事のお手伝いをしていた。
ソンガソン村は神秘麗湖の近くの村落にあり村人の仕事はほとんどがキコリをしながら山から獲ってきた材木を自分たちで加工しながら、大工や木工の職人をしながら、兼業農家がほとんどの集落であった。
ソンガソン村には村人は500人程しかいなくて村人全員がみんな親戚であり外部から来たサクヤやミズホは村人からは重宝がられて大切にされていた。
村長の武尊は毎晩、晩酌の席では村人たちと一緒にサクヤとミズホの話を聞いていた。 それでサクヤが大切にしていた青銅鏡の逸話をミズホが詳しく説明していてソンガソン村の人たちも、その青銅鏡(神獣鏡)がどうして大和(日本)にあるのかや、どうして富士山の麓の集落にあったのかなど、古い歴史の説明をしていて村人たちは耳をかたむけていた。
それで富士山の噴火や地震が収まって落ち付きを取り戻したち頃に本栖湖畔の村落で徐福村の村民たちは転々バラバラに別れる時に打ち合わせしておいて狼煙を合図にして連絡を取りあう事にしておいた。
それで本栖湖とソンガソン村の三角地点である大塚古墳で待ち合わせをする事を狼煙の回数で予想しなていた。
ソンガソン村の武尊のはからいで、キリトとサクヤとミズホたちは神獣鏡を持って
山から馬に乗って降ってきて大塚地区の狐塚古墳で待ち合わせを予想して毎日富士山方面から届く狼煙をよく確かめながら
待ち合わせ場所を予測していた。
とある天気の良い日に狐塚古墳で待ち合わせをする事になり本栖湖畔からは富士山から樹海を狩猟をしながら大塚地区まで数人の村人たちで歩いてきて、待ち合わせをした大塚の狐塚古墳に、その神獣鏡を埋めておいて、他の人にわからないようにかなりの深い穴を掘って埋めておいた。
(数百年後)
昭和中期の水上家で少人数として働いていた塩島という大塚の村人は水上家の畑で、
自然薯というナガイモを育てていて、収穫をする時には、長いイモを掘る時は2メートルくらいの穴を掘らなくては収穫できないので、そこで働いていた塩島という使用人が、ナガイモ掘りをしていた時に土の中から、錆びついた青銅鏡を発掘した物の
その青銅鏡がそんなに重要な物だとはわからないでいて、その青銅鏡をお湯を沸かす時の鍋の蓋に使っていたらしく、その青銅鏡はかなり錆びついていたので、鍋の中にリンが入ってしまいそのリンが含まれたお湯を飲んでいた塩島という使用人は、当時の大塚地区では、リンのせいで頭がおかしくなってしまい夜中に騒いだりしてしまい、当時の大塚では、その塩島という使用人にはキツネが取り憑いたとかなり騒ぎになってしまった。
しかしその騒ぎのお陰で国の調査員たちに
その青銅鏡が古来中国で孫権が英雄になった記念に西暦255年、赤烏元年に作らせた青銅鏡である事が判明して、その青銅鏡は今では上野にある考古学博物館に展示されていて、レプリカは山梨県の考古学博物館に展示されてある。
それで2000万円で発掘された神獣鏡を国に買い取って貰った水上家の水上建設はその金で当時は高額だった重機を購入して
水上建設は大きくなったと、同級生の水上本人から高校時代に聞いていた。
それで鏡を見つた、いぶき屋の御先祖の人は200万円しか貰えなくそれで塩島家の人たちは愚痴をこぼしてスネてしまっているようになってしまった。
それで古来のソンガソン村に戻ったサクヤ姫の娘のニニコをキリトと一緒に大切に育てて行った。 ソンガソン村の村長の武尊は
元の女房は若くして亡くなっていたので後妻のミズホと2人で仲良く暮らすようになった。
ソンガソン村の500人程の村人たちは夜になると、晩酌や宴会の席でサクヤ姫とミズホの話を酒の肴にして酔っ払っていた。
サクヤのお付のミズホもサクヤ姫も本栖湖畔の村人たちは全員古来中国の西安王朝から当時の始皇帝の命令で、中国からみて東の国の蓬莱山の麓に不老不死の実があるとされていて、その不老不死の実を探して来い。という始皇帝の命令で徐福という謎の多い人物たちが伝記によると2000人の
天才という少年少女たちを船で日本に渡来してきて、その数千人たちを管理していたのが徐福とされている。
それで日本のあちらこちらの古墳などから徐福のお墓が発掘されていて、中国から来た徐福一族たちは、自分たちの事を徐福と呼んでいたみたいだ。
俺が北海道の何処かを旅している時に、徐福のお墓と書かれた立ち看板を見た事もあったけど、歴史上の人物の中でも謎が多い徐福という人物は中国人で孫権の家臣であると予測はできる。
神獣鏡に孫権という名前が書かれている事から、始皇帝は孫権たちに、金銀財宝や植物の種や神獣鏡など日本にはまだなかった物や稲作などの文化までを日本に持ってきて、三国志時代に曹操軍や劉備軍と闘ってきた孫権軍だったら、争わないで日本古来の豪族たちとも仲良くしながら、北九州の邪馬台国の卑弥呼たちとも交流があった事も予想がつく。
それで数千人の家来を率いて徐福一族は日本の南の九州地方からコミューンという村を作りながら、豪族たちに古墳を作ったり金銀財宝や稲作文化を各地に広めながら各地の豪族たちの古墳にはそれぞれ模様の異なる神獣鏡を埋葬しながら南から蓬莱山の麓を目指しながら旅をしていたようだ。
それで富士山の浅間神社の近くには今でも
徐福村跡地という土地も残っている。
天才とされている徐福一族たちは平安時代のはじめで、まだ狩猟が盛んであった時代に稲作や絹を作る方法などまで日本に伝えながら蓬莱山の麓までかなり長い時間をかけて旅をしてきたけれど、蓬莱山の麓に辿り着いても不老不死の実は見つからなくて、それで徐福たちは、中国の始皇帝に手ぶらで帰る訳にはいかずに、不老不死の実を未完成の未完にかけて、当時の中国にはなかったミカンの事を不老不死の実という事にしておいたみたいだ。
蓬莱山の麓まで辿り着いた徐福たちはおそらく豪族たちに財宝やらをあげてしまい自分たちの財産も尽きてしまったはずで、徐福村という村を作り、富士山の麓の事を新天地とよび、自給自足をしながら暮らしていて、中国に帰る事は既に出来なくなり、部族の中に姫という存在を作り、姫を中心とする村を作っていたと予測できる。
おそらく、富士山の守り神である天照大神という日本のお姫様の正体は、孫権の実の娘で日本名をコノハナヤクヤヒメにして、富士山のお姫様に徐福たちがしたのだと思う。
(余談になるけど)
コノハナヤクヤヒメというお姫様は孫権の実の娘であり、孫権の娘だからお姫様という訳で、平安時代の富士山の麓には日本の人たちも少なかったに違いなく、頭の良い徐福村の人たちは、日本の地元の氏子の富士山新興などとは別のオリジナルの富士山新興を築いて、孫権の実の娘をコノハナヤクヤヒメという名前にして孫権の家臣の中で孫権に実直な誰かと、コノハナヤクヤヒメの間に子供を作らせて、その産まれてきた赤ちゃんに、孫権の鏡の赤烏元年鏡という一番古い青銅鏡を託していたから、
山梨県の大塚や豊富村や中道町にある曽根丘陵などの一体には、日本の縄文時代に栄えた大塚古墳という古墳がいくつもあり、王家の墓として、埋葬品等を簡単に発掘させないように、クフ王などピラミッドみたいな、迷路みたいな、大塚古墳という古墳が現在の三珠町の大塚には実際に残っていて現在では葡萄畑や大塚人参の名産地になっていて、土が柔らかく上質な土の事をノップイと呼び、大塚の周囲には縄文時代の矢じりや縄文時代に使っていた土器の破片などが、簡単に見つける事もできて、薬袋さんという家からはアイヌの紋様の石畳なども発見されて、日本の縄文時代の原始人の人たちの事を縄文語でアイヌと呼んでいて、山梨県では今でも縄文時代そのまんまの骨格をした人たちも、普通に暮らしている。
だから俺が北海道を旅していた時札幌にある五稜郭や、名寄市に住んでいたアイヌの人たちは、北海道の開拓時代に迫害されて北海道のアイヌの人たちだけのコミューン(村)だけに集まって平和に暮らしていて、
縄文人(アイヌ)の人たちは、温厚で優しく、争いを好まない保守的な人たちであり、山梨県ではそんな縄文人たちしか山梨県内には存在していなかった。
そこに弥生人(渡来人)という中国人や新羅の国(朝鮮)の百済人たちなどのアジアから、平和時代に日本に渡来してきた人たちが、山梨県内には多く、巨摩郡という地名には巨摩の人(朝鮮や韓国から移民してきた人たち)が今の南アルプス市には多く暮らしている。
だから日本に来た弥生人たちは、徐福たち一族の西安王朝から来た人たちで、それで山梨県の豊富村にはシルクの里という地名があり、シルクロード(古来の中国)から絹を生産する繭の事をシルクと呼ぶこともあり、山梨県には古来の中国人たちが弥生文化を日本中に広めて行ったと予測ができる。
それで富士山が昔に大噴火したのをさかいに、四尾連湖の近くにある山家という集落には、富士の麓から逃げてきたコノハナヤクヤヒメが赤ちゃんを産んだとされる湧き水の清水が残っている。
孫権の話になるけれど、なんで孫権が赤烏元年に作らせた青銅鏡が日本にあるのかは先程書いたのだけど、孫権という英雄は古来中国の呉の国の皇帝になり今でいう、上海や南京などが孫権の領土であり、
中国では赤鳥元年が西暦238年でその年に作られた考古学の中でも一番古い青銅鏡とされていて学者の人たちの間でもかなり謎が多い鏡とされていて、その赤烏元年鏡の逸話によると、その鏡を持っている人物は国の君主とされている。それで君主とは孫権の事だから、日本になんで孫権の鏡があるとすれば、西安も確か孫権の領土だと思うので孫権の家臣や孫権の実の子供たちも
孫権の命令で日本に徐福たちと一緒に渡来人してきたはずである。
だから蓬莱山の麓まで不老不死の実を探し求めてはるばる中国から来たものの、そんな物はないとわかり、とりあえずミカンを不死不死の実としておいて、徐福たちは中国に帰る事はできなくて富士山の麓に村を作り生活していたけど、日本でわ平安時代に富士山の大噴火により、徐福村で大切にされていた孫権の鏡を他の人物に持たせる訳にはいかないはずで孫権の実の息子か娘に持たせていたはずで、山家地域のコノハナヤクヤヒメが赤ちゃんを産んだという、建て看板から推測すれば女のはずなので
コノハナヤクヤヒメという姫の正体は孫権の娘に違いなくこの物語のなかでは、ニニコという名前を作者である私がつけているけれど実際の人物の名前とストーリーの中で私がつけている名前などがあるけれど、実際の歴史上の実話をもとにして書いているけれど実際の人数や時代の背景などの
不一致は大目に見て頂きたい。
この物語は私が20年も前から独学で勉強して書いているけれど山梨県内や日本中を旅しながらたまたま見つけた立て看板や名所などや図書館にあった古い文献から引用して書いています。
話はそれますが、作者がとても言いたい事は新羅三郎義光という実際の武将も平安時代にこの市川大門に常陸那珂市から平塩の丘に家来を連れてやってきて甲斐源氏発祥の地と市川大門は平安時代には源氏の土地になっていて甲斐の国の時代には新羅三郎義光という武将が山梨県全体を統括するようにと当時の宮家からの命令で山梨県に入ってきているけれど古文書によると新羅三郎義光という武将は清和天皇の孫にあたり
現在の皇族の偉い人たちとも血縁関係もあるはずだけれども、平安時代に一般人にはまだ苗字がなかったはずで、住んでいる地名が苗字の変わりになっていた時代で、例えば古倉という地名の新右衛門さんの場合は、古倉の新右衛門さんという呼び方をしていてその時代に新羅という苗字がついているという事は朝鮮の昔の呼び方は百済とか高句麗とか新羅という国があるから新羅三郎義光という方は朝鮮の新羅の国と関係がないはずはないと古文書を呼んで思った。家の物置きでは江戸時代よりも前の平安時代から古文書に使う和紙を漉いていて
青州文庫というかなり古い文献の本は、関東大震災により東京大学が被災して東大の
図書館の本がなくて市川大門にあった青州文庫の本が東大の図書館に寄付されている程の難しい古文書であるけれどそういう文献を書いていたのは平安時代の宮家から来た新羅三郎義光というその時代の征夷大将軍やその家臣の源義経や源氏の家臣たちが平塩の丘にある平塩寺や神社の中で書いていた古い文献が青洲文庫であり、家の御先祖様たちはそういった古文書の和紙を漉いていたはずで御先祖様たちは漉いた和紙に自分たちでも市川大門に関わる文章を書いていないわけはなく、村松家の御先祖様たちと新羅三郎義光という武将やその家臣たちと戦略結婚をしているはずで、園立寺という村松家の菩提寺の一番古い家系図をかなり前に調べて見たけれど時代はわからないけれど一番古い御先祖様の戒名には
「法捨何何 」とありそれ以降の戒名には加賀美石材店という墓石を作っている会社の人に色々聞いた事があるけれど家のお墓にある村松家の家紋のルーツを調べていた時に、加賀美石材店の方は「出が違う」という言い方をしていたので私は西安王朝の屋根瓦の家紋と似ていて「丸に六曜」という家紋で家紋全集というのにもどこにも村松家のルーツがなくて村松という苗字もまだ新しく平安時代より後の時代は古倉の何何さん。という言い方をしたらしく村松という苗字もあて字であるから苗字でルーツを調べても無意味であり家のルーツは家紋によると西安王朝の家紋と同じなので、孫権が中国の皇帝になった時に西安王朝から2000人の天才児たちを連れて来ているのでその中の西安王朝からの中国人たちや、孫権の実の子供や家臣の子供たちも徐福が
富士山の麓に来ている事から孫権の子供たちと、平安時代に常陸那珂市からやって来た新羅三郎義光の子供たちや元々の市川大門の原住民であった古倉を名乗っていた頃の御先祖様たちの子供同士を結婚させていたから、戒名に園立寺の住職たちも宮家と深い関係がある事を知って偉い戒名をつけない訳にはいかなかったという事で名前や地名や古文書の中から、家の御先祖様たちは、元々の古倉時代の人たちと平安時代に常陸那珂からやってきた甲斐源氏の開祖である新羅三郎義光という源頼朝みたいな武将たちの子供と、更に孫権関係の西安王朝や孫権の子供たちとの結婚の間で産まれてきた村松家の御先祖様たちは相当のエリートであり、俺が新羅三郎義光みたいに、多才で文武に秀でていて多趣味で多才であると高校時代から自分でも他の人たちに比べて多趣味で多才である事が新羅三郎義光という武将に似ていると思い、村松家の和紙漉き職人の職人気質な性質と武将と言っても武田信玄公とも御先祖様たちは一緒であり、更に孫権や西安王朝の血筋も混ざっていると推測できるので平安時代には、縄文人のDNAと孫権のDNAや新羅三郎義光のDNAという混血であり、日本と朝鮮と中国の混血であると自分では思ってきた。
だから日本人以外でも朝鮮人でも韓国人でも中国人でもなんのへだたりもなくコミュニケーションがとれるほうだと思っている。それで俺は前々から日本人と中国人と朝鮮人のクウォーターだと言う言い方を
たまにしていた事もあった。
というわけで俺の御先祖様たちがとんでもない武将の人や孫権の実際の娘たちと子供同士を結婚させていたと考えられるので俺は日本と中国と朝鮮人の混血であるというわけだ。
それでソンガソン村に逃げのびたサクヤの娘のニニコなのだけどサクヤ自体が孫権の娘でありニニコの父親は徐福村の中の村人の長だったと考えられる。
ニニコは孫権の孫になるわけでサクヤは大切なニニコを産むために本栖湖畔からお腹の中に神獣鏡を入れてソンガソン村まで逃げてきて富士見の噴火が収まった頃に麓の生き別れになった徐福村の人たちと三角地点の大塚で待ち合わせをした時にそこに神獣鏡を埋めておいたとしか考えようはない。それが平安時代であるから昭和の中期に大塚の塩島さんが自然薯を掘っていたら
錆びついた青銅鏡を掘りあてたという事は実際にあった話だ。
サクヤやお付きのミズホや徐福村の村人たちは久しぶりの再会をはたしておそらく自分たちの集落のソンガソン村に招いて宴を開いていたと考えられる。
それでソンガソン村の村長の武尊やキリトたちと酒を飲んで盛り上がっていたとも言える。
それでソンガソン村でニニコは大きくなって、たまに市川大門まで買い物や何かで降りて来なくてはならないのでサクヤ姫とミズホとニニコの三人で市川大門まで買い物や食事に来た時に平安時代でわ家の御先祖様が村長だったはずなのでやはりまた子供同士を結婚させたと思うので、それで平安時代に村長だった村松家の子供と孫権の孫にあたるニニコが結婚していたとも充分に考えられる。それで俺の体の中には孫権の血も流れていると思っていた。
数年前に俺が上海に行ったけど、上海は孫権の領土でタクシー外車には曹操タクシーなんてのがあったけど上海周辺は確実に孫権の領土で孫権がかなりもてはやされているような感じであった。 それで権さんという警察官にも公安局にも顔がきく人で権さんの顔つきは凛々しくていかにも孫権の子孫であっても不思議ではなさそうで初対面だったけどDNAでか不思議となんか懐かしい感じがしていたなんか身近な懐きやすい雰囲気がした。それで知り合いなんか1人もいない上海で日本人も大使館には自民党の(なんとか武さん)という人と領事の降籏さんと事務員の女の人の3人しか日本人とわかる人はいなかった。それで権さんと降籏さんと俺の3人でパスポートの変わりに渡航証明書を発行してもらう為に中国政府が管理していた入国管理局に行ったけどスタッフ全員が制服を着ている警察官であったがそこの警察官と親しそうに権さんは話をしていてかなりショートカットで渡航証明書を発行してもらった。そこの帰りに道端で現地の人が竹細工のカエルの置き物を販売していて無事カエルという願かけでそのカエルの置き物を中国の一番のおみやげにして大切にしてある。
俺と降籏さんと権さんの3人は西遊記でいうとすれば俺が孫悟空のサルで降籏さんが沙悟浄のカッパで権さんは猪八戒のブタになり三蔵法師は空海様であり俺が若い時に和歌山県の高野山に出家をして修行をしていた時に開経偈というお大師様の命日か誕生日の日があり俺は南無大師遍照金剛を七回唱えた時に自分の心の声で「私を唐(中国)に連れていってもらいたい。」とお大師様が言ったような気がして俺も中国に行きたかったので上海市内のホテルのベッドの上で困った時には真面目に真言宗のお題目
を唱えてかなり困難に巡りあっていたけど度重なる困難も何となくお大師様が助けてくれた様な気がした。
お大師様も中国に行けて嬉しかって俺の
事を助けてくれていたと思った。
若い頃に俺が高野山に出家した時の真言宗の僧名が建仙であって師匠の宝珠院の廣瀬先生につけてもらった僧名が建仙といい義仙の仙の字をもらったけど当時の俺は仏師になろうとして出家したけど在家坊主で実家がお寺ではないからやっぱりいいやとお山を降りてきてしまった。
それからは三日坊主でいいやと僧名は捨ててしまって俗世間でも修行みたいな苦しい事はあるから俗世間で苦し時に乗りこえる事を修行として釈尊(ブッダ)の教えは聞かない事にして独学で神儒仏を学んで老師の道教の陰と陽や孔子の儒教の本を呼んでいて25歳くらいのNHKで働いていた時に渋谷の西原のアパートで寝ていた時に (女の人の声で)「せいじんくんし」と言う声がはっきり聞こえてきて俺は変換して「聖人君子」だろうと紙に書いて貼っておいた事があり
なんか「聖闘士星矢」みたいだなって思った。当時まだNHKで働いている最中で当時の西原のアパートではかなり不思議な現象を体験してしまい、なんかどうでもよくなってしまった事もあり色んな理由でNHKを退職してフリーランスという道を選択した。フリーランスならなんでもできるし束縛されないで自分で自由に動けるからフリーランスを選んで自分の好きな事しかやらないようにしてきている。
西遊記では色んな比喩が使えて俺は中国で
蛇頭を習主席の手のひらの上で転がしているような挿し絵を書いていたりしていた。
俺は白い虎 、風水学で(白虎)を中国になぞらえて上海の空港のロビーで白い虎の人形を買ってきて俺の手のひらの上で中国を転がしてやってやるパフォーマンスをしたら大使館関係者と思われる日本人なのか中国人なのか区別がつかない人たちを笑わせて緊張を解いていたけど中国ではかなり緊張しているかなりの難関を突破してきて、儒教でいう「仁智勇」という憂いと知識と勇気を三種の神器とされる東洋の思想をもとに中国でも困難を乗り越えてきたので、
ここ4.5年間でかなり以前より大人になっていて、たまに自分でロケをしていて編集しながら自分を見ているとたまに自分の姿がデカく巨人みたいに見える時がたまにあるけど身長や体重は変わっていないけどたまなに自分の姿がやけに(デカい)と思う時があるけど男塾の中で大豪院邪鬼が富樫に比べたら富樫は邪鬼の掌くらいしかないとか、ビールジョッキがでかすぎる。とかみたいにたまに自分がデカく見えてしまう時もあるがそういうのは単なる錯覚だと思う。
男塾の中では俺は富樫源治や虎丸竜二と伊達臣人の3人が好きで殺し合いの闘いをしたあとにインチキくさい中国人が必ずでてきて翌週には生き返らせてしまい結局闘った者同士が味方になって行くという男塾の作者の宮下先生の作品はかなり好きでよく中国のインチキ名鑑書が出てきて子供の頃は本当かと思って少年ジャンプをよく読んでいた。
中国に行っていた時に困難に遭遇した時は老酒をよく飲んで仁知勇の中でも仁が大切で儒教や道教に出てくる教えなので法律とはまた別の教えの道徳で北朝鮮人の人道支援の時には人を思いやるという仁が一番大切であり、知は知識なのでそれ程難しくはなく勇気は兼ね備えていると思うのでやはり仁の人を思いやるというのが一番難しかったけど中国では仁という思いやりを持った優しい人が多かったようにも思えた。
中国では宗教はそれ程なくて老子の道教や儒教の教えが根強くてキリスト教などはまったく知られていないようであった。
仏教もそれ程浸透していなくて龍と虎のキャラクターはかなりあって西遊記の孫悟空のサルはかなり人気があって西遊記が一番人気があったようで道端では堂々とキャラクターやら偽ブランドのコピー商品が販売されていた。中国でのコピー商品や偽商品は半端ではなくツッコミの宝庫だと思った。
上海市内の貿易ビルでは見た事もない高級車に乗ったスーツ姿の男の人がいて人間観察をしていたけどそのビルを設計したビルのデザイナーみたいな人がいたけどNHKの特番に出ていそうな達人クラスのツワモノもいた。さすが中国で人口が多いのと土地が広すぎると思ったから中国は管理する事が出来ないみたいで個人的に子供の教育でおそらく道徳をかなり教えているようであったけど泥棒はかなり多かったのでピリピリしていて隙をみせると盗まれるという危ない国でもあった。
北斗の拳でもケンシロウが1人で中国に渡りシャチたちと仲良くなるというのがある。北斗の拳の胸にはシンに入れられた北斗七星が入っているけどあれを見て俺は若い時に左の方にマリファナのタトゥーを入れたけどいつでもとれるように小さくしておいたのも狙いだったけどアメリカではとても受けて(ナイス)とか(シャープ)頭がキレると褒めてもらっていて日本はまだまだアメリカやヨーロッパに比べたら送れている
とよく思った。
山梨県の四尾連湖という湖の近くの村落には、ソンガソン村という村がある。
そこの集落に村長の武尊とその1人息子でキリトという若者が2人で暮らしていた。
その頃の安政の大噴火で富士山が噴火して、富士山の麓に暮らしていた村人たちは、四方八方に散らばって逃げて行った。
その村人の中でもサクヤという姫は村人たちが大切にしていた青銅鏡をお腹の中に入れて、お付きのミズホと2人で本栖湖畔から山を越えて夜通しかけてソンガソン村まで逃げのびて行った。
そこに村人たちが汚れた2人を見て、村長の武尊の家に2人を預ける事にした。
武尊とキリトはサクヤとミズホから少しだけ訳を聞いて、すぐにお風呂を沸かしてお風呂に入れた。
風呂から出た2人から富士山の麓の様子を聞く事にして2人を暫くの間、世話する事にした。
サクヤという姫のお腹には赤ちゃんが宿っていてすでに産気づいていた。
そこでソンガソン村の週間では赤ちゃんを産む時にはソンガソン村の清水の湧く湧き水のある所で産むとそこで産まれた赤ちゃんは、立派で元気に育つというならましがあり、サクヤも武尊のはからいでそこの清水の湧き水の所で赤ちゃんを産ませて、その清水のある場所には記念碑を建てて、コノハナヤクヤヒメが富士山の噴火によりソンガソン村まで逃げのびてきてここでお産をした。という説明書きを記しておいた。
サクヤとミズホから詳しい話を聞いた武尊とキリトは2人の面倒を見ながら、それぞれを自分の女房にする事にした。
武尊にはミズホ。息子のキリトにはサクヤを嫁にする事にして産まれた女の子はソンガソン村の跡継ぎになる事になった。
富士山の噴火により、ソンガソン村からも
噴煙が見えたり毎日地震が起きていたので
ソンガソン村からも富士山が噴煙をした事はわかっていて、暫く地震が続いたけど地震も噴煙も収まって落ちついてきた頃にはサクヤの娘のニニコも落ちついてきてサクヤはニニコの面倒をみていて、たまに煮炊きや家事をしていてお付きのミズホは薪割りや、職人の仕事のお手伝いをしていた。
ソンガソン村は神秘麗湖の近くの村落にあり村人の仕事はほとんどがキコリをしながら山から獲ってきた材木を自分たちで加工しながら、大工や木工の職人をしながら、兼業農家がほとんどの集落であった。
ソンガソン村には村人は500人程しかいなくて村人全員がみんな親戚であり外部から来たサクヤやミズホは村人からは重宝がられて大切にされていた。
村長の武尊は毎晩、晩酌の席では村人たちと一緒にサクヤとミズホの話を聞いていた。 それでサクヤが大切にしていた青銅鏡の逸話をミズホが詳しく説明していてソンガソン村の人たちも、その青銅鏡(神獣鏡)がどうして大和(日本)にあるのかや、どうして富士山の麓の集落にあったのかなど、古い歴史の説明をしていて村人たちは耳をかたむけていた。
それで富士山の噴火や地震が収まって落ち付きを取り戻したち頃に本栖湖畔の村落で徐福村の村民たちは転々バラバラに別れる時に打ち合わせしておいて狼煙を合図にして連絡を取りあう事にしておいた。
それで本栖湖とソンガソン村の三角地点である大塚古墳で待ち合わせをする事を狼煙の回数で予想しなていた。
ソンガソン村の武尊のはからいで、キリトとサクヤとミズホたちは神獣鏡を持って
山から馬に乗って降ってきて大塚地区の狐塚古墳で待ち合わせを予想して毎日富士山方面から届く狼煙をよく確かめながら
待ち合わせ場所を予測していた。
とある天気の良い日に狐塚古墳で待ち合わせをする事になり本栖湖畔からは富士山から樹海を狩猟をしながら大塚地区まで数人の村人たちで歩いてきて、待ち合わせをした大塚の狐塚古墳に、その神獣鏡を埋めておいて、他の人にわからないようにかなりの深い穴を掘って埋めておいた。
(数百年後)
昭和中期の水上家で少人数として働いていた塩島という大塚の村人は水上家の畑で、
自然薯というナガイモを育てていて、収穫をする時には、長いイモを掘る時は2メートルくらいの穴を掘らなくては収穫できないので、そこで働いていた塩島という使用人が、ナガイモ掘りをしていた時に土の中から、錆びついた青銅鏡を発掘した物の
その青銅鏡がそんなに重要な物だとはわからないでいて、その青銅鏡をお湯を沸かす時の鍋の蓋に使っていたらしく、その青銅鏡はかなり錆びついていたので、鍋の中にリンが入ってしまいそのリンが含まれたお湯を飲んでいた塩島という使用人は、当時の大塚地区では、リンのせいで頭がおかしくなってしまい夜中に騒いだりしてしまい、当時の大塚では、その塩島という使用人にはキツネが取り憑いたとかなり騒ぎになってしまった。
しかしその騒ぎのお陰で国の調査員たちに
その青銅鏡が古来中国で孫権が英雄になった記念に西暦255年、赤烏元年に作らせた青銅鏡である事が判明して、その青銅鏡は今では上野にある考古学博物館に展示されていて、レプリカは山梨県の考古学博物館に展示されてある。
それで2000万円で発掘された神獣鏡を国に買い取って貰った水上家の水上建設はその金で当時は高額だった重機を購入して
水上建設は大きくなったと、同級生の水上本人から高校時代に聞いていた。
それで鏡を見つた、いぶき屋の御先祖の人は200万円しか貰えなくそれで塩島家の人たちは愚痴をこぼしてスネてしまっているようになってしまった。
それで古来のソンガソン村に戻ったサクヤ姫の娘のニニコをキリトと一緒に大切に育てて行った。 ソンガソン村の村長の武尊は
元の女房は若くして亡くなっていたので後妻のミズホと2人で仲良く暮らすようになった。
ソンガソン村の500人程の村人たちは夜になると、晩酌や宴会の席でサクヤ姫とミズホの話を酒の肴にして酔っ払っていた。
サクヤのお付のミズホもサクヤ姫も本栖湖畔の村人たちは全員古来中国の西安王朝から当時の始皇帝の命令で、中国からみて東の国の蓬莱山の麓に不老不死の実があるとされていて、その不老不死の実を探して来い。という始皇帝の命令で徐福という謎の多い人物たちが伝記によると2000人の
天才という少年少女たちを船で日本に渡来してきて、その数千人たちを管理していたのが徐福とされている。
それで日本のあちらこちらの古墳などから徐福のお墓が発掘されていて、中国から来た徐福一族たちは、自分たちの事を徐福と呼んでいたみたいだ。
俺が北海道の何処かを旅している時に、徐福のお墓と書かれた立ち看板を見た事もあったけど、歴史上の人物の中でも謎が多い徐福という人物は中国人で孫権の家臣であると予測はできる。
神獣鏡に孫権という名前が書かれている事から、始皇帝は孫権たちに、金銀財宝や植物の種や神獣鏡など日本にはまだなかった物や稲作などの文化までを日本に持ってきて、三国志時代に曹操軍や劉備軍と闘ってきた孫権軍だったら、争わないで日本古来の豪族たちとも仲良くしながら、北九州の邪馬台国の卑弥呼たちとも交流があった事も予想がつく。
それで数千人の家来を率いて徐福一族は日本の南の九州地方からコミューンという村を作りながら、豪族たちに古墳を作ったり金銀財宝や稲作文化を各地に広めながら各地の豪族たちの古墳にはそれぞれ模様の異なる神獣鏡を埋葬しながら南から蓬莱山の麓を目指しながら旅をしていたようだ。
それで富士山の浅間神社の近くには今でも
徐福村跡地という土地も残っている。
天才とされている徐福一族たちは平安時代のはじめで、まだ狩猟が盛んであった時代に稲作や絹を作る方法などまで日本に伝えながら蓬莱山の麓までかなり長い時間をかけて旅をしてきたけれど、蓬莱山の麓に辿り着いても不老不死の実は見つからなくて、それで徐福たちは、中国の始皇帝に手ぶらで帰る訳にはいかずに、不老不死の実を未完成の未完にかけて、当時の中国にはなかったミカンの事を不老不死の実という事にしておいたみたいだ。
蓬莱山の麓まで辿り着いた徐福たちはおそらく豪族たちに財宝やらをあげてしまい自分たちの財産も尽きてしまったはずで、徐福村という村を作り、富士山の麓の事を新天地とよび、自給自足をしながら暮らしていて、中国に帰る事は既に出来なくなり、部族の中に姫という存在を作り、姫を中心とする村を作っていたと予測できる。
おそらく、富士山の守り神である天照大神という日本のお姫様の正体は、孫権の実の娘で日本名をコノハナヤクヤヒメにして、富士山のお姫様に徐福たちがしたのだと思う。
(余談になるけど)
コノハナヤクヤヒメというお姫様は孫権の実の娘であり、孫権の娘だからお姫様という訳で、平安時代の富士山の麓には日本の人たちも少なかったに違いなく、頭の良い徐福村の人たちは、日本の地元の氏子の富士山新興などとは別のオリジナルの富士山新興を築いて、孫権の実の娘をコノハナヤクヤヒメという名前にして孫権の家臣の中で孫権に実直な誰かと、コノハナヤクヤヒメの間に子供を作らせて、その産まれてきた赤ちゃんに、孫権の鏡の赤烏元年鏡という一番古い青銅鏡を託していたから、
山梨県の大塚や豊富村や中道町にある曽根丘陵などの一体には、日本の縄文時代に栄えた大塚古墳という古墳がいくつもあり、王家の墓として、埋葬品等を簡単に発掘させないように、クフ王などピラミッドみたいな、迷路みたいな、大塚古墳という古墳が現在の三珠町の大塚には実際に残っていて現在では葡萄畑や大塚人参の名産地になっていて、土が柔らかく上質な土の事をノップイと呼び、大塚の周囲には縄文時代の矢じりや縄文時代に使っていた土器の破片などが、簡単に見つける事もできて、薬袋さんという家からはアイヌの紋様の石畳なども発見されて、日本の縄文時代の原始人の人たちの事を縄文語でアイヌと呼んでいて、山梨県では今でも縄文時代そのまんまの骨格をした人たちも、普通に暮らしている。
だから俺が北海道を旅していた時札幌にある五稜郭や、名寄市に住んでいたアイヌの人たちは、北海道の開拓時代に迫害されて北海道のアイヌの人たちだけのコミューン(村)だけに集まって平和に暮らしていて、
縄文人(アイヌ)の人たちは、温厚で優しく、争いを好まない保守的な人たちであり、山梨県ではそんな縄文人たちしか山梨県内には存在していなかった。
そこに弥生人(渡来人)という中国人や新羅の国(朝鮮)の百済人たちなどのアジアから、平和時代に日本に渡来してきた人たちが、山梨県内には多く、巨摩郡という地名には巨摩の人(朝鮮や韓国から移民してきた人たち)が今の南アルプス市には多く暮らしている。
だから日本に来た弥生人たちは、徐福たち一族の西安王朝から来た人たちで、それで山梨県の豊富村にはシルクの里という地名があり、シルクロード(古来の中国)から絹を生産する繭の事をシルクと呼ぶこともあり、山梨県には古来の中国人たちが弥生文化を日本中に広めて行ったと予測ができる。
それで富士山が昔に大噴火したのをさかいに、四尾連湖の近くにある山家という集落には、富士の麓から逃げてきたコノハナヤクヤヒメが赤ちゃんを産んだとされる湧き水の清水が残っている。
孫権の話になるけれど、なんで孫権が赤烏元年に作らせた青銅鏡が日本にあるのかは先程書いたのだけど、孫権という英雄は古来中国の呉の国の皇帝になり今でいう、上海や南京などが孫権の領土であり、
中国では赤鳥元年が西暦238年でその年に作られた考古学の中でも一番古い青銅鏡とされていて学者の人たちの間でもかなり謎が多い鏡とされていて、その赤烏元年鏡の逸話によると、その鏡を持っている人物は国の君主とされている。それで君主とは孫権の事だから、日本になんで孫権の鏡があるとすれば、西安も確か孫権の領土だと思うので孫権の家臣や孫権の実の子供たちも
孫権の命令で日本に徐福たちと一緒に渡来人してきたはずである。
だから蓬莱山の麓まで不老不死の実を探し求めてはるばる中国から来たものの、そんな物はないとわかり、とりあえずミカンを不死不死の実としておいて、徐福たちは中国に帰る事はできなくて富士山の麓に村を作り生活していたけど、日本でわ平安時代に富士山の大噴火により、徐福村で大切にされていた孫権の鏡を他の人物に持たせる訳にはいかないはずで孫権の実の息子か娘に持たせていたはずで、山家地域のコノハナヤクヤヒメが赤ちゃんを産んだという、建て看板から推測すれば女のはずなので
コノハナヤクヤヒメという姫の正体は孫権の娘に違いなくこの物語のなかでは、ニニコという名前を作者である私がつけているけれど実際の人物の名前とストーリーの中で私がつけている名前などがあるけれど、実際の歴史上の実話をもとにして書いているけれど実際の人数や時代の背景などの
不一致は大目に見て頂きたい。
この物語は私が20年も前から独学で勉強して書いているけれど山梨県内や日本中を旅しながらたまたま見つけた立て看板や名所などや図書館にあった古い文献から引用して書いています。
話はそれますが、作者がとても言いたい事は新羅三郎義光という実際の武将も平安時代にこの市川大門に常陸那珂市から平塩の丘に家来を連れてやってきて甲斐源氏発祥の地と市川大門は平安時代には源氏の土地になっていて甲斐の国の時代には新羅三郎義光という武将が山梨県全体を統括するようにと当時の宮家からの命令で山梨県に入ってきているけれど古文書によると新羅三郎義光という武将は清和天皇の孫にあたり
現在の皇族の偉い人たちとも血縁関係もあるはずだけれども、平安時代に一般人にはまだ苗字がなかったはずで、住んでいる地名が苗字の変わりになっていた時代で、例えば古倉という地名の新右衛門さんの場合は、古倉の新右衛門さんという呼び方をしていてその時代に新羅という苗字がついているという事は朝鮮の昔の呼び方は百済とか高句麗とか新羅という国があるから新羅三郎義光という方は朝鮮の新羅の国と関係がないはずはないと古文書を呼んで思った。家の物置きでは江戸時代よりも前の平安時代から古文書に使う和紙を漉いていて
青州文庫というかなり古い文献の本は、関東大震災により東京大学が被災して東大の
図書館の本がなくて市川大門にあった青州文庫の本が東大の図書館に寄付されている程の難しい古文書であるけれどそういう文献を書いていたのは平安時代の宮家から来た新羅三郎義光というその時代の征夷大将軍やその家臣の源義経や源氏の家臣たちが平塩の丘にある平塩寺や神社の中で書いていた古い文献が青洲文庫であり、家の御先祖様たちはそういった古文書の和紙を漉いていたはずで御先祖様たちは漉いた和紙に自分たちでも市川大門に関わる文章を書いていないわけはなく、村松家の御先祖様たちと新羅三郎義光という武将やその家臣たちと戦略結婚をしているはずで、園立寺という村松家の菩提寺の一番古い家系図をかなり前に調べて見たけれど時代はわからないけれど一番古い御先祖様の戒名には
「法捨何何 」とありそれ以降の戒名には加賀美石材店という墓石を作っている会社の人に色々聞いた事があるけれど家のお墓にある村松家の家紋のルーツを調べていた時に、加賀美石材店の方は「出が違う」という言い方をしていたので私は西安王朝の屋根瓦の家紋と似ていて「丸に六曜」という家紋で家紋全集というのにもどこにも村松家のルーツがなくて村松という苗字もまだ新しく平安時代より後の時代は古倉の何何さん。という言い方をしたらしく村松という苗字もあて字であるから苗字でルーツを調べても無意味であり家のルーツは家紋によると西安王朝の家紋と同じなので、孫権が中国の皇帝になった時に西安王朝から2000人の天才児たちを連れて来ているのでその中の西安王朝からの中国人たちや、孫権の実の子供や家臣の子供たちも徐福が
富士山の麓に来ている事から孫権の子供たちと、平安時代に常陸那珂市からやって来た新羅三郎義光の子供たちや元々の市川大門の原住民であった古倉を名乗っていた頃の御先祖様たちの子供同士を結婚させていたから、戒名に園立寺の住職たちも宮家と深い関係がある事を知って偉い戒名をつけない訳にはいかなかったという事で名前や地名や古文書の中から、家の御先祖様たちは、元々の古倉時代の人たちと平安時代に常陸那珂からやってきた甲斐源氏の開祖である新羅三郎義光という源頼朝みたいな武将たちの子供と、更に孫権関係の西安王朝や孫権の子供たちとの結婚の間で産まれてきた村松家の御先祖様たちは相当のエリートであり、俺が新羅三郎義光みたいに、多才で文武に秀でていて多趣味で多才であると高校時代から自分でも他の人たちに比べて多趣味で多才である事が新羅三郎義光という武将に似ていると思い、村松家の和紙漉き職人の職人気質な性質と武将と言っても武田信玄公とも御先祖様たちは一緒であり、更に孫権や西安王朝の血筋も混ざっていると推測できるので平安時代には、縄文人のDNAと孫権のDNAや新羅三郎義光のDNAという混血であり、日本と朝鮮と中国の混血であると自分では思ってきた。
だから日本人以外でも朝鮮人でも韓国人でも中国人でもなんのへだたりもなくコミュニケーションがとれるほうだと思っている。それで俺は前々から日本人と中国人と朝鮮人のクウォーターだと言う言い方を
たまにしていた事もあった。
というわけで俺の御先祖様たちがとんでもない武将の人や孫権の実際の娘たちと子供同士を結婚させていたと考えられるので俺は日本と中国と朝鮮人の混血であるというわけだ。
それでソンガソン村に逃げのびたサクヤの娘のニニコなのだけどサクヤ自体が孫権の娘でありニニコの父親は徐福村の中の村人の長だったと考えられる。
ニニコは孫権の孫になるわけでサクヤは大切なニニコを産むために本栖湖畔からお腹の中に神獣鏡を入れてソンガソン村まで逃げてきて富士見の噴火が収まった頃に麓の生き別れになった徐福村の人たちと三角地点の大塚で待ち合わせをした時にそこに神獣鏡を埋めておいたとしか考えようはない。それが平安時代であるから昭和の中期に大塚の塩島さんが自然薯を掘っていたら
錆びついた青銅鏡を掘りあてたという事は実際にあった話だ。
サクヤやお付きのミズホや徐福村の村人たちは久しぶりの再会をはたしておそらく自分たちの集落のソンガソン村に招いて宴を開いていたと考えられる。
それでソンガソン村の村長の武尊やキリトたちと酒を飲んで盛り上がっていたとも言える。
それでソンガソン村でニニコは大きくなって、たまに市川大門まで買い物や何かで降りて来なくてはならないのでサクヤ姫とミズホとニニコの三人で市川大門まで買い物や食事に来た時に平安時代でわ家の御先祖様が村長だったはずなのでやはりまた子供同士を結婚させたと思うので、それで平安時代に村長だった村松家の子供と孫権の孫にあたるニニコが結婚していたとも充分に考えられる。それで俺の体の中には孫権の血も流れていると思っていた。
数年前に俺が上海に行ったけど、上海は孫権の領土でタクシー外車には曹操タクシーなんてのがあったけど上海周辺は確実に孫権の領土で孫権がかなりもてはやされているような感じであった。 それで権さんという警察官にも公安局にも顔がきく人で権さんの顔つきは凛々しくていかにも孫権の子孫であっても不思議ではなさそうで初対面だったけどDNAでか不思議となんか懐かしい感じがしていたなんか身近な懐きやすい雰囲気がした。それで知り合いなんか1人もいない上海で日本人も大使館には自民党の(なんとか武さん)という人と領事の降籏さんと事務員の女の人の3人しか日本人とわかる人はいなかった。それで権さんと降籏さんと俺の3人でパスポートの変わりに渡航証明書を発行してもらう為に中国政府が管理していた入国管理局に行ったけどスタッフ全員が制服を着ている警察官であったがそこの警察官と親しそうに権さんは話をしていてかなりショートカットで渡航証明書を発行してもらった。そこの帰りに道端で現地の人が竹細工のカエルの置き物を販売していて無事カエルという願かけでそのカエルの置き物を中国の一番のおみやげにして大切にしてある。
俺と降籏さんと権さんの3人は西遊記でいうとすれば俺が孫悟空のサルで降籏さんが沙悟浄のカッパで権さんは猪八戒のブタになり三蔵法師は空海様であり俺が若い時に和歌山県の高野山に出家をして修行をしていた時に開経偈というお大師様の命日か誕生日の日があり俺は南無大師遍照金剛を七回唱えた時に自分の心の声で「私を唐(中国)に連れていってもらいたい。」とお大師様が言ったような気がして俺も中国に行きたかったので上海市内のホテルのベッドの上で困った時には真面目に真言宗のお題目
を唱えてかなり困難に巡りあっていたけど度重なる困難も何となくお大師様が助けてくれた様な気がした。
お大師様も中国に行けて嬉しかって俺の
事を助けてくれていたと思った。
若い頃に俺が高野山に出家した時の真言宗の僧名が建仙であって師匠の宝珠院の廣瀬先生につけてもらった僧名が建仙といい義仙の仙の字をもらったけど当時の俺は仏師になろうとして出家したけど在家坊主で実家がお寺ではないからやっぱりいいやとお山を降りてきてしまった。
それからは三日坊主でいいやと僧名は捨ててしまって俗世間でも修行みたいな苦しい事はあるから俗世間で苦し時に乗りこえる事を修行として釈尊(ブッダ)の教えは聞かない事にして独学で神儒仏を学んで老師の道教の陰と陽や孔子の儒教の本を呼んでいて25歳くらいのNHKで働いていた時に渋谷の西原のアパートで寝ていた時に (女の人の声で)「せいじんくんし」と言う声がはっきり聞こえてきて俺は変換して「聖人君子」だろうと紙に書いて貼っておいた事があり
なんか「聖闘士星矢」みたいだなって思った。当時まだNHKで働いている最中で当時の西原のアパートではかなり不思議な現象を体験してしまい、なんかどうでもよくなってしまった事もあり色んな理由でNHKを退職してフリーランスという道を選択した。フリーランスならなんでもできるし束縛されないで自分で自由に動けるからフリーランスを選んで自分の好きな事しかやらないようにしてきている。
西遊記では色んな比喩が使えて俺は中国で
蛇頭を習主席の手のひらの上で転がしているような挿し絵を書いていたりしていた。
俺は白い虎 、風水学で(白虎)を中国になぞらえて上海の空港のロビーで白い虎の人形を買ってきて俺の手のひらの上で中国を転がしてやってやるパフォーマンスをしたら大使館関係者と思われる日本人なのか中国人なのか区別がつかない人たちを笑わせて緊張を解いていたけど中国ではかなり緊張しているかなりの難関を突破してきて、儒教でいう「仁智勇」という憂いと知識と勇気を三種の神器とされる東洋の思想をもとに中国でも困難を乗り越えてきたので、
ここ4.5年間でかなり以前より大人になっていて、たまに自分でロケをしていて編集しながら自分を見ているとたまに自分の姿がデカく巨人みたいに見える時がたまにあるけど身長や体重は変わっていないけどたまなに自分の姿がやけに(デカい)と思う時があるけど男塾の中で大豪院邪鬼が富樫に比べたら富樫は邪鬼の掌くらいしかないとか、ビールジョッキがでかすぎる。とかみたいにたまに自分がデカく見えてしまう時もあるがそういうのは単なる錯覚だと思う。
男塾の中では俺は富樫源治や虎丸竜二と伊達臣人の3人が好きで殺し合いの闘いをしたあとにインチキくさい中国人が必ずでてきて翌週には生き返らせてしまい結局闘った者同士が味方になって行くという男塾の作者の宮下先生の作品はかなり好きでよく中国のインチキ名鑑書が出てきて子供の頃は本当かと思って少年ジャンプをよく読んでいた。
中国に行っていた時に困難に遭遇した時は老酒をよく飲んで仁知勇の中でも仁が大切で儒教や道教に出てくる教えなので法律とはまた別の教えの道徳で北朝鮮人の人道支援の時には人を思いやるという仁が一番大切であり、知は知識なのでそれ程難しくはなく勇気は兼ね備えていると思うのでやはり仁の人を思いやるというのが一番難しかったけど中国では仁という思いやりを持った優しい人が多かったようにも思えた。
中国では宗教はそれ程なくて老子の道教や儒教の教えが根強くてキリスト教などはまったく知られていないようであった。
仏教もそれ程浸透していなくて龍と虎のキャラクターはかなりあって西遊記の孫悟空のサルはかなり人気があって西遊記が一番人気があったようで道端では堂々とキャラクターやら偽ブランドのコピー商品が販売されていた。中国でのコピー商品や偽商品は半端ではなくツッコミの宝庫だと思った。
上海市内の貿易ビルでは見た事もない高級車に乗ったスーツ姿の男の人がいて人間観察をしていたけどそのビルを設計したビルのデザイナーみたいな人がいたけどNHKの特番に出ていそうな達人クラスのツワモノもいた。さすが中国で人口が多いのと土地が広すぎると思ったから中国は管理する事が出来ないみたいで個人的に子供の教育でおそらく道徳をかなり教えているようであったけど泥棒はかなり多かったのでピリピリしていて隙をみせると盗まれるという危ない国でもあった。
北斗の拳でもケンシロウが1人で中国に渡りシャチたちと仲良くなるというのがある。北斗の拳の胸にはシンに入れられた北斗七星が入っているけどあれを見て俺は若い時に左の方にマリファナのタトゥーを入れたけどいつでもとれるように小さくしておいたのも狙いだったけどアメリカではとても受けて(ナイス)とか(シャープ)頭がキレると褒めてもらっていて日本はまだまだアメリカやヨーロッパに比べたら送れている
とよく思った。



