その日は、最初からどこかおかしかった。
朝から屋敷の空気が張り詰めている。
使用人たちの動きも、いつもより慌ただしい。
「本日の会合ですが」
義母が、珍しく直接声をかけてきた。
「一真にとって重要な場になります」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
「あなたも同席しなさい」
「……はい」
頷きながら、胸の奥に小さな緊張が生まれる。
重要な場。
つまり、“失敗は許されない”。
会場は、都内でも限られた者しか入れない格式高い場所だった。
政界、財界、メディア。
多くの視線が交錯する空間。
私は一真の隣に立つ。
“妻”として。
それが、役目。
「……離れるな」
低く告げられる。
一瞬、息が止まる。
「はい」
小さく返事をする。
その言葉だけで、胸がわずかに温かくなる。
――隣にいろ、と言われた。
ただそれだけなのに。
会合が始まる。
緊張感のあるやり取り。
慎重に選ばれる言葉。
私は静かに、隣でそれを支える。
視線を感じる。
評価されているのがわかる。
それでも、崩さない。
“完璧な妻”でいるために。
そのときだった。
会場の入口が、わずかにざわつく。
視線が一斉に向く。
嫌な予感が、走る。
――来た。
西園寺薫。
ゆっくりと歩いてくるその姿は、場の空気すら変えてしまうほどだった。
そして。
迷いなく、こちらへ向かってくる。
「お久しぶりです」
柔らかな声。
一真の前で、足を止める。
「……来ていたのか」
一真の声が、わずかに変わる。
あのときと同じ。
私には向けられない響き。
「ええ。急に帰国が決まりまして」
自然な笑み。
その距離感が、あまりにも近い。
「ご挨拶だけでもと思って」
そう言って、彼女は一歩、さらに近づいた。
気づけば。
一真の視線は、彼女に向いている。
完全に。
私は、そこから外れていた。
「……少し、話せるか」
一真が言う。
その一言で、世界が揺れた。
「はい、もちろん」
薫は迷いなく頷く。
そして。
何の躊躇もなく。
一真の腕に、そっと触れた。
その仕草は、あまりにも自然で。
まるで、昔からそうしてきたかのように。
「行こうか」
二人が、歩き出す。
並んで。
迷いなく。
私は――
置いていかれた。
その場に。
一人で。
「……あの」
声をかけようとして、やめる。
何を言うのか。
引き止める資格なんて、ない。
私はただの“妻”。
形式だけの存在。
彼にとって、本当に必要なのは。
あの人。
はっきりと、理解してしまう。
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
会場のざわめきが、遠くに聞こえる。
視線が痛い。
「あれが東條の奥様?」
「一人にされているのね」
「大丈夫かしら」
ひそやかな声。
全部、聞こえている。
それでも、動けない。
足が、動かない。
胸の奥が、ひどく冷たい。
やがて。
二人が戻ってくる。
何事もなかったかのように。
自然な距離で。
「……待たせたな」
一真が言う。
その言葉に、思わず顔を上げる。
「……いえ」
声が、うまく出ない。
何もなかったように振る舞う。
それが“正解”だから。
「もう戻るぞ」
それだけ言って、彼は歩き出す。
今度は、私の方を見もせずに。
ついていくしかない。
それが、私の役目だから。
帰りの車の中。
沈黙が重い。
何も言えない。
何も言ってはいけない。
そのとき。
「今日はよくやった」
一真が、ぽつりと言った。
一瞬、理解できなかった。
「……はい?」
思わず聞き返してしまう。
「問題はなかった」
それだけ。
評価。
ただの評価。
――違う。
今、欲しいのは、そんな言葉じゃない。
どうして。
どうして何もなかったみたいに言えるの。
どうして。
あの人を選んだことを、何とも思っていないの。
「……ありがとうございます」
それでも、そう答えるしかない。
感情を押し殺して。
“妻”として。
完璧に。
部屋に戻った瞬間。
力が抜けた。
その場に、座り込む。
「……ああ」
小さく、声が漏れる。
もう、無理だ。
わかっていたはずなのに。
期待してしまった。
少しでも。
近づけたのではないかと。
違った。
全部、違った。
あの人にとって、特別なのは。
最初から――
私じゃない。
胸が、痛い。
息が、苦しい。
それでも、涙は出なかった。
ただ、静かに。
何かが壊れていく。
音もなく。
確実に。
「……終わった」
ぽつりと呟く。
この恋は、最初から終わっていた。
それを、ようやく認めただけ。
私は、“選ばれない側”の人間だ。
どれだけ想っても。
どれだけ尽くしても。
その事実は、変わらない。
静かな部屋の中で。
私はただ、動けずにいた。
心が、完全に折れる音を。
確かに、聞いてしまったから。
朝から屋敷の空気が張り詰めている。
使用人たちの動きも、いつもより慌ただしい。
「本日の会合ですが」
義母が、珍しく直接声をかけてきた。
「一真にとって重要な場になります」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
「あなたも同席しなさい」
「……はい」
頷きながら、胸の奥に小さな緊張が生まれる。
重要な場。
つまり、“失敗は許されない”。
会場は、都内でも限られた者しか入れない格式高い場所だった。
政界、財界、メディア。
多くの視線が交錯する空間。
私は一真の隣に立つ。
“妻”として。
それが、役目。
「……離れるな」
低く告げられる。
一瞬、息が止まる。
「はい」
小さく返事をする。
その言葉だけで、胸がわずかに温かくなる。
――隣にいろ、と言われた。
ただそれだけなのに。
会合が始まる。
緊張感のあるやり取り。
慎重に選ばれる言葉。
私は静かに、隣でそれを支える。
視線を感じる。
評価されているのがわかる。
それでも、崩さない。
“完璧な妻”でいるために。
そのときだった。
会場の入口が、わずかにざわつく。
視線が一斉に向く。
嫌な予感が、走る。
――来た。
西園寺薫。
ゆっくりと歩いてくるその姿は、場の空気すら変えてしまうほどだった。
そして。
迷いなく、こちらへ向かってくる。
「お久しぶりです」
柔らかな声。
一真の前で、足を止める。
「……来ていたのか」
一真の声が、わずかに変わる。
あのときと同じ。
私には向けられない響き。
「ええ。急に帰国が決まりまして」
自然な笑み。
その距離感が、あまりにも近い。
「ご挨拶だけでもと思って」
そう言って、彼女は一歩、さらに近づいた。
気づけば。
一真の視線は、彼女に向いている。
完全に。
私は、そこから外れていた。
「……少し、話せるか」
一真が言う。
その一言で、世界が揺れた。
「はい、もちろん」
薫は迷いなく頷く。
そして。
何の躊躇もなく。
一真の腕に、そっと触れた。
その仕草は、あまりにも自然で。
まるで、昔からそうしてきたかのように。
「行こうか」
二人が、歩き出す。
並んで。
迷いなく。
私は――
置いていかれた。
その場に。
一人で。
「……あの」
声をかけようとして、やめる。
何を言うのか。
引き止める資格なんて、ない。
私はただの“妻”。
形式だけの存在。
彼にとって、本当に必要なのは。
あの人。
はっきりと、理解してしまう。
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
会場のざわめきが、遠くに聞こえる。
視線が痛い。
「あれが東條の奥様?」
「一人にされているのね」
「大丈夫かしら」
ひそやかな声。
全部、聞こえている。
それでも、動けない。
足が、動かない。
胸の奥が、ひどく冷たい。
やがて。
二人が戻ってくる。
何事もなかったかのように。
自然な距離で。
「……待たせたな」
一真が言う。
その言葉に、思わず顔を上げる。
「……いえ」
声が、うまく出ない。
何もなかったように振る舞う。
それが“正解”だから。
「もう戻るぞ」
それだけ言って、彼は歩き出す。
今度は、私の方を見もせずに。
ついていくしかない。
それが、私の役目だから。
帰りの車の中。
沈黙が重い。
何も言えない。
何も言ってはいけない。
そのとき。
「今日はよくやった」
一真が、ぽつりと言った。
一瞬、理解できなかった。
「……はい?」
思わず聞き返してしまう。
「問題はなかった」
それだけ。
評価。
ただの評価。
――違う。
今、欲しいのは、そんな言葉じゃない。
どうして。
どうして何もなかったみたいに言えるの。
どうして。
あの人を選んだことを、何とも思っていないの。
「……ありがとうございます」
それでも、そう答えるしかない。
感情を押し殺して。
“妻”として。
完璧に。
部屋に戻った瞬間。
力が抜けた。
その場に、座り込む。
「……ああ」
小さく、声が漏れる。
もう、無理だ。
わかっていたはずなのに。
期待してしまった。
少しでも。
近づけたのではないかと。
違った。
全部、違った。
あの人にとって、特別なのは。
最初から――
私じゃない。
胸が、痛い。
息が、苦しい。
それでも、涙は出なかった。
ただ、静かに。
何かが壊れていく。
音もなく。
確実に。
「……終わった」
ぽつりと呟く。
この恋は、最初から終わっていた。
それを、ようやく認めただけ。
私は、“選ばれない側”の人間だ。
どれだけ想っても。
どれだけ尽くしても。
その事実は、変わらない。
静かな部屋の中で。
私はただ、動けずにいた。
心が、完全に折れる音を。
確かに、聞いてしまったから。



