手放したはずの妻を、もう一度愛してもいいですか

朝の光が、やけに眩しかった。

ほとんど眠れないまま迎えた朝。
鏡の中の自分は、いつも通り整っているのに、目の奥だけが少しだけ違って見える。

――考えないようにしよう。

そう決めたはずなのに。

昨夜の光景が、何度も頭に浮かぶ。

自然に笑い合う二人。
迷いのない距離。
共有してきた時間。

「……違う」

小さく呟く。

私は、あそこには入れない。

最初から、わかっていたことだ。

それでも。

「……どうして」

胸が、こんなにも痛むのか。

朝食の席。

いつも通りの光景。
義父と義母。
そして、向かいに座る一真。

何も変わっていないはずなのに。

距離だけが、やけに遠く感じた。

「本日の予定ですが――」

義母の声が続く。

私は頷きながら、内容を頭に入れていく。

“妻としての役目”。

それだけに集中すればいい。

感情は、邪魔になる。

「……遥」

不意に、名前を呼ばれる。

顔を上げると、一真がこちらを見ていた。

一瞬、呼吸が止まる。

「午後、時間はあるか」

「……はい」

反射的に答える。

「なら、同行しろ」

それだけ言って、再び視線を外す。

命令のような言葉。

けれど。

“必要とされた”という事実が、胸を揺らす。

――やめて。

そう思うのに。

心は、勝手に反応してしまう。

午後。

向かったのは、支援者との非公式な打ち合わせの場だった。

会議室の隅に控えながら、私は静かに話を聞く。

交わされる言葉。
交錯する思惑。

自然と頭の中で整理されていく。

――この流れだと、次の質問は厳しくなる。

――発言の順番を変えた方がいい。

気づけば、指先に力が入っていた。

言いたい。

けれど、言えない。

そのとき。

「……どう思う」

低い声が、隣から落ちてきた。

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「え……?」

「今の話だ」

一真は、こちらを見ている。

初めてだった。

“意見”を求められたのは。

「……発言の順序を、少し変えた方がいいかと」

戸惑いながらも、言葉にする。

「先に結論を出してから理由を述べた方が、印象が強くなると思います」

言ってから、息を止める。

出過ぎたことを言ったかもしれない。

けれど。

「……なるほど」

一真は短く頷いた。

否定されなかった。

それだけで、胸が熱くなる。

その後、彼は実際に話し方を変えた。

そして――場の空気が、わずかに変わる。

うまくいった。

その事実に、心が震える。

帰りの車の中。

沈黙が続く。

何か言うべきか迷っていると、

「さっきの」

一真が口を開いた。

「悪くなかった」

その一言に、息が止まる。

褒められた。

初めて、明確に。

「……ありがとうございます」

声が、少し震える。

それでも抑えきれない。

嬉しい。

こんなにも。

「次も同じようにやれ」

続く言葉。

それは命令の形をしているけれど、

“期待されている”ようにも聞こえた。

「……はい」

頷く。

胸の奥が、じんわりと温かくなる。

その夜。

部屋に戻り、静かに座り込む。

心臓の音が、まだ落ち着かない。

「……どうして」

わかっている。

あの人にとっては、ただの評価の一つ。

合理的に判断して、必要だから言っただけ。

特別な意味なんて、ない。

それでも。

名前を呼ばれたこと。
隣に立つことを許されたこと。
意見を求められたこと。
そして――褒められたこと。

その一つ一つが、積み重なっていく。

消そうとしても、消えない。

「……無理、だ」

小さく呟く。

もう、認めるしかない。

私は、この人を――

好きになっている。

報われないとわかっているのに。

隣にいるべき人が、別にいると知っているのに。

それでも。

どうしても、止められない。

期待してしまう。

ほんの少しでも、可能性があるのではないかと。

馬鹿だと思う。

それでもいい。

この感情は、もう消えない。

静かに、深く。

心の奥に根を張ってしまった。

――それでも、好きだった。

どれだけ傷つく未来が待っていても。

私はきっと、この想いを手放せない。

そう、わかってしまったから。