手放したはずの妻を、もう一度愛してもいいですか

その知らせは、あまりにも静かにやってきた。

「来週の会食、同席していただきます」

朝食の席で、義母が淡々と告げる。

「相手は西園寺家のご息女。久々に日本へ戻られたそうです」

箸を持つ手が、わずかに止まる。

西園寺――

どこかで聞いた名前。

いや、違う。

“知っている”。

「……西園寺、様」

思わず復唱してしまう。

その瞬間、義母の視線がわずかに動いた。

「ええ。あなたも一度、顔を合わせているはずでしょう?」

心臓が、大きく鳴った。

――あの人だ。

東條一真の、元婚約者。

昨日の、あの女性。

「正式な場での顔合わせになります」

義母は続ける。

「東條の妻として、恥のない振る舞いをなさい」

「……承知いたしました」

声が、少しだけ硬くなる。

一真は何も言わない。

ただ静かに食事を続けている。

まるで、その話題に興味がないかのように。

それが、逆に胸を締めつけた。

会食の日。

選ばれたドレスに袖を通しながら、鏡の中の自分を見る。

完璧に整えられた姿。

けれど、その中身はまるで整っていない。

「……大丈夫」

小さく呟く。

これは“役目”だ。

個人の感情を持ち込む場所ではない。

そう言い聞かせて、会場へ向かう。

そこには、すでに彼女がいた。

西園寺薫。

変わらず、美しかった。

華やかで、迷いのない佇まい。
その場の空気を自然に支配する存在感。

「お久しぶりです」

彼女は微笑む。

まるで旧知の仲であるかのように。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

形式通りに挨拶を返す。

その横で――

「……久しぶりだな」

一真が、静かに口を開いた。

その声に、わずかな変化があった。

普段の無機質な響きとは違う、ほんの少しだけ柔らかい音。

「ええ、本当に」

薫は嬉しそうに微笑む。

そのやり取りを見ているだけで、胸の奥が冷えていく。

――違う。

私に向けられるものとは、明らかに違う。

それが、はっきりとわかってしまう。

「お二人とも、お変わりなくて安心しました」

薫の言葉は柔らかい。

けれどその奥にあるものを、私は感じ取ってしまう。

余裕。
確信。
そして――“自分が特別だという自覚”。

「こちらの方が、奥様?」

視線が向けられる。

逃げ場はない。

「はい。妻の遥です」

一真が、簡潔に紹介する。

それだけ。

それ以上の言葉はない。

その事実が、妙に重く感じられた。

「はじめまして。西園寺薫と申します」

にこやかな笑顔。

完璧な挨拶。

けれど。

「お話は伺っています」

続く言葉に、わずかな棘が混じる。

「とても“お似合いのご結婚”だったと」

その一言に、意味が含まれていることは明白だった。

――政略として、という意味。

「ありがとうございます」

笑顔を崩さずに答える。

ここで揺らぐわけにはいかない。

どれだけ心がざわついても。

食事が始まる。

会話の中心は、自然と二人に移っていった。

過去の話。

共通の知人。

海外での出来事。

私の知らない時間。

私の知らない一真。

「覚えてる?あのとき――」

薫の言葉に、

「ああ」

と、一真が頷く。

そのやり取りは、とても自然で。

長い時間を共有してきた人同士のものだった。

私は、ただそこにいるだけ。

会話に入ることもできず、
入る資格もないような気がして。

「……遥さんは?」

不意に話を振られる。

「一真と、どんな時間を過ごしているの?」

言葉に詰まる。

どんな時間――?

思い浮かぶのは、静かな食卓と、短い会話。

そして、触れられた一瞬の記憶。

それを、どう言葉にすればいいのかわからない。

「……日々、支えさせていただいています」

無難な答え。

それしか言えなかった。

「そう」

薫は微笑む。

けれどその目は、すべてを見抜いているようだった。

会食が終わる頃には、心はすり減っていた。

帰りの車内。

沈黙が流れる。

何か言うべきか、迷う。

けれど言葉が出てこない。

そのとき。

「……気にするな」

一真が、ぽつりと呟いた。

一瞬、息が止まる。

「何のことですか」

わかっているのに、聞き返してしまう。

「今日のことだ」

それだけ。

説明もない。

けれど。

「……はい」

そう答えるしかなかった。

気にするなと言われて、本当に気にしないでいられるほど、私は強くない。

それでも。

その言葉に、わずかに救われてしまう自分がいる。

――優しい、と思ってしまう。

こんな状況なのに。

屋敷に戻り、部屋に入る。

ドレスをほどく手が、少し震えていた。

鏡の中の自分は、変わらず整っている。

けれど、内側はぐちゃぐちゃだ。

「……違う」

ぽつりと呟く。

今日、はっきりとわかった。

あの人にとって、特別なのは。

私ではない。

過去を共有し、自然に笑い合える存在。

名前を呼び合い、迷いなく言葉を交わせる関係。

それが、本来隣にいるべき人。

――私は、違う。

わかっていたはずなのに。

どこかで、期待していた。

ほんの少しでも、近づけたのではないかと。

あの夜の会話も。
名前を呼ぶことも。

全部。

ただの“錯覚”だったのかもしれない。

胸の奥が、じわりと痛む。

静かに、確実に。

築き始めていたものが、崩れていく。

この距離は、やっぱり埋まらない。

そう思い知らされた夜だった。