夜は、思っていたよりも静かだった。
東條家の広い屋敷は、昼間の張り詰めた空気とは違い、どこか息を潜めているように感じる。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく響いていた。
眠れなかった。
理由は、わかっている。
昼間のこと。
そして、ここ数日で積み重なってきた、ほんのわずかな変化。
たった一言。
たった一度の接触。
それだけで、こんなにも心が揺れるなんて。
「……少し、外に」
気分を落ち着けようと、そっと部屋を出る。
廊下は薄暗く、足音を立てないように歩くと、まるで自分がこの家の“異物”になったような気がした。
そのまま庭へと出る。
雨はもう止んでいた。
濡れた石畳が、月の光をぼんやりと反射している。
ひんやりとした空気が、熱を持った思考を少しずつ冷ましてくれる。
「……綺麗」
思わず、そう呟いた。
昼間とは違う表情の庭。
誰もいない静けさ。
ここなら、少しだけ“妻”であることを忘れられる気がした。
「こんな時間に何をしている」
背後から声がして、心臓が跳ねる。
振り返ると――そこにいたのは、一真だった。
「……申し訳ありません」
反射的に頭を下げる。
「眠れなくて、少しだけ外に」
正直に答えると、彼は数秒だけこちらを見ていた。
その視線に、落ち着かなくなる。
「体を冷やすな」
短く言って、彼は隣に立った。
驚いて、息を止める。
距離が、近い。
昼間とは違う、静かな夜の中で。
二人きりで並んでいることが、現実味を帯びない。
「……失礼いたします」
離れようと一歩下がろうとした瞬間、
「そのままでいい」
静かに、制される。
一瞬、意味がわからなかった。
「え……」
「どうせすぐ戻る」
それだけの理由。
けれど、“隣にいることを許された”という事実に、心が強く揺れる。
結局、そのまま動けなくなった。
沈黙が落ちる。
気まずいはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――どこか落ち着く。
「……こういう場所は、嫌いじゃない」
ぽつりと、一真が言った。
思わず顔を上げる。
彼の方から、話題を出すなんて思っていなかった。
「静かで、余計なものがない」
確かに彼らしい言葉。
「……はい。私も、落ち着きます」
少しだけ、自然に返せた気がした。
会話が、続いている。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
「昔からか」
「……え?」
「そういう場所を好むのは」
問われていることに気づき、少しだけ考える。
「……はい。子どもの頃から、あまり賑やかな場所は得意ではなくて」
「そうか」
短い返事。
けれど、ちゃんと聞いてくれている。
それがわかるだけで、嬉しくなる。
「……一真さんは」
言いかけて、はっとする。
今、自分は――
「すみません」
慌てて言い直そうとする。
けれど。
「……構わない」
一真が、静かに言った。
「その呼び方でいい」
一瞬、時間が止まった。
名前で呼ぶことを、許された。
それだけのことなのに、胸が強く鳴る。
「……一真さんは、昔からですか」
声が少しだけ震える。
「変わらない」
簡潔な答え。
けれどその中に、少しだけ“人間らしさ”を感じた。
完璧で、隙がなくて、感情を見せない人。
そう思っていたのに。
今、こうして隣にいる彼は、ほんの少しだけ違って見える。
「……意外です」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
「何がだ」
「その……静かな場所が好きだと、少し安心しました」
言ってから、しまったと思う。
余計なことを言ったかもしれない。
けれど。
「安心?」
問い返す声に、責める色はなかった。
「はい。少しだけ……近い気がして」
本音が、こぼれてしまった。
もう取り消せない。
空気が止まる。
やっぱり、言うべきではなかった。
そう思った瞬間――
「……そうか」
低く、落ちる声。
それ以上の言葉はない。
けれど。
ほんのわずかに、距離が縮まった気がした。
錯覚かもしれない。
それでも、確かに感じた。
「戻るぞ」
一真が歩き出す。
「……はい」
隣に並んで歩く。
さっきよりも、少しだけ自然に。
屋敷の灯りが近づいてくる。
この時間が終わってしまうことに、ほんの少しだけ寂しさを感じた。
部屋の前で足が止まる。
「……おやすみなさい」
勇気を出して、言葉をかける。
一真は一瞬だけこちらを見て――
「……ああ」
小さく、頷いた。
それだけ。
それだけなのに。
胸が、いっぱいになる。
扉を閉めたあと、背中を預ける。
静かな部屋。
けれど、さっきまでとは違う。
「……名前、呼んだ」
ぽつりと呟く。
許された。
拒まれなかった。
それどころか――受け入れられた。
たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。
期待してはいけないと、わかっている。
この距離が簡単に埋まるはずがないことも。
それでも。
今日だけは、少しだけ思ってしまう。
もしかしたら。
ほんの少しだけなら。
この人に、近づいてもいいのかもしれないと。
――そんな、甘い錯覚を。
知らず知らずのうちに、抱いてしまっていることに。
まだ、気づかないまま。
東條家の広い屋敷は、昼間の張り詰めた空気とは違い、どこか息を潜めているように感じる。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく響いていた。
眠れなかった。
理由は、わかっている。
昼間のこと。
そして、ここ数日で積み重なってきた、ほんのわずかな変化。
たった一言。
たった一度の接触。
それだけで、こんなにも心が揺れるなんて。
「……少し、外に」
気分を落ち着けようと、そっと部屋を出る。
廊下は薄暗く、足音を立てないように歩くと、まるで自分がこの家の“異物”になったような気がした。
そのまま庭へと出る。
雨はもう止んでいた。
濡れた石畳が、月の光をぼんやりと反射している。
ひんやりとした空気が、熱を持った思考を少しずつ冷ましてくれる。
「……綺麗」
思わず、そう呟いた。
昼間とは違う表情の庭。
誰もいない静けさ。
ここなら、少しだけ“妻”であることを忘れられる気がした。
「こんな時間に何をしている」
背後から声がして、心臓が跳ねる。
振り返ると――そこにいたのは、一真だった。
「……申し訳ありません」
反射的に頭を下げる。
「眠れなくて、少しだけ外に」
正直に答えると、彼は数秒だけこちらを見ていた。
その視線に、落ち着かなくなる。
「体を冷やすな」
短く言って、彼は隣に立った。
驚いて、息を止める。
距離が、近い。
昼間とは違う、静かな夜の中で。
二人きりで並んでいることが、現実味を帯びない。
「……失礼いたします」
離れようと一歩下がろうとした瞬間、
「そのままでいい」
静かに、制される。
一瞬、意味がわからなかった。
「え……」
「どうせすぐ戻る」
それだけの理由。
けれど、“隣にいることを許された”という事実に、心が強く揺れる。
結局、そのまま動けなくなった。
沈黙が落ちる。
気まずいはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――どこか落ち着く。
「……こういう場所は、嫌いじゃない」
ぽつりと、一真が言った。
思わず顔を上げる。
彼の方から、話題を出すなんて思っていなかった。
「静かで、余計なものがない」
確かに彼らしい言葉。
「……はい。私も、落ち着きます」
少しだけ、自然に返せた気がした。
会話が、続いている。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
「昔からか」
「……え?」
「そういう場所を好むのは」
問われていることに気づき、少しだけ考える。
「……はい。子どもの頃から、あまり賑やかな場所は得意ではなくて」
「そうか」
短い返事。
けれど、ちゃんと聞いてくれている。
それがわかるだけで、嬉しくなる。
「……一真さんは」
言いかけて、はっとする。
今、自分は――
「すみません」
慌てて言い直そうとする。
けれど。
「……構わない」
一真が、静かに言った。
「その呼び方でいい」
一瞬、時間が止まった。
名前で呼ぶことを、許された。
それだけのことなのに、胸が強く鳴る。
「……一真さんは、昔からですか」
声が少しだけ震える。
「変わらない」
簡潔な答え。
けれどその中に、少しだけ“人間らしさ”を感じた。
完璧で、隙がなくて、感情を見せない人。
そう思っていたのに。
今、こうして隣にいる彼は、ほんの少しだけ違って見える。
「……意外です」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
「何がだ」
「その……静かな場所が好きだと、少し安心しました」
言ってから、しまったと思う。
余計なことを言ったかもしれない。
けれど。
「安心?」
問い返す声に、責める色はなかった。
「はい。少しだけ……近い気がして」
本音が、こぼれてしまった。
もう取り消せない。
空気が止まる。
やっぱり、言うべきではなかった。
そう思った瞬間――
「……そうか」
低く、落ちる声。
それ以上の言葉はない。
けれど。
ほんのわずかに、距離が縮まった気がした。
錯覚かもしれない。
それでも、確かに感じた。
「戻るぞ」
一真が歩き出す。
「……はい」
隣に並んで歩く。
さっきよりも、少しだけ自然に。
屋敷の灯りが近づいてくる。
この時間が終わってしまうことに、ほんの少しだけ寂しさを感じた。
部屋の前で足が止まる。
「……おやすみなさい」
勇気を出して、言葉をかける。
一真は一瞬だけこちらを見て――
「……ああ」
小さく、頷いた。
それだけ。
それだけなのに。
胸が、いっぱいになる。
扉を閉めたあと、背中を預ける。
静かな部屋。
けれど、さっきまでとは違う。
「……名前、呼んだ」
ぽつりと呟く。
許された。
拒まれなかった。
それどころか――受け入れられた。
たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。
期待してはいけないと、わかっている。
この距離が簡単に埋まるはずがないことも。
それでも。
今日だけは、少しだけ思ってしまう。
もしかしたら。
ほんの少しだけなら。
この人に、近づいてもいいのかもしれないと。
――そんな、甘い錯覚を。
知らず知らずのうちに、抱いてしまっていることに。
まだ、気づかないまま。



