手放したはずの妻を、もう一度愛してもいいですか

その日は、朝から雨だった。

東條家の庭に落ちる雨音が、静かに響いている。
どこか落ち着くはずの音なのに、胸の奥がざわついていた。

「本日の予定です」

使用人から手渡されたスケジュールに目を通す。

午前は書類整理。
午後は義母の付き添いで外出。

変わらない日常。
変わらない“妻としての役割”。

――それでいいはずなのに。

なぜか、気持ちが落ち着かない。

原因は、わかっていた。

昨夜のことだ。

「無理はするな」

あの一言が、頭から離れない。

あれは本当に、私に向けられた言葉だったのか。
ただの気まぐれだったのか。

考えても答えは出ないのに、何度も思い出してしまう。

「……駄目ね」

小さく呟いて、首を振る。

期待してはいけない。
あの人に、特別な意味を見出してはいけない。

そう決めたはずなのに。

午後。

義母との外出先から戻る頃には、雨はさらに強くなっていた。

車を降りた瞬間、冷たい風が頬を打つ。

「急ぎなさい」

義母に促され、足早に玄関へ向かう。

けれどその途中、足元が滑った。

「っ……!」

ぐらり、と身体が傾く。

転ぶ――そう思った瞬間。

強く、腕を引かれた。

「危ない」

低い声。

気づけば、誰かの腕の中にいた。

一瞬、何が起きたのかわからない。

けれど次の瞬間、はっきりと理解する。

――一真。

彼の腕が、私を支えている。

距離が、近い。

こんなに近くにいるのは、初めてだった。

「……すみません」

慌てて身体を離そうとする。

けれど彼の手は、すぐには離れなかった。

「足元を見ろ」

淡々とした声。

けれど、その手はしっかりと私を支えている。

「怪我はないか」

一瞬、言葉を失う。

それは、明確な“気遣い”だった。

「……大丈夫です」

ようやく答えると、彼は静かに手を離した。

離れた瞬間、体温が消える。

それが、なぜか少しだけ寂しく感じた。

「気をつけろ」

それだけ言って、彼は先に歩き出す。

まるで何事もなかったかのように。

「……はい」

小さく返事をする。

心臓の音が、まだうるさい。

たったそれだけのことなのに。

触れられただけで。

こんなにも動揺してしまうなんて。

部屋に戻ってからも、落ち着かなかった。

袖を握る指に、力が入る。

さっき触れられた腕が、まだ熱を持っている気がした。

「……どうして」

わからない。

あの人にとっては、ただの行動の一つに過ぎないはずなのに。

私は、それ以上の意味を探してしまう。

危ないと思ったから、支えただけ。
それだけのこと。

わかっている。

それでも――

「怪我はないか」

あの言葉が、何度も繰り返される。

心配、してくれたのだろうか。

ほんの少しでも。

そんな期待が、胸の奥に芽生える。

――駄目。

すぐに打ち消す。

期待すればするほど、傷つくのは自分だ。

それでも、完全に消すことはできない。

小さな火のように、残り続ける。

夜。

書斎から出てきた一真と、廊下で鉢合わせた。

一瞬、足が止まる。

昼間のことが頭をよぎる。

どうしていいかわからず、視線を落とした。

「……もう休め」

先に口を開いたのは、一真だった。

「遅くまで起きている必要はない」

相変わらずの、命令のような口調。

けれど――

「体調を崩されても困る」

その言葉に、ふっと息が止まる。

それは、気遣いなのか。
それとも、ただの合理的な判断か。

「……はい」

わからないまま、頷く。

一真はそれ以上何も言わず、すれ違っていく。

その背中を、思わず目で追ってしまう。

呼び止めたい衝動が、一瞬だけ胸をよぎる。

けれど、できない。

そんな関係ではないから。

布団に入っても、眠れなかった。

目を閉じると、思い出す。

あの瞬間。

腕を引かれた感覚。
支えられた体温。

「……馬鹿みたい」

小さく呟く。

たった一度、触れられただけ。

それだけで、こんなにも心が揺れるなんて。

ありえない。

ありえないのに。

それでも、確かに感じてしまった。

――あたたかい、と。

この人は、冷たいだけの人じゃないのかもしれない。

そんな、淡い期待。

そして同時に、強い不安。

もし違ったら。

もし、ただの思い込みだったら。

そのとき、私はきっと――

それでも。

もう遅い。

ほんの少しの優しさで、心は簡単に動いてしまった。

気づいてしまった。

この人に触れられることを、
嬉しいと思ってしまう自分に。

雨音が、静かに続いている。

その中で私は、確かに感じていた。

この恋は、もう止められない。

静かに、確実に。

取り返しのつかないところまで、進んでいるのだと。