東條家に嫁いで三日目。
まだ慣れるはずもないのに、体はすでに“ここでの正解”を探し始めていた。
朝は誰よりも早く起きる。
音を立てないように歩く。
視線は控えめに、言葉は簡潔に。
すべては、“東條の妻としてふさわしいかどうか”。
それだけが基準になる。
「今日の予定、確認しておきなさい」
朝食後、義母に呼び止められる。
差し出された紙には、びっしりとスケジュールが書き込まれていた。
「午後は支援者の奥様方との会食です。あなたも同席します」
「……私も、ですか」
思わず聞き返してしまう。
「当然でしょう」
ぴたり、と言葉を重ねられる。
「東條の妻として、顔を覚えていただく必要があります」
逃げ道はない。
「承知いたしました」
紙を受け取りながら、頭を下げる。
視線の先で、一真は何も言わずにコーヒーを口にしていた。
助け舟を出す様子は、微塵もない。
わかっている。
期待するだけ無駄だと。
それでも、ほんの少しだけ――
そんな考えが浮かんでしまう自分に、苦笑する。
午後。
指定された料亭は、落ち着いた格式のある場所だった。
既に数名の女性が席についている。
皆、一様に品があり、そして“こちらを値踏みする目”をしていた。
「東條家の新しい奥様?」
一人が微笑みながら声をかけてくる。
「遥と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。
視線が一斉に集まる。
「まあ、お綺麗ね」
「思っていたより落ち着いているわ」
「でも、少し地味かしら?」
ひそやかな声が、聞こえるように交わされる。
試されている。
この場で、どれだけ“ふさわしい妻”でいられるか。
「東條先生はお忙しいでしょう?」
「はい、とても」
「寂しくはないの?」
その問いに、一瞬だけ言葉に詰まる。
正直に答えることはできない。
「支えることが、私の役目ですから」
微笑んでそう返す。
それが正解だと、わかっているから。
「まあ、しっかりしているのね」
感心したような声。
けれどその裏にあるのは、“観察”だ。
一挙手一投足を見られている。
箸の持ち方、言葉遣い、間の取り方。
一つでも間違えれば、“不適格”の烙印を押される。
息が詰まりそうになる。
それでも、崩すわけにはいかない。
“完璧な妻”でいなければならない。
会食が終わった頃には、体の芯まで疲れていた。
けれど顔には出さない。
屋敷に戻ると、義母が待っていた。
「どうでしたか」
試すような視線。
「滞りなく、務めさせていただきました」
そう答えると、義母は一瞬だけ沈黙したあと、
「……及第点です」
と告げた。
それがこの家での“合格”なのだと理解する。
ほっとしたのも束の間、
「ですが」
続く言葉に、背筋が伸びる。
「まだ足りません」
静かな声だった。
けれど、逃げ場はない。
「東條の妻である以上、“完璧”を求められるのは当然です」
「……はい」
頷くしかない。
「一真の足を引っ張ることだけは、許しません」
その言葉が、胸に重く落ちる。
私は、支える存在でなければならない。
少しでも足りなければ、“不要”になる。
夜。
自室で一人、ようやく息をつく。
帯をほどきながら、力が抜けた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
やれるはずだ。
やらなければならない。
そう思ったとき。
コン、と小さく扉が鳴った。
驚いて振り返る。
「……はい」
扉が開く。
そこに立っていたのは――一真だった。
一瞬、言葉を失う。
自分の部屋に来るなんて、思ってもいなかったから。
「話がある」
短く告げられる。
「……どうぞ」
中に促すと、彼は迷いなく入ってきた。
距離が近い。
それだけで、心臓が騒がしくなる。
「今日の会食」
淡々とした声。
「問題はなかったらしいな」
誰から聞いたのか、考えるまでもない。
「はい……なんとか」
「そうか」
それだけ。
それ以上の評価も、感想もない。
やっぱり、そうだ。
期待する方がおかしい。
そう思った――そのとき。
「……ご苦労だった」
ぽつりと、落ちる声。
一瞬、意味が理解できなかった。
顔を上げると、彼は変わらない表情でこちらを見ている。
「東條の妻として、必要なことはやれ」
命令のような言葉。
けれどその奥に、ほんのわずかな“認める気配”が混じっている気がした。
「……はい」
胸が、熱くなる。
たったそれだけで。
そんな自分に、戸惑う。
「それと」
一真が続ける。
「無理はするな」
その言葉に、息が止まる。
今、なんて――
聞き間違いかと思った。
けれど彼は、それ以上何も言わない。
「以上だ」
用件は終わりだとばかりに、踵を返す。
「あの……!」
思わず呼び止める。
自分でも驚くほど、咄嗟に声が出た。
一真が、わずかに振り返る。
「……何だ」
言葉が、出てこない。
何を言いたかったのか、自分でもわからない。
ただ。
今、行ってほしくないと思ってしまった。
「……いえ、何でもありません」
結局、そう答えるしかない。
一真は一瞬だけこちらを見て――
そのまま、部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静寂が戻る。
私はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
無理はするな。
その一言が、何度も頭の中で繰り返される。
優しさなのかどうかもわからない。
気まぐれかもしれない。
それでも。
こんなにも心を揺らすなんて。
――やっぱり、だめだ。
こんなの。
好きになってしまうに決まっている。
届かないとわかっているのに。
この距離が埋まることはないと、理解しているのに。
それでも、心は勝手に期待してしまう。
ほんの少しの言葉で。
ほんの一瞬の視線で。
私はもう、引き返せない。
静かに、確実に。
この恋は、深くなっていく。
まだ慣れるはずもないのに、体はすでに“ここでの正解”を探し始めていた。
朝は誰よりも早く起きる。
音を立てないように歩く。
視線は控えめに、言葉は簡潔に。
すべては、“東條の妻としてふさわしいかどうか”。
それだけが基準になる。
「今日の予定、確認しておきなさい」
朝食後、義母に呼び止められる。
差し出された紙には、びっしりとスケジュールが書き込まれていた。
「午後は支援者の奥様方との会食です。あなたも同席します」
「……私も、ですか」
思わず聞き返してしまう。
「当然でしょう」
ぴたり、と言葉を重ねられる。
「東條の妻として、顔を覚えていただく必要があります」
逃げ道はない。
「承知いたしました」
紙を受け取りながら、頭を下げる。
視線の先で、一真は何も言わずにコーヒーを口にしていた。
助け舟を出す様子は、微塵もない。
わかっている。
期待するだけ無駄だと。
それでも、ほんの少しだけ――
そんな考えが浮かんでしまう自分に、苦笑する。
午後。
指定された料亭は、落ち着いた格式のある場所だった。
既に数名の女性が席についている。
皆、一様に品があり、そして“こちらを値踏みする目”をしていた。
「東條家の新しい奥様?」
一人が微笑みながら声をかけてくる。
「遥と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。
視線が一斉に集まる。
「まあ、お綺麗ね」
「思っていたより落ち着いているわ」
「でも、少し地味かしら?」
ひそやかな声が、聞こえるように交わされる。
試されている。
この場で、どれだけ“ふさわしい妻”でいられるか。
「東條先生はお忙しいでしょう?」
「はい、とても」
「寂しくはないの?」
その問いに、一瞬だけ言葉に詰まる。
正直に答えることはできない。
「支えることが、私の役目ですから」
微笑んでそう返す。
それが正解だと、わかっているから。
「まあ、しっかりしているのね」
感心したような声。
けれどその裏にあるのは、“観察”だ。
一挙手一投足を見られている。
箸の持ち方、言葉遣い、間の取り方。
一つでも間違えれば、“不適格”の烙印を押される。
息が詰まりそうになる。
それでも、崩すわけにはいかない。
“完璧な妻”でいなければならない。
会食が終わった頃には、体の芯まで疲れていた。
けれど顔には出さない。
屋敷に戻ると、義母が待っていた。
「どうでしたか」
試すような視線。
「滞りなく、務めさせていただきました」
そう答えると、義母は一瞬だけ沈黙したあと、
「……及第点です」
と告げた。
それがこの家での“合格”なのだと理解する。
ほっとしたのも束の間、
「ですが」
続く言葉に、背筋が伸びる。
「まだ足りません」
静かな声だった。
けれど、逃げ場はない。
「東條の妻である以上、“完璧”を求められるのは当然です」
「……はい」
頷くしかない。
「一真の足を引っ張ることだけは、許しません」
その言葉が、胸に重く落ちる。
私は、支える存在でなければならない。
少しでも足りなければ、“不要”になる。
夜。
自室で一人、ようやく息をつく。
帯をほどきながら、力が抜けた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
やれるはずだ。
やらなければならない。
そう思ったとき。
コン、と小さく扉が鳴った。
驚いて振り返る。
「……はい」
扉が開く。
そこに立っていたのは――一真だった。
一瞬、言葉を失う。
自分の部屋に来るなんて、思ってもいなかったから。
「話がある」
短く告げられる。
「……どうぞ」
中に促すと、彼は迷いなく入ってきた。
距離が近い。
それだけで、心臓が騒がしくなる。
「今日の会食」
淡々とした声。
「問題はなかったらしいな」
誰から聞いたのか、考えるまでもない。
「はい……なんとか」
「そうか」
それだけ。
それ以上の評価も、感想もない。
やっぱり、そうだ。
期待する方がおかしい。
そう思った――そのとき。
「……ご苦労だった」
ぽつりと、落ちる声。
一瞬、意味が理解できなかった。
顔を上げると、彼は変わらない表情でこちらを見ている。
「東條の妻として、必要なことはやれ」
命令のような言葉。
けれどその奥に、ほんのわずかな“認める気配”が混じっている気がした。
「……はい」
胸が、熱くなる。
たったそれだけで。
そんな自分に、戸惑う。
「それと」
一真が続ける。
「無理はするな」
その言葉に、息が止まる。
今、なんて――
聞き間違いかと思った。
けれど彼は、それ以上何も言わない。
「以上だ」
用件は終わりだとばかりに、踵を返す。
「あの……!」
思わず呼び止める。
自分でも驚くほど、咄嗟に声が出た。
一真が、わずかに振り返る。
「……何だ」
言葉が、出てこない。
何を言いたかったのか、自分でもわからない。
ただ。
今、行ってほしくないと思ってしまった。
「……いえ、何でもありません」
結局、そう答えるしかない。
一真は一瞬だけこちらを見て――
そのまま、部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静寂が戻る。
私はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
無理はするな。
その一言が、何度も頭の中で繰り返される。
優しさなのかどうかもわからない。
気まぐれかもしれない。
それでも。
こんなにも心を揺らすなんて。
――やっぱり、だめだ。
こんなの。
好きになってしまうに決まっている。
届かないとわかっているのに。
この距離が埋まることはないと、理解しているのに。
それでも、心は勝手に期待してしまう。
ほんの少しの言葉で。
ほんの一瞬の視線で。
私はもう、引き返せない。
静かに、確実に。
この恋は、深くなっていく。



