東條家での朝は、静かすぎるほど静かだった。
広すぎる屋敷は、音を吸い込んでしまうみたいに、足音さえも遠くに消えていく。
目が覚めたとき、一瞬ここがどこかわからなくなる。
――ああ、そうだ。
昨日、結婚したのだ。
東條一真の妻として、この家に。
「……朝食の時間だわ」
小さく呟いて、私は布団から出る。
誰に言われたわけでもない。
けれど“妻としてどうあるべきか”は、体に染みついている。
遅れるなんて、ありえない。
身支度を整え、案内された食堂へ向かう。
襖の前で一度、深く息を吸った。
そして静かに開ける。
「失礼いたします」
中にいたのは、すでに席についている義父と義母、そして――一真だった。
一瞬だけ視線が向く。
けれどそれはすぐに外される。
まるで、確認する必要のない存在を見るかのように。
「遅い」
義母の声が、空気を切った。
「申し訳ありません」
すぐに頭を下げる。
時計を見ると、約束の時間ぴったりだった。
けれど、この家では“ぴったり”では遅いのだろう。
「東條の妻になるのなら、五分前行動は当然です」
淡々と告げられる言葉。
責めているわけではない。ただ事実を述べているだけ。
その分、逃げ場がない。
「……以後、気をつけます」
席につきながら答える。
一真は何も言わない。
興味がないのか、それとも口を挟む価値もないと思っているのか。
どちらでも、同じことだ。
朝食は静かに進む。
食器の触れ合う音だけが、やけに響いていた。
会話は、政治の話題ばかり。
次の選挙の動向。
対立派閥の動き。
メディアの印象操作。
私は口を挟まない。
挟める立場でもない。
ただ、聞いているだけ。
それでも頭の中では、自然と情報が整理されていく。
――この流れなら、次の会見は危うい。
――発言の順序を変えた方がいい。
思わず口を開きかけて、やめた。
言ってはいけない。
ここで求められているのは、意見ではなく“従順さ”だから。
食事が終わりに近づいたころ、不意に一真が立ち上がった。
「今日は外だ」
短く、それだけ。
誰に言うでもなく。
説明もない。
そのまま部屋を出ていこうとする。
――あの。
声をかけかけて、飲み込む。
引き止める理由がない。
妻なのに。
見送ることすら、躊躇う距離。
「……いってらっしゃいませ」
かろうじて、それだけ言う。
一真は、振り返らなかった。
けれど。
「――ああ」
ほんの一瞬だけ、返事が落ちる。
それだけで、胸が少しだけ軽くなる。
馬鹿みたいだと思う。
たったそれだけで、嬉しいなんて。
――やっぱり、私は。
そこまで考えて、思考を止めた。
これ以上は危険だ。
感情を持ち込めば、壊れるのは自分だとわかっているから。
その日の午後。
私は義母に呼ばれていた。
「今日の来客対応を任せます」
「……私に、ですか?」
思わず聞き返してしまう。
「ええ。東條の妻として、当然でしょう」
試されているのだと、すぐにわかった。
「承知いたしました」
深く頭を下げる。
逃げることはできない。
応接間の準備を整え、静かに待つ。
やがて、足音が近づいてきた。
襖が開く。
入ってきた人物を見て、息が止まる。
――綺麗な人。
そう思った。
華やかで、洗練されていて、迷いのない視線を持つ女性。
その人は、まっすぐこちらを見て、微笑んだ。
「はじめまして」
柔らかな声。
けれど、その奥にあるものを、私は感じ取ってしまう。
「東條一真の――元婚約者です」
心臓が、大きく鳴った。
時間が、一瞬止まったように感じる。
「……妻の、遥と申します」
なんとか言葉を返す。
指先が冷えていく。
「ふふ、聞いています」
彼女は楽しそうに笑った。
「“ちょうどいい人”が見つかったって」
――ちょうどいい人。
その言葉が、静かに胸に突き刺さる。
否定できない。
それが事実だから。
「彼、昔からそうなんです」
懐かしむような声音。
「無駄なことが嫌いで、合理的で」
その言い方は――まるで。
ずっと隣にいた人のものだった。
「でも」
ふいに、彼女の視線が鋭くなる。
「本当に大事なものだけは、絶対に手放さない人なんですよ」
ぞくり、とした。
その言葉の意味を、理解してしまったから。
――では、私は?
最初から、手放してもいいものだったのだろうか。
「今日はご挨拶だけです」
彼女は立ち上がる。
「また、すぐに会うことになると思いますから」
意味深な言葉を残して、部屋を出ていく。
一人、取り残される。
静まり返った空間。
呼吸が、うまくできない。
そのとき。
背後で、扉が開く音がした。
振り返ると――一真が立っていた。
「……来ていたのか」
表情は変わらない。
けれど、その目の奥にわずかな揺れが見えた気がした。
「はい……先ほど」
答える声が、少しだけ震える。
一真は、数秒だけ沈黙したあと。
「気にするな」
それだけ言った。
簡単に。
あまりにも簡単に。
まるで、何でもないことのように。
「……はい」
そう返すしかなかった。
気にしないなんて、できるはずがないのに。
それでも。
「……ご苦労だった」
ぽつりと落ちた言葉。
初めて向けられた、“労い”のようなもの。
その一言で、胸がまた揺れる。
こんなことで、救われてしまう自分がいる。
――だめだ。
こんなの。
好きになってしまうに決まっている。
触れられたわけでもない。
優しくされたわけでもない。
ただ、ほんの少し言葉をもらっただけで。
それでも、心は簡単に動いてしまう。
この距離は、きっと永遠に埋まらない。
それなのに。
私はもう、引き返せない場所まで来てしまっている。
気づいてはいけない感情が、
静かに、確実に、育ち始めていた。
広すぎる屋敷は、音を吸い込んでしまうみたいに、足音さえも遠くに消えていく。
目が覚めたとき、一瞬ここがどこかわからなくなる。
――ああ、そうだ。
昨日、結婚したのだ。
東條一真の妻として、この家に。
「……朝食の時間だわ」
小さく呟いて、私は布団から出る。
誰に言われたわけでもない。
けれど“妻としてどうあるべきか”は、体に染みついている。
遅れるなんて、ありえない。
身支度を整え、案内された食堂へ向かう。
襖の前で一度、深く息を吸った。
そして静かに開ける。
「失礼いたします」
中にいたのは、すでに席についている義父と義母、そして――一真だった。
一瞬だけ視線が向く。
けれどそれはすぐに外される。
まるで、確認する必要のない存在を見るかのように。
「遅い」
義母の声が、空気を切った。
「申し訳ありません」
すぐに頭を下げる。
時計を見ると、約束の時間ぴったりだった。
けれど、この家では“ぴったり”では遅いのだろう。
「東條の妻になるのなら、五分前行動は当然です」
淡々と告げられる言葉。
責めているわけではない。ただ事実を述べているだけ。
その分、逃げ場がない。
「……以後、気をつけます」
席につきながら答える。
一真は何も言わない。
興味がないのか、それとも口を挟む価値もないと思っているのか。
どちらでも、同じことだ。
朝食は静かに進む。
食器の触れ合う音だけが、やけに響いていた。
会話は、政治の話題ばかり。
次の選挙の動向。
対立派閥の動き。
メディアの印象操作。
私は口を挟まない。
挟める立場でもない。
ただ、聞いているだけ。
それでも頭の中では、自然と情報が整理されていく。
――この流れなら、次の会見は危うい。
――発言の順序を変えた方がいい。
思わず口を開きかけて、やめた。
言ってはいけない。
ここで求められているのは、意見ではなく“従順さ”だから。
食事が終わりに近づいたころ、不意に一真が立ち上がった。
「今日は外だ」
短く、それだけ。
誰に言うでもなく。
説明もない。
そのまま部屋を出ていこうとする。
――あの。
声をかけかけて、飲み込む。
引き止める理由がない。
妻なのに。
見送ることすら、躊躇う距離。
「……いってらっしゃいませ」
かろうじて、それだけ言う。
一真は、振り返らなかった。
けれど。
「――ああ」
ほんの一瞬だけ、返事が落ちる。
それだけで、胸が少しだけ軽くなる。
馬鹿みたいだと思う。
たったそれだけで、嬉しいなんて。
――やっぱり、私は。
そこまで考えて、思考を止めた。
これ以上は危険だ。
感情を持ち込めば、壊れるのは自分だとわかっているから。
その日の午後。
私は義母に呼ばれていた。
「今日の来客対応を任せます」
「……私に、ですか?」
思わず聞き返してしまう。
「ええ。東條の妻として、当然でしょう」
試されているのだと、すぐにわかった。
「承知いたしました」
深く頭を下げる。
逃げることはできない。
応接間の準備を整え、静かに待つ。
やがて、足音が近づいてきた。
襖が開く。
入ってきた人物を見て、息が止まる。
――綺麗な人。
そう思った。
華やかで、洗練されていて、迷いのない視線を持つ女性。
その人は、まっすぐこちらを見て、微笑んだ。
「はじめまして」
柔らかな声。
けれど、その奥にあるものを、私は感じ取ってしまう。
「東條一真の――元婚約者です」
心臓が、大きく鳴った。
時間が、一瞬止まったように感じる。
「……妻の、遥と申します」
なんとか言葉を返す。
指先が冷えていく。
「ふふ、聞いています」
彼女は楽しそうに笑った。
「“ちょうどいい人”が見つかったって」
――ちょうどいい人。
その言葉が、静かに胸に突き刺さる。
否定できない。
それが事実だから。
「彼、昔からそうなんです」
懐かしむような声音。
「無駄なことが嫌いで、合理的で」
その言い方は――まるで。
ずっと隣にいた人のものだった。
「でも」
ふいに、彼女の視線が鋭くなる。
「本当に大事なものだけは、絶対に手放さない人なんですよ」
ぞくり、とした。
その言葉の意味を、理解してしまったから。
――では、私は?
最初から、手放してもいいものだったのだろうか。
「今日はご挨拶だけです」
彼女は立ち上がる。
「また、すぐに会うことになると思いますから」
意味深な言葉を残して、部屋を出ていく。
一人、取り残される。
静まり返った空間。
呼吸が、うまくできない。
そのとき。
背後で、扉が開く音がした。
振り返ると――一真が立っていた。
「……来ていたのか」
表情は変わらない。
けれど、その目の奥にわずかな揺れが見えた気がした。
「はい……先ほど」
答える声が、少しだけ震える。
一真は、数秒だけ沈黙したあと。
「気にするな」
それだけ言った。
簡単に。
あまりにも簡単に。
まるで、何でもないことのように。
「……はい」
そう返すしかなかった。
気にしないなんて、できるはずがないのに。
それでも。
「……ご苦労だった」
ぽつりと落ちた言葉。
初めて向けられた、“労い”のようなもの。
その一言で、胸がまた揺れる。
こんなことで、救われてしまう自分がいる。
――だめだ。
こんなの。
好きになってしまうに決まっている。
触れられたわけでもない。
優しくされたわけでもない。
ただ、ほんの少し言葉をもらっただけで。
それでも、心は簡単に動いてしまう。
この距離は、きっと永遠に埋まらない。
それなのに。
私はもう、引き返せない場所まで来てしまっている。
気づいてはいけない感情が、
静かに、確実に、育ち始めていた。



