白無垢の袖が、かすかに震えていた。
自分でも気づかないほどの微かな揺れだったけれど、その震えは確かに、胸の奥の不安とつながっている。
東條家本邸。
古くから政界に名を連ねる名門一族の屋敷は、まるで時代から切り離されたような静けさに包まれていた。
磨き上げられた廊下。
無駄のない調度。
息を呑むほど整えられた空間の中で、私はひどく場違いな存在に思えた。
今日、ここで私は結婚する。
祝福されるはずの日なのに、胸の奥は凍りつくように冷たい。
理由は、はっきりしていた。
「――時間だ」
低く、感情の抑えられた声が背後から落ちてくる。
振り返るまでもない。
その声の主こそ、これから私の夫になる人。
東條一真。
次期総理候補とまで言われる、完璧な男。
整った容姿、非の打ちどころのない経歴、隙のない立ち振る舞い。
誰もが羨む存在でありながら、その実、どこか人間味に欠けている人。
「行くぞ」
短い一言。
そこに、結婚という特別な日の高揚は一切なかった。
ただ予定を消化するような、冷たい響き。
「……はい」
私は小さく返事をして、立ち上がる。
この結婚に、愛はない。
最初からわかっていたことだ。
これは家と家を結びつけるための政略結婚。
私が選ばれた理由も明確だった。
旧華族の血を引く家柄。
問題のない学歴と経歴。
そして――余計な自己主張をしない性格。
“妻として都合がいい”
それだけ。
廊下を並んで歩く。
足音だけが、静かに響く。
すぐ隣にいるはずなのに、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。
視線を向ける勇気はなかった。
彼がこちらを見ていないことを、知ってしまうのが怖かったから。
「緊張しているのか」
不意に、声が降ってくる。
「……少しだけ」
本当は違う。
緊張なんて、とっくに越えている。
怖いのだ。
これから始まる生活が、どんなものになるのか。
けれど、そんな本音を口にすることは許されない。
「余計なことは考えるな」
淡々とした声。
「お前は、隣に立っていればいい」
それだけでいい、と。
その言葉の意味を、私は理解していた。
――それ以上は求めるな。
胸の奥が、きり、と痛む。
けれど私は、何も言わない。
言えるはずもない。
「……わかりました」
作り慣れた微笑みを浮かべる。
選んだのは、自分だ。
この家に嫁ぐことも。
この人の隣に立つことも。
幼い頃から教えられてきた。
“家のために生きること”を。
誰かの期待に応えることが、自分の価値なのだと。
だから。
どんな扱いを受けても。
どんなに心が削られても。
私は“妻”としてここにいる。
それが、私の役目だから。
やがて、襖の前で足が止まる。
中からは、ざわめきが漏れていた。
多くの人が、私たちを待っている。
政治家、財界人、名家の関係者。
この結婚が持つ意味を理解している人たち。
個人の感情など、誰一人として求めていない場所。
「開けろ」
短く告げられ、襖が開かれる。
一斉に向けられる視線。
息が詰まる。
逃げ場はない。
私は一歩、前へ出る。
隣に立つ彼は、やはり私を見ない。
祝福の拍手が響く。
形だけの笑顔。
整えられた言葉。
そのすべてが、どこか遠く感じた。
まるで自分だけが、この場から切り離されているような感覚。
それでも私は、微笑み続ける。
完璧な妻として。
完璧な結婚式を演じるために。
ふと、横顔を盗み見る。
整いすぎたその横顔は、美しいほど無機質だった。
そこに、私への感情は一切ない。
その事実が、静かに胸に沈んでいく。
――ああ、やっぱり。
この結婚に、愛はない。
最初から、ひとかけらも存在していない。
それでも。
どうしてだろう。
こんなにも冷たい人なのに。
こんなにも遠い人なのに。
私はきっと、この人を――
愛してしまう。
根拠なんてない。
ただの予感。
けれどその予感は、なぜか確信に近かった。
だからこそ、怖い。
報われることのない想いを抱く未来が、見えてしまうから。
拍手の中で、彼は一度も私を見なかった。
その事実が、すべてを物語っている。
この結婚は、始まりではない。
最初から終わっている関係だ。
それでも私は、ここに立っている。
彼の隣で。
“妻”として。
――いつか、ほんの少しでもいい。
そう思ってしまった自分を、
このときの私は、まだ知らなかった。
どれほど愚かで、
どれほど切ない願いなのかを。
自分でも気づかないほどの微かな揺れだったけれど、その震えは確かに、胸の奥の不安とつながっている。
東條家本邸。
古くから政界に名を連ねる名門一族の屋敷は、まるで時代から切り離されたような静けさに包まれていた。
磨き上げられた廊下。
無駄のない調度。
息を呑むほど整えられた空間の中で、私はひどく場違いな存在に思えた。
今日、ここで私は結婚する。
祝福されるはずの日なのに、胸の奥は凍りつくように冷たい。
理由は、はっきりしていた。
「――時間だ」
低く、感情の抑えられた声が背後から落ちてくる。
振り返るまでもない。
その声の主こそ、これから私の夫になる人。
東條一真。
次期総理候補とまで言われる、完璧な男。
整った容姿、非の打ちどころのない経歴、隙のない立ち振る舞い。
誰もが羨む存在でありながら、その実、どこか人間味に欠けている人。
「行くぞ」
短い一言。
そこに、結婚という特別な日の高揚は一切なかった。
ただ予定を消化するような、冷たい響き。
「……はい」
私は小さく返事をして、立ち上がる。
この結婚に、愛はない。
最初からわかっていたことだ。
これは家と家を結びつけるための政略結婚。
私が選ばれた理由も明確だった。
旧華族の血を引く家柄。
問題のない学歴と経歴。
そして――余計な自己主張をしない性格。
“妻として都合がいい”
それだけ。
廊下を並んで歩く。
足音だけが、静かに響く。
すぐ隣にいるはずなのに、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。
視線を向ける勇気はなかった。
彼がこちらを見ていないことを、知ってしまうのが怖かったから。
「緊張しているのか」
不意に、声が降ってくる。
「……少しだけ」
本当は違う。
緊張なんて、とっくに越えている。
怖いのだ。
これから始まる生活が、どんなものになるのか。
けれど、そんな本音を口にすることは許されない。
「余計なことは考えるな」
淡々とした声。
「お前は、隣に立っていればいい」
それだけでいい、と。
その言葉の意味を、私は理解していた。
――それ以上は求めるな。
胸の奥が、きり、と痛む。
けれど私は、何も言わない。
言えるはずもない。
「……わかりました」
作り慣れた微笑みを浮かべる。
選んだのは、自分だ。
この家に嫁ぐことも。
この人の隣に立つことも。
幼い頃から教えられてきた。
“家のために生きること”を。
誰かの期待に応えることが、自分の価値なのだと。
だから。
どんな扱いを受けても。
どんなに心が削られても。
私は“妻”としてここにいる。
それが、私の役目だから。
やがて、襖の前で足が止まる。
中からは、ざわめきが漏れていた。
多くの人が、私たちを待っている。
政治家、財界人、名家の関係者。
この結婚が持つ意味を理解している人たち。
個人の感情など、誰一人として求めていない場所。
「開けろ」
短く告げられ、襖が開かれる。
一斉に向けられる視線。
息が詰まる。
逃げ場はない。
私は一歩、前へ出る。
隣に立つ彼は、やはり私を見ない。
祝福の拍手が響く。
形だけの笑顔。
整えられた言葉。
そのすべてが、どこか遠く感じた。
まるで自分だけが、この場から切り離されているような感覚。
それでも私は、微笑み続ける。
完璧な妻として。
完璧な結婚式を演じるために。
ふと、横顔を盗み見る。
整いすぎたその横顔は、美しいほど無機質だった。
そこに、私への感情は一切ない。
その事実が、静かに胸に沈んでいく。
――ああ、やっぱり。
この結婚に、愛はない。
最初から、ひとかけらも存在していない。
それでも。
どうしてだろう。
こんなにも冷たい人なのに。
こんなにも遠い人なのに。
私はきっと、この人を――
愛してしまう。
根拠なんてない。
ただの予感。
けれどその予感は、なぜか確信に近かった。
だからこそ、怖い。
報われることのない想いを抱く未来が、見えてしまうから。
拍手の中で、彼は一度も私を見なかった。
その事実が、すべてを物語っている。
この結婚は、始まりではない。
最初から終わっている関係だ。
それでも私は、ここに立っている。
彼の隣で。
“妻”として。
――いつか、ほんの少しでもいい。
そう思ってしまった自分を、
このときの私は、まだ知らなかった。
どれほど愚かで、
どれほど切ない願いなのかを。



