『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 空き教室でひとり、小指を見つめてぼんやりしてしまってから、このままでは授業に遅れてしまうと気づき、俺も慌てて教室に向かった。

 なんとか本鈴前に教室へ滑り込む。けれど、先に戻ったはずの黒瀬の姿はなかった。
 まぁ、手洗いとか寄ってるのだろうと席に着いたところで、授業開始を告げるチャイムが鳴り響く──それと、ほとんど同時だった。
「わかったな? 黒瀬。お前ただでさえ出席日数やばいんだぞ」「……はーい」という会話と共に、前扉から現れた教師の背後に、気だるげな長身が続いていた。
 ……どうにも、呼び止められて注意を受けていた様子に思えた。黒瀬はそのまま自席へと歩き出す。

 その一挙手一投足に、クラスの空気が微かにさざ波立った。
 畏怖、あるいは純粋な憧憬の混じった、無言の注目。教室中の生徒が、黒瀬を気にしてないような素振りで、それでも意識を向けているのがわかる。

 黒瀬瑛理という男は、そういう存在だった。
 そこにいるだけで、例え何をしていなくても注目を集め、主役になってしまう。
 危険な噂の元、遠巻きにされがちなのに、そのすらりと伸びた長い足、整いすぎた顔に見惚れている生徒すらいる。しかし黒瀬の眼光は、それらすべてを無言で拒むかのように鋭い。
 どこか近寄りがたい、鋭利な刃先を思わせた。
 ……さっきまで空き教室でしおしおになっていた「子犬」と同じ人物だとは、到底信じられない。

 ──やっぱ、住む世界が違うよな。
 自席に座った黒瀬を視界の端に、俺は静かに自嘲した。
 昨日今日と、リスナーだの推しだので色々あったけれど、それも先ほど一応の決着を見せた。
 黒瀬自身も「配慮する」と言っていたし、こうして表に戻れば、俺たちはただの「隣同士の他人」だ。
 俺から積極的に話しかけることもないし、向こうだって俺に用はないだろう。

 黒瀬が推しているのは、画面の向こうでゆったりと囁く配信者の『HAKU-shion』であって、陰気で地味なクラスメイトではないのだから。


 授業が始まってしばらくした頃だった。
 チョークが黒板を叩く乾いた音に混じって、ごく小さな音が鼓膜を震わせた。 
 ──くぅ……。
 小動物の鳴き声のような、控えめな音だった。
 気のせいか。あるいは誰かの椅子を引く音が、そう聞こえたか? 念のため耳をすますと、再び同じ音が鳴る。
 音の発生源は隣──黒瀬からだった。

 黒瀬は机に突っ伏す一歩手前のような姿勢で、腹のあたりを押さえている。
 腹痛というよりは、多分、空腹だ。
 思えば、彼は俺と空き教室で対峙していたせいで、貴重な昼休みを丸々潰してしまっている。その後も教師に呼び止められていたようだし、食事を摂るタイミングを完全に失っていたのだろう。
 ──黒瀬、結構しんどそうだな。
 俺も確かに空腹ではあるが、彼は俺よりずっと体格がいい。消費エネルギーの差を考えれば、相当きついはずだ。

 俺はさも当たり前かのような動作で、机の脇にかけた自身のスクールバッグに手を伸ばした。
 中からこっそり、小さなポーチを手に取る。それは常に携帯している、飴入れだった。姉の紗枝おススメのマヌカハニーの飴などが雑多に入っている。
 中から個包装の飴をいくつか、掌に隠すようにして取り出す。
 教師がこちらの背を向けた隙に、隣の席へと静かに手を伸ばし、掌の中の「それ」を、黒瀬の机、ノートの端にそっと置いた。
 そのまま俺は、何食わぬ顔で黒板を見続ける。

 黒瀬の視線を感じた。
 教科書に目を落とすふりをして横を向くと、わずかに目を見開いた黒瀬と視線がぶつかった。
 俺は、小さく頷いた。ほんの少しの糖分補給にしかならないが、ないよりはマシだろう。

 黒瀬は戸惑ったように飴と俺を交互に視線を送っていたが、俺が再度頷くと、誰にも聞こえないような、ほとんど息のままの声で「ありがと」と口を動かした。

 控えめな開封音は、ノートを捲る音に紛れて周囲に届くことはない。
 黒瀬が飴を口に含んでいるのを視界の端に捉え、俺は胸の内で小さく息を吐いた。

 大型犬の子犬のようだと思ったら、やっぱり危険で近寄りがたい男で、かと思えば今度は小動物みたいな腹の音。
 ……何というか、忙しい奴。

 俺はマスクの下で、自分でも意外なほど自然に口角が上がっていた。


 終礼のチャイムが鳴った頃には、俺の胃袋も限界に近い悲鳴を上げていた。
 途中で何か買うと決め、さて、何食べようかなどと考えていた。
「あー、昨日の課題未提出の者は、このまま残って補習だと。該当の生徒は残るように」
 ……しかし、そんな俺の淡い期待は、担任の無慈悲な一言で打ち砕かれたのだった。

 数人の生徒と共に居残りをこなし、ようやく解放されたときには、校舎はすっかり朱色に染まっていた。俺は空腹のあまり、ふらふらと昇降口へと向かう。
 階段を降り、下駄箱の前の廊下に足を踏み入れた時、俺は伏せていた視線をなんとはなしに上げた。

 ──そこには。
 並んだ下駄箱の側面に背を預け、スマホを弄っている長身の姿があった。
 黒瀬だ。
 耳にはワイヤレスイヤホンを挿し、外界を遮断するように自分の世界に没入している。……誰かと、待ち合わせでもしているのだろうか。
 邪魔をしない方が良いだろうと、俺は静かに自分の靴箱へ近づこうとした時。
 不意に、彼の視線がスマホから外れ、俺を真正面から捉えた。

「藍沢」
「……っ、な、なに?」
 話しかけられるとは思っていなかったので、声が裏返る。
 ──また「聞こえない」とか言われたらどうしよう。
 俺はほとんど反射で肩を縮こまらせた。
 そんなこちらの内心を知ってか知らずか、黒瀬はイヤホンを外しながら距離を詰めると、俺の顔を覗き込むように少しだけ首を傾げた。

「腹減ってるでしょ。奢る」
「え、い、いや、いいよ。そんなの悪いし」
「悪くない。ってか、俺のせいで食べ損なったんだし、飴までくれたし……昨日からの色々お詫びも兼ねて」
「い、いいって。気にしてない。大丈夫。大丈夫だから」
 俺はマスク越しにモゴモゴとお断りした。
 黒瀬は視線を周囲に巡らせた。……おそらく、誰もいないことを確認したのだろう。
 さらに一歩距離を詰め、内緒話をするようにぐっと声を潜めた。
「……念のため言うけど、スパチャとか、貢ぐとか。そういうんじゃないから」

 耳元で、内緒話のように。
 周囲に人はいなかったが、黒瀬なりの配慮を感じた。
「藍沢のクラスメイトとして、なんだけど──」
 黒瀬はことりと首を傾げた。

「だめ?」

 またそんな、子犬のような目で。
 ──というか、「だめ?」ってお前……ちょっとあざとすぎないか……?

 俺は絆されそうになるのを、ぐっと堪える。何故だかここで負けてはいけない気がした。
「で、でも俺、そんなにお腹空いてないし、ほんと、だいじょうぶ──」

 ──ぐうぅぅぅぅぅぅ!!

 静かな昇降口に、これ以上ないほど豪快な、くそでか腹の音が鳴り響いた。

「ぅぐっ」
 俺は咄嗟に腹を押さえた。……なんてタイミングだよ!
「…………っ、ふはっ」 
 必死に腹を押さえる俺に、黒瀬が思わずといった様子で吹き出した。
「豪快すぎ」
 そこには、馬鹿にする色のない、年相応の少年のように無邪気な笑みがあった。
 押さえていた手から、ふっと力が抜ける。黒瀬のその笑顔に、毒気をまるごと抜かれてしまったのだ。

「ね、行こう。俺ももう限界」

 これ以上、断る術を俺は持ち合わせていなかった。空腹の中、ここまで待たせてしまった申し訳なさもある。
 俺は半ば脱力しながら、黒瀬の後に続いて校舎の外へ一歩踏み出した。
 夕陽の元、長く伸びた俺たちの影が、校庭の上で重なるように揺れている。