『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 渡されたメモには黒瀬からの謝罪が記されていたが、それでも、指定された場所へ向かう足取りは鉛のように重かった。
 瞼を閉じれば、黒瀬の鋭い眼光がリフレインし、背筋が凍る。
 殊勝な文章と綺麗な文字──ギャップに毒気を抜かれたのは事実だが、それでも、根っこにある黒瀬への恐怖は、そう容易に消せるものではない。
 いっそ逃げ出してしまいたかったが、ここで向き合わないのは、さすがにナシだ。
 ──俺も、謝りたいし。

 昼休みのチャイムが鳴ると同時、黒瀬は一切の迷いなく席を立ち、教室を出て行った。
 俺はと言えば、不自然なほど丁寧にペンケースを片付け、教科書を丁寧にしまってから、ようやく重い腰を上げた。
 目的地に着くまでの時間差をわざわざ設けたのは、単純に腰が引けていたからというのもあるが、向かう道中で鉢合わせたら気まずすぎるという思いからでもあった。

 北校舎、三階の一番奥。
 かつては何かの特別教室だったのだろうか。それを指し示す室名札はすでになく、ひっそりと佇んでいる印象を受けた。
 昼休みだというのに、この辺りに人気はまるでない。
 ドアの前で俺は一度大きく深呼吸すると、恐る恐る引き戸に指をかけた。

 ガタガタと立て付けの悪い音を立てて、ドアが開いていく。
 空き教室内は、端の方に机や椅子がいくつか積まれている程度で、存外綺麗に整えられていた。
 逃避のようにそちらに目をやってから、人の気配のある方──窓へと視線を向けた。

 そこには窓枠に腰を掛け、ワイヤレスイヤホンを外す黒瀬の姿があった。
 逆光に照らされた髪が、白く発光しているかのようにすら見える。
 黒瀬は俺に視線を向けたかと思うと、すぐに気まずそうに視線を彷徨わせた。

 普段の黒瀬からは想像もつかない、しゅんとした表情──その姿は、昨日ポイポイの返金あれこれでしおしおになった様子と酷似していた。
 俺がどうしたものかと躊躇っていると、黒瀬が意を決したようにこちらへ視線を戻した。

「……ごめん」

 黒瀬の謝罪は、およそ反省の色が似合わないその容姿に反して、驚くほど真っ直ぐに俺の胸に届いた。
 昨日までの、獲物を射抜くような鋭い声音ではない。可能な限り棘を削ぎ落とし、言葉を選び抜こうと苦心しているのが痛いほど窺えた
「藍沢、怖かったよな。いきなりただのクラスメイトに正体バラされて、その上、『これ読んで』だの『推し』だの、ぐいぐい詰め寄られて……」

 ──そんなことはない、とは冗談でも言えない。
 実際、怖かった。本当に怖かった。
 例え黒瀬が相手じゃなかったとしても、昨日の出来事は恐怖以外の何物でもない。
 俺が返答に窮していると、黒瀬は煮え切らない思考の欠片を必死に繋ぎ合わせるように、言葉を継いだ。

「推しが、生で、しかもすぐ目の前にって思ったら、頭が真っ白になって……マナーとか、全部吹っ飛んじゃって……正体バレなんてデリケートすぎる問題なのに、配慮足んなさすぎるし、無理やり台本読ませるとか──いくら熱に浮かされてたからって、何のイイワケにもなんない、リスペクトなさすぎだし……害悪リスナーそのものだった。ホント、最悪だよ俺……」

 ──昨日も思ったが、黒瀬が『正体バレ』とか『害悪リスナー』とか一定の層が使いがちな文言を発するのは、不思議な心地だった。彼のイメージからかけ離れすぎている。

 黒瀬は窓から離れると、俺の数歩前で立ち止まる。

「だから、その、昨日のこと……全部ごめん」

 黒瀬がそう言って、静かに頭を下げた。
 俺は動揺で、言葉も出ない。

「……それだけ伝えたくて。呼び出したのも、ごめん。俺のこと許さなくてもいい。けど、その──」

 俺は失礼ながら、あの黒瀬でもこんなにしどろもどろになるのだなと、半ば呆然と目の前の男を見ていた。

「──悪い。これからも、お前が俺の『推し』であるのだけは、変えられそうにないから……それだけは、許してほしい」

 黒瀬は深く頭を下げたまま、上目遣いに、縋るような視線をこちらへ向けてくる。その瞳が、不安げにこちらの出方を窺っている。俺よりずっと背が高いはずなのに、今の彼は、大型犬の子犬のようにも見えた。
 黒瀬はそれきり、口を噤んだ。……俺の返答を待っているのだろう。
 沈黙に耐えかね、俺は意を決して重い口を開いた。

「く、黒瀬……とりあえず……えっと、顔上げて」

 マスク越しに漏れた声は、自分でも情けないほど細く、頼りない。
 ──あぁ、また「聞こえない」と言われるかもしれない。
 そんな不安が脳裏をよぎり、言葉が詰まる。
 けれど、黒瀬は嫌な顔一つせず、弾かれたように顔を上げた。その瞳は、叱られるのを待つ子供のようにどこか心許ない。

 ……ここまで真っ直ぐな謝罪をぶつけられて、自分だけ「防壁」の中に隠れ続けているのは、フェアじゃない気がした。
 俺は震える指先を耳にかけ、不織布のマスクをゆっくりと引き剥がし、ポケットに突っ込んだ。
 剥き出しになった頬を冷たい空気が撫で、心臓が早鐘を打つ。
「──俺も、昨日はあんな言い方して、ごめん。……あと、これ。返しそびれてた」
 俺は、道中ずっと脇に抱えていた黒瀬の教科書を差し出した。
 教室で彼に話しかける勇気など俺にはなく、返そうとするたびに指先が凍りつき、結局今の今までタイミングを逃し続けていたのだ。
「許すも何も、そもそも俺が教科書取り違えたのが悪いんだし」と消え入りそうな声で告げると、顔を上げ教科書を受け取った黒瀬が「あんなの不慮の事故だろ」と首を振った。

「ちなみに俺、全然怒ってないから。そもそも、藍沢が謝ることなんて一個もないし」
「俺も──……あ、いや、正直怖かったから、一個もないとは言えないけど……」
 黒瀬の肩がビクリと震えた。
 再び「ごめん」と言い出しそうなのを察して、「でももう、謝ってもらったし、いいよ」と続けた。

 お互いに頭を下げ合い、ようやく最悪の『昨日』が、穏やかに幕を下ろしたのを感じた。
 知らず強張っていた肩が、少し緩む。

 ──と、いうか。
 本当に『HAKU-shion』が推しなんだ、黒瀬。
 謝罪の随所に、隠しようもない所謂『ファンボムーブ』が駄々漏れだった。
 昨日からそう言われてはいるが、聞く度に耳を疑ってしまう。
 そこでふと、抱いていた疑問を投げかけた。

「……何で、俺が『HAKU-shion』って分かったんだ? 全然喋ったことないのに」
 教科書に挟まってからって、いきなり本人だと断定できないだろうと黒瀬に問う。
「昨日、教科書落とした時。藍沢が焦って出した声が、『HAKU-shion』そのものだったから」
「えっ……」
 俺は昨日のその出来事を思い出す。

 ──『っ、悪いっ……』

 放ったのは、その一言だけだったはずだ。それだけで特定できるものなのだろうか。
 ……でも確かに、思い返してみると、あの時、黒瀬は緩くだが目を見開いていた。
「いや、でも、普段の俺の声とか……ボソボソ喋ってて似ても似つかないっていうか」

「? いや、藍沢の声、『HAKU-shion』そのものだろ」

 当然のように、黒瀬がそう言うので、俺は驚くしかない。
「声量の違いはそりゃあるけど、息の混ぜ方とか、語尾の消え方とか、まんま同じだし」
 ……『声量の違い』という発言に、一瞬「うっ」となるが、それ以降の言葉は再び俺を驚かせた。
「そ、そう……? まったく自覚ないんだけど」
「そんだけ『HAKU-shion』の喋り方が、素に近いってことじゃね?」

 ──どう、なんだろうか。
 俺にとって、配信環境と日常はあまりに違う。過剰に演技がかった言い方はしてないし、そもそもできない。感情を揺さぶるような名演技など不可能だ。
 でも、それが素に近いかどうかは俺には判断が難しかった。

「ASMRって俺は他を知らないから比較できないけど、配信のお前って、こう、芝居がかってなくて、自然なんだよな。本当に、素の感じで喋ってるみたいな。台詞は甘いけど、声のナチュラルさが気持ちいいっていうか、それこそ息を吐くような──『HAKU-shion』の由来通りに」

 一瞬、息が止まる。
「──黒瀬。由来知ってんの……?」
「知ってるも何も……俺、あの雑談配信好きなのに、アーカイブ残ってないのマジで残念すぎるっていうか……」
「え」

 ──雑談配信っつったか、今。
 俺の動揺に気がつくことなく、黒瀬は、増していく熱量をそのままに言葉を続けた。
「いや、本人が残したくないなら、いちリスナーとして尊重はするけど。もう二度と聴けない貴重な声がこの世のどこにも残ってないかと思うと、世界への損失があまりにデカすぎるし……」

 そのままぶつぶつ呟き続ける黒瀬。
 俺は、その予想外の熱量に圧倒されるばかりだった。
 背筋に恐怖とはまた少し違う、奇妙な震えを感じるまである。激しい動揺のような、むず痒いような、それでいて呆気にとられる気持ち。
 ──言葉にするなら、『ウソだろ……お前』という気持ちだった。

 何故ならその雑談配信は、活動の最初期に一度だけ、姉の紗枝に「雑談もしてみよう!」とぐいぐい進められた結果、突発で行ったものだ。黒瀬の言う通り、アーカイブには残していない。
 深夜の……それも明け方近くのわずか数十分。リアルタイムで視聴した人はそう多くはないはずだ。
 その配信で確かに、命名の由来について話した。

 それを、目の前のこの男が、聴いた?

「く、黒瀬って……もしかして、結構初期からのリスナー……?」

 俺の問いに、黒瀬は不思議そうに軽く首を傾げた。
 さらりと流れる髪が、窓から吹き込む風に遊ばれ、耳元のシルバーピアスのチェーンと共に、繊細に揺れる。
 その暴力的なまでに整った造形とは裏腹に、返ってきた答えはあまりに重かった。

「初配信から全部聴いてる」

 黒瀬は事もなげにそう頷いた。