黒瀬はすっかり大人しくなってしまった。
俺から何か話しかけるわけもなく、気まずい沈黙が流れる。
──もし黒瀬の言うことが。
俺の裏の顔である『HAKU-shion』が、コイツの推しだというのが本当なのだとしたら。
つまり、リスナーってことでいいんだよな……?
あの『黒瀬瑛理』が? あまりに現実味がない。
俺が『HAKU-shion』だということは、家族以外知らない。友達という友達もいないから共有するような相手もいないし、いたとしても話さないだろう。
表の俺との印象が違いすぎるから、ドン引かれて距離を置かれるオチが目に浮かぶ。
だからというか、画面の向こう側にいるはずの『視聴者』という存在は、俺にとってどこか遠い世界の、実体のない概念のようなものだった。
それが、今、血の通った人間として目の前に立っている。目眩がするような気持ちの中、ふと思い至る。
黒瀬はどう思ったのだろうか。
ヒヤリと心臓が冷える。
彼が本当に『HAKU-shion』のファンだったとして、その正体が目の前にいて。
それが、冴えない地味な根暗男のクラスメイトだと知って──幻滅したんじゃないか。期待していた『HAKU-shion』のイメージを、俺という実体が無残に壊してしまったんじゃないか。
晒されたままの自分の顔が、剥き出しの頬が、冷たい空気の中で酷く心許ない。
俺は逃げるように、机に置かれていた不織布のマスクを掴んで顔を覆った。耳にゴムをかける指が、自分でも情けないほど震えている。
とにかく、ここから逃げ出したかった。
「お、俺もう、帰るから……」
マスク越しに発せられた声は、自分でも驚くほど籠もって、掠れていた。
さっきまでの『HAKU-shion』の語り口調なんて微塵もない。いつもの、低くて暗くて、不気味で聞き取りづらい、藍沢奏の声。本当の俺の姿。
黒瀬がわずかに眉間に皺を寄せ、一歩、距離を詰めてくる。
「よく聞こえない」
──まただ。また、そういうことを言う。
『HAKU-shion』としての俺は手放しで肯定されるのに、目の前にいる『俺』は、こうして否定される。
好きでこんな聞き取りづらい声をしているわけじゃない。
配信なら、台本がある。心構えができる。何より、目の前に人がいないから、俺は『HAKU-shion』という役割に没頭できる。
さっきみたいな至近距離での朗読なんて、本来ならあり得ない。隣にすら声が届かないかもしれない恐怖の元、脅されて、必死で演じたに過ぎない。
──何も知らないくせに。
いいからさっきみたいに聞こえるように話せって?
悔しさと、情けなさと、正体を知られた恐怖。それらが綯い交ぜになり、俺はもうぐちゃぐちゃな気持ちで、気がつけば叫んでいた。
「……っ、それができたら、苦労しない……!」
声が情けなく裏返る。
俺の声が、放課後の静かな教室に鋭く響いた。
黒瀬がどんな顔をしたのか、今の俺には確認する余裕なんてない。必死に顔を背け、そのまま俺は、台本を抱えて逃げるように教室を飛び出した。
***
朝の光が、痛いほどに眩しい。
昨晩は当然のように一睡もできず、俺は通学路を、重い足取りで歩いていた。
いつも通り身につけている黒いマスクも相まって、俺の顔色は通常よりずっと薄暗いだろう。
──最悪だ。
正体がバレた混乱や嵐のような感情があったとはいえ、曲がりなりにも『推し』と言ってくれた相手に対して、あの態度はない。
幻滅どころか、アンチになってもおかしくないだろう。
しかもあの『黒瀬』だ。下手すれば殺されるんじゃないか……?
黒瀬に付きまとう不穏な噂が、リアリティをもって俺に襲いかかってくる。
証拠になり得る台本は取り返した。
スマホで撮られていた可能性はあるが、現物がない以上、信憑性は薄くなるだろう。それでも、どうしても不安は付きまとう。
──というか。
あの時はパニックで視野が狭まっていたが、冷静に考えればあの台本だって、俺や姉の紗枝に繋がる個人情報なんてひとつも書かれていない。すでに配信された内容だ。作ろうと思えば誰にでも作れる。
実のところ、現物自体にもそれほど効力はないのだ。単に俺の教科書に挟まっていたという、状況証拠のみ。
やろうと思えば誰彼構わずターゲットにできてしまう、そんな曖昧な根拠の元で、「HAKU-shionの正体はコイツだ!」と晒されても、納得する人はそういないんじゃないか?
「どうせ捏造だろ」とか「妄想乙」とか言われて終わるのが関の山だろう。
いや、でも、そういう『配信者の中の人の暴露』が、例え疑惑でも残り続けるのも良くないよな。まぁ疑惑じゃなくて事実だけど……。
……などという思考を、昨日から数え切れないほど繰り返していた。
少しでもポジティブに考えようとすると、「いや」とネガティブ思考に戻る。堂々巡りだ。
テンパって正体バラして、その上ヒスって逃げ帰った。改めて振り返ると、最悪な行動だよ、ホント。
……でも黒瀬、やけに確信持ってたんだよな。
──「ねぇ、『HAKU-shion』って、藍沢でしょ」
教科書に台本が挟まってた程度で、そんな発想に至るだろうか。
黒瀬と満足に会話した覚えはない。そもそも声変わりをしてからというもの、家族以外とまともに口をきいていないんだ。
ボソボソと不明瞭に話す俺と、あのマイク越しの声を結びつけるのは不可能に思えた。……黒瀬だって、俺の声が「よく聞こえない」と再三言っていたし。
どこでそんな確信を得たのだろう。
ノロノロとした足取りの中、ようやく校舎に辿り着く。学校では騒ぎになっている──わけもなく、誰も俺を気にしない、いつもの校内だった。
やっぱり、証拠不十分で晒しようもないのだろう。
──いや、まだ油断できない。
俺は、黒瀬が遅刻常習者だということを思い出す。つまりまだ登校してない可能性が高い。
これはいわゆる嵐の前の静けさというやつで、何かしらの行動は、彼が登校してから始まるのかもしれない。
そんな緊張感の裏側で、絶望の賞味期限を引き延ばせたことに、ほんの少しホッとしている自分がいる。例えそれが、問題の先延ばしでしかなくても。
しかし、俺のその淡い期待は、無残に打ち砕かれた。
教室から廊下に漏れ聞こえてくる、いつもと違う妙に落ち着かないザワつき。嫌な予感を胸に、意を決してドアの隙間から中を覗き込む。
──一番後ろの席。窓際の右隣。
始業前のこの時間に、黒瀬瑛理が、座っている。眠たげに、気だるげに──不機嫌そうに。
「うっ……」
逃げようと踵を返しかけた瞬間、後ろから「藍沢、何やってんだ」と担任の声がした。
タイミングがいいのか悪いのか、始業のチャイムが鳴り響く。
「ほら入れ、HR始めるぞ」
逃げ道を塞がれ、俺はできるだけ気配を殺し、教室へと足を踏み入れた
なるべく黒瀬の方を見ないよう、床だけを見つめて自分の席につく。
──隣からは、痛いほどの視線を感じる。目線ひとつでここまで威圧感が出せるのか。俺は逃げるように窓の外の景色に目を固定した。
教室内はどこか、そわそわした雰囲気があった。担任ですら「お。黒瀬いるのか? 珍しいな」と驚いている。それだけ異例だった。
黒瀬が答えを返したそぶりはない。視線は、変わらずこちらを向いたままだ。
朝のHRが始まる。
──どうする。このHRが終われば、逃げ場のない休み時間がやってくる。絶望の賞味期限は、俺の予想よりも遥かに早かった。
とりあえず、昨日の失礼を詫びつつ、すべて穏便にどうにかできないだろうか。
黒瀬には一連のことをなかったことにしてもらって──いや、虫が良すぎるか。ぐるぐると答えの出ない自問自答を繰り返していた、その時。
机に置いていた自分の肘に、つん、と。何かが当たった。
思わず視線をそこに落とすと、長い指先が──黒瀬の指先が、俺を突いていた。
黒瀬の手はすぐさま引っ込み、後には小さく折られたメモ用紙が、俺の腕の傍に転がっている。
隣からの、突き刺さるような視線の圧が一段と強まった気がする。「読め」ということだろう。
脅迫文か何かだろうか。俺は心臓の鼓動が耳元まで響くのを感じながら、震える手でその折り目を解いていった。
『昨日はごめん。ちゃんと話したい。昼休み、三階の空き教室で待ってる』
「…………」
──予想に反して、そこには、しおらしすぎる文章があるのみだった。
俺は場違いにも、「意外と字、キレイだな」という逃避に近い感想を抱いた。
すっかり毒気が抜かれた思いで──それでも恐る恐る、隣を盗み見る。
そこには、さっきまでの鋭すぎる視線はどこへやら。机に突っ伏している黒瀬の姿があった。
プラチナベージュの髪に緩やかに隠された耳元では、朝日を弾いて光るシルバーピアス。朝のHRなんてお構いなしでねじ込まれたワイヤレスイヤホン。
髪と、ピアスについた細いシルバーチェーンが、窓から吹き込む風で、静かに揺れている。……口元からは、微かな寝息が聞こえた。
──ね、寝てるし……!
さっきまでの気迫はどこへ行ったのか。
俺はもう、担任の「おーい、黒瀬ー。寝るなー」という気の抜けた声と共に、深く脱力するしかなかった。
俺から何か話しかけるわけもなく、気まずい沈黙が流れる。
──もし黒瀬の言うことが。
俺の裏の顔である『HAKU-shion』が、コイツの推しだというのが本当なのだとしたら。
つまり、リスナーってことでいいんだよな……?
あの『黒瀬瑛理』が? あまりに現実味がない。
俺が『HAKU-shion』だということは、家族以外知らない。友達という友達もいないから共有するような相手もいないし、いたとしても話さないだろう。
表の俺との印象が違いすぎるから、ドン引かれて距離を置かれるオチが目に浮かぶ。
だからというか、画面の向こう側にいるはずの『視聴者』という存在は、俺にとってどこか遠い世界の、実体のない概念のようなものだった。
それが、今、血の通った人間として目の前に立っている。目眩がするような気持ちの中、ふと思い至る。
黒瀬はどう思ったのだろうか。
ヒヤリと心臓が冷える。
彼が本当に『HAKU-shion』のファンだったとして、その正体が目の前にいて。
それが、冴えない地味な根暗男のクラスメイトだと知って──幻滅したんじゃないか。期待していた『HAKU-shion』のイメージを、俺という実体が無残に壊してしまったんじゃないか。
晒されたままの自分の顔が、剥き出しの頬が、冷たい空気の中で酷く心許ない。
俺は逃げるように、机に置かれていた不織布のマスクを掴んで顔を覆った。耳にゴムをかける指が、自分でも情けないほど震えている。
とにかく、ここから逃げ出したかった。
「お、俺もう、帰るから……」
マスク越しに発せられた声は、自分でも驚くほど籠もって、掠れていた。
さっきまでの『HAKU-shion』の語り口調なんて微塵もない。いつもの、低くて暗くて、不気味で聞き取りづらい、藍沢奏の声。本当の俺の姿。
黒瀬がわずかに眉間に皺を寄せ、一歩、距離を詰めてくる。
「よく聞こえない」
──まただ。また、そういうことを言う。
『HAKU-shion』としての俺は手放しで肯定されるのに、目の前にいる『俺』は、こうして否定される。
好きでこんな聞き取りづらい声をしているわけじゃない。
配信なら、台本がある。心構えができる。何より、目の前に人がいないから、俺は『HAKU-shion』という役割に没頭できる。
さっきみたいな至近距離での朗読なんて、本来ならあり得ない。隣にすら声が届かないかもしれない恐怖の元、脅されて、必死で演じたに過ぎない。
──何も知らないくせに。
いいからさっきみたいに聞こえるように話せって?
悔しさと、情けなさと、正体を知られた恐怖。それらが綯い交ぜになり、俺はもうぐちゃぐちゃな気持ちで、気がつけば叫んでいた。
「……っ、それができたら、苦労しない……!」
声が情けなく裏返る。
俺の声が、放課後の静かな教室に鋭く響いた。
黒瀬がどんな顔をしたのか、今の俺には確認する余裕なんてない。必死に顔を背け、そのまま俺は、台本を抱えて逃げるように教室を飛び出した。
***
朝の光が、痛いほどに眩しい。
昨晩は当然のように一睡もできず、俺は通学路を、重い足取りで歩いていた。
いつも通り身につけている黒いマスクも相まって、俺の顔色は通常よりずっと薄暗いだろう。
──最悪だ。
正体がバレた混乱や嵐のような感情があったとはいえ、曲がりなりにも『推し』と言ってくれた相手に対して、あの態度はない。
幻滅どころか、アンチになってもおかしくないだろう。
しかもあの『黒瀬』だ。下手すれば殺されるんじゃないか……?
黒瀬に付きまとう不穏な噂が、リアリティをもって俺に襲いかかってくる。
証拠になり得る台本は取り返した。
スマホで撮られていた可能性はあるが、現物がない以上、信憑性は薄くなるだろう。それでも、どうしても不安は付きまとう。
──というか。
あの時はパニックで視野が狭まっていたが、冷静に考えればあの台本だって、俺や姉の紗枝に繋がる個人情報なんてひとつも書かれていない。すでに配信された内容だ。作ろうと思えば誰にでも作れる。
実のところ、現物自体にもそれほど効力はないのだ。単に俺の教科書に挟まっていたという、状況証拠のみ。
やろうと思えば誰彼構わずターゲットにできてしまう、そんな曖昧な根拠の元で、「HAKU-shionの正体はコイツだ!」と晒されても、納得する人はそういないんじゃないか?
「どうせ捏造だろ」とか「妄想乙」とか言われて終わるのが関の山だろう。
いや、でも、そういう『配信者の中の人の暴露』が、例え疑惑でも残り続けるのも良くないよな。まぁ疑惑じゃなくて事実だけど……。
……などという思考を、昨日から数え切れないほど繰り返していた。
少しでもポジティブに考えようとすると、「いや」とネガティブ思考に戻る。堂々巡りだ。
テンパって正体バラして、その上ヒスって逃げ帰った。改めて振り返ると、最悪な行動だよ、ホント。
……でも黒瀬、やけに確信持ってたんだよな。
──「ねぇ、『HAKU-shion』って、藍沢でしょ」
教科書に台本が挟まってた程度で、そんな発想に至るだろうか。
黒瀬と満足に会話した覚えはない。そもそも声変わりをしてからというもの、家族以外とまともに口をきいていないんだ。
ボソボソと不明瞭に話す俺と、あのマイク越しの声を結びつけるのは不可能に思えた。……黒瀬だって、俺の声が「よく聞こえない」と再三言っていたし。
どこでそんな確信を得たのだろう。
ノロノロとした足取りの中、ようやく校舎に辿り着く。学校では騒ぎになっている──わけもなく、誰も俺を気にしない、いつもの校内だった。
やっぱり、証拠不十分で晒しようもないのだろう。
──いや、まだ油断できない。
俺は、黒瀬が遅刻常習者だということを思い出す。つまりまだ登校してない可能性が高い。
これはいわゆる嵐の前の静けさというやつで、何かしらの行動は、彼が登校してから始まるのかもしれない。
そんな緊張感の裏側で、絶望の賞味期限を引き延ばせたことに、ほんの少しホッとしている自分がいる。例えそれが、問題の先延ばしでしかなくても。
しかし、俺のその淡い期待は、無残に打ち砕かれた。
教室から廊下に漏れ聞こえてくる、いつもと違う妙に落ち着かないザワつき。嫌な予感を胸に、意を決してドアの隙間から中を覗き込む。
──一番後ろの席。窓際の右隣。
始業前のこの時間に、黒瀬瑛理が、座っている。眠たげに、気だるげに──不機嫌そうに。
「うっ……」
逃げようと踵を返しかけた瞬間、後ろから「藍沢、何やってんだ」と担任の声がした。
タイミングがいいのか悪いのか、始業のチャイムが鳴り響く。
「ほら入れ、HR始めるぞ」
逃げ道を塞がれ、俺はできるだけ気配を殺し、教室へと足を踏み入れた
なるべく黒瀬の方を見ないよう、床だけを見つめて自分の席につく。
──隣からは、痛いほどの視線を感じる。目線ひとつでここまで威圧感が出せるのか。俺は逃げるように窓の外の景色に目を固定した。
教室内はどこか、そわそわした雰囲気があった。担任ですら「お。黒瀬いるのか? 珍しいな」と驚いている。それだけ異例だった。
黒瀬が答えを返したそぶりはない。視線は、変わらずこちらを向いたままだ。
朝のHRが始まる。
──どうする。このHRが終われば、逃げ場のない休み時間がやってくる。絶望の賞味期限は、俺の予想よりも遥かに早かった。
とりあえず、昨日の失礼を詫びつつ、すべて穏便にどうにかできないだろうか。
黒瀬には一連のことをなかったことにしてもらって──いや、虫が良すぎるか。ぐるぐると答えの出ない自問自答を繰り返していた、その時。
机に置いていた自分の肘に、つん、と。何かが当たった。
思わず視線をそこに落とすと、長い指先が──黒瀬の指先が、俺を突いていた。
黒瀬の手はすぐさま引っ込み、後には小さく折られたメモ用紙が、俺の腕の傍に転がっている。
隣からの、突き刺さるような視線の圧が一段と強まった気がする。「読め」ということだろう。
脅迫文か何かだろうか。俺は心臓の鼓動が耳元まで響くのを感じながら、震える手でその折り目を解いていった。
『昨日はごめん。ちゃんと話したい。昼休み、三階の空き教室で待ってる』
「…………」
──予想に反して、そこには、しおらしすぎる文章があるのみだった。
俺は場違いにも、「意外と字、キレイだな」という逃避に近い感想を抱いた。
すっかり毒気が抜かれた思いで──それでも恐る恐る、隣を盗み見る。
そこには、さっきまでの鋭すぎる視線はどこへやら。机に突っ伏している黒瀬の姿があった。
プラチナベージュの髪に緩やかに隠された耳元では、朝日を弾いて光るシルバーピアス。朝のHRなんてお構いなしでねじ込まれたワイヤレスイヤホン。
髪と、ピアスについた細いシルバーチェーンが、窓から吹き込む風で、静かに揺れている。……口元からは、微かな寝息が聞こえた。
──ね、寝てるし……!
さっきまでの気迫はどこへ行ったのか。
俺はもう、担任の「おーい、黒瀬ー。寝るなー」という気の抜けた声と共に、深く脱力するしかなかった。

