喉が、引き攣るように震えた。
──何で。
何でコイツが、その名前を知っている。
『HAKU-shion』という、ネットの海の中の、俺の存在を。
──いや、落ち着け。台本だ。あのプリントの表題に、ご丁寧にも『HAKU-shion用』と書いてあったじゃないか。
俺がここに来るまでの間に、試しにネットで検索してみたんだろう。活動内容なんてそれで容易に知れる。
……どうする。「俺とは関係ない」で押し通すか?──でも、あのASMR台本が黒瀬の手元にあるままじゃ、どう悪用されるかわかったものじゃない。
「これ、藍沢のじゃないの?」
黒瀬は台本の端を指先で掴み、光に透かすように掲げた。見せつけるような動作だった。
ここで「はい」と答えれば、『HAKU-shionの関係者』だと半ば認めたようなものだ。……いや、その方向性はありか? なんとか本人ではなく、関係者程度に誤魔化せないか。
──口下手な俺に、そんな高等な交渉ができるのか……?ここに着いてから一度も、まともな返答すらできていないのに?
あの爆弾は確固たる証拠になり得る。このままでは明日には学校中に晒されるか、あるいは、ネット上に情報として流されるかもしれない。
俺はマスクの下で唇を噛み、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「……か、返して、ください……」
ほとんど空気の音に近い、掠れた声。
黒瀬の眉間にわずかな皺が寄った。長い足で一気にこちらまで距離を詰められ、威圧的な体躯が俺を見下ろす。
「よく聞こえない」
──その一言に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
脳裏に閉じ込めていた記憶がフラッシュバックする。
『もっと普通に喋って?』『何言ってるか分かんないってば』──先輩の悪意のない笑顔。同級生たちの、奇妙なものを見るような目。
喉の奥が熱くなり、呼吸は荒くなる一方だ。酸素が足りない。
黒瀬がことりと首を傾げ、その長い指先を俺の顔へと伸ばした。
「そのままじゃ酸欠になんない? 外したら?」
「っ……やめ──」
拒絶が届くより早く、耳元に指が触れる。
強張った体は咄嗟に動かず、俺を半分覆ってくれていた防壁は、あっさりと剥ぎ取られた。
夕闇の冷たい空気が、剥き出しになった頬を刺す。
黒瀬は俺の後ろの引き戸を閉めると、奪った不織布を自分の指に引っ掛けたまま、再び窓際へと戻っていく。マスクを無造作に俺の机へ置くと「こっち来て」と窓枠に背を預け、俺を手招いた。
逆光に縁取られた黒瀬の瞳は、冷たく澄んだ宝石のような美しさすらあった。
同時に、こちらの肺腑を覗き込み、何か決定的な綻びを見つけようとするような──底の知れない温度を孕んでいる。
重い足取りで、なんとか黒瀬の前まで辿り着く。彼は台本を、俺の胸元に差し出した。
「読んで、これ」
「──は……?」
返すための交換条件、ということだろうか。
──何のために?
決まってる。俺を嘲笑うためだろう。もしくは、弱みを握ってカツアゲという流れか……黒瀬に対する黒い噂が、急に現実味を帯びていく。
「棒読みはナシ。ちゃんと読んで」
黒瀬は自身の隣へ来るように、顎で示した。
それに逆らえる強さも術もない俺は、言いなりになる他ない。黒瀬の隣で、同じように窓に背を向けた。教室の引き戸は閉まっているが、鍵はかかってもいない、
それなのに俺は、茜色の残影の中に閉じ込められている感覚を覚えた。
震える手で台本を握りしめる。
目を向けずとも、黒瀬がこちらを注意深く窺っていることがわかる。背も体格も、あちらが圧倒的に優位。もやしの俺が、走力でも腕力でも勝てるとは思えない。抵抗できる手立てはない。
──やるしかない。
返してもらうためだと俺は覚悟を決める。
遠くから聞こえていたはず生徒の声や吹奏楽の音色も、今は止んでいた。
静まりかえった教室で、俺は意識を『HAKU-shion』のチャンネルに切り替える。
羞恥心がないわけではない。いつもの配信だって、何かと手伝ってくれている姉ですら、絶対に目のつかない所にいてもらっている。隣に誰かがいるという状況で、台本を読んだことはなかった。
ましてや、隣にいるのは校内一恐れられている男。
──今は忘れろ。これは『配信』だ。無理にでも、ここは配信場所である自室で、目の前にはマイクがあると思い込め。
俺はゆっくりと瞼を閉じ、肺の奥まで深く、冷たい空気を吸い込んだ。
やることはいつもと同じだ。過剰に演じる必要はない。いつもみたいに、情景を思い描く。自分なりに、台本の行間に潜む空気を読み解く。
俺は息を吐き出し、ゆったりと口を開く。
「『……どうしたの』」
黒瀬が息を呑む気配が伝わってくる。でも今の俺は、それに意識を割くことはなかった。
台本の内容は、すでに頭に入っている。
でも、単純に内容をなぞるだけのようには喋らない。その言葉が発せられるに至った体温や、距離感をシミュレーションし続ける。
「『ねえ、そんなに震えて……寒い? それとももしかして、俺のせい?』」
目を開く。
台本に視線を落としてはいるが、それは確認というより、集中を加速させるトリガーだった。
「『怖くないなら、もっと近くに来て』」
台本に書かれた、姉の妄想が詰まった甘ったるい台詞。それを一文字ずつ、丁寧に紡いでいく。具体的なシーンを、相手を思い描きながら、囁くように。目の前にいる相手を慈しむように。
そのまま、最後の一文字まで読み切った。
「…………」
──刺すような静寂が、教室を支配した。
俺はすでに我に返っていて、そこにある感情は、もはや羞恥心を通り越し、黒瀬の反応を死刑宣告を待つ囚人のような心地だった。
黒瀬が、「は」と息を吐いた気配があった。
「……やば……」
黒瀬のその言葉に、俺の呼吸は、喉に突っかかるようにして止まった。台本を持つ指先が震える。
……ああ、笑われる。
やはり『根暗な藍沢がこんなことを?(笑)』と、馬鹿にするのだろう。
機器を通していない不気味な俺の声は、そもそもノイズのように思えたかもしれない。
どうやっても受け付けない声だとか、内容だとか、それは人の自由だ。俺は強制も否定もするつもりはない。
でもだからって、こんな、無理に言わせて馬鹿にするような真似はないんじゃないか……俺が怒りとも悲しみとも言い切れない、嵐のような気持ちでいると、
「──最高」
掠れた声で、黒瀬が呻くようにそう零した。
見れば、黒瀬はズルズルと床に崩れ落ちていた。噛みしめるように目を閉じ、大きな手で必死に口元を抑えながら。
その顔は、耳は、夕日で誤魔化しきれないほど真っ赤に染まっていた。
──何で。
何でコイツが、その名前を知っている。
『HAKU-shion』という、ネットの海の中の、俺の存在を。
──いや、落ち着け。台本だ。あのプリントの表題に、ご丁寧にも『HAKU-shion用』と書いてあったじゃないか。
俺がここに来るまでの間に、試しにネットで検索してみたんだろう。活動内容なんてそれで容易に知れる。
……どうする。「俺とは関係ない」で押し通すか?──でも、あのASMR台本が黒瀬の手元にあるままじゃ、どう悪用されるかわかったものじゃない。
「これ、藍沢のじゃないの?」
黒瀬は台本の端を指先で掴み、光に透かすように掲げた。見せつけるような動作だった。
ここで「はい」と答えれば、『HAKU-shionの関係者』だと半ば認めたようなものだ。……いや、その方向性はありか? なんとか本人ではなく、関係者程度に誤魔化せないか。
──口下手な俺に、そんな高等な交渉ができるのか……?ここに着いてから一度も、まともな返答すらできていないのに?
あの爆弾は確固たる証拠になり得る。このままでは明日には学校中に晒されるか、あるいは、ネット上に情報として流されるかもしれない。
俺はマスクの下で唇を噛み、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「……か、返して、ください……」
ほとんど空気の音に近い、掠れた声。
黒瀬の眉間にわずかな皺が寄った。長い足で一気にこちらまで距離を詰められ、威圧的な体躯が俺を見下ろす。
「よく聞こえない」
──その一言に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
脳裏に閉じ込めていた記憶がフラッシュバックする。
『もっと普通に喋って?』『何言ってるか分かんないってば』──先輩の悪意のない笑顔。同級生たちの、奇妙なものを見るような目。
喉の奥が熱くなり、呼吸は荒くなる一方だ。酸素が足りない。
黒瀬がことりと首を傾げ、その長い指先を俺の顔へと伸ばした。
「そのままじゃ酸欠になんない? 外したら?」
「っ……やめ──」
拒絶が届くより早く、耳元に指が触れる。
強張った体は咄嗟に動かず、俺を半分覆ってくれていた防壁は、あっさりと剥ぎ取られた。
夕闇の冷たい空気が、剥き出しになった頬を刺す。
黒瀬は俺の後ろの引き戸を閉めると、奪った不織布を自分の指に引っ掛けたまま、再び窓際へと戻っていく。マスクを無造作に俺の机へ置くと「こっち来て」と窓枠に背を預け、俺を手招いた。
逆光に縁取られた黒瀬の瞳は、冷たく澄んだ宝石のような美しさすらあった。
同時に、こちらの肺腑を覗き込み、何か決定的な綻びを見つけようとするような──底の知れない温度を孕んでいる。
重い足取りで、なんとか黒瀬の前まで辿り着く。彼は台本を、俺の胸元に差し出した。
「読んで、これ」
「──は……?」
返すための交換条件、ということだろうか。
──何のために?
決まってる。俺を嘲笑うためだろう。もしくは、弱みを握ってカツアゲという流れか……黒瀬に対する黒い噂が、急に現実味を帯びていく。
「棒読みはナシ。ちゃんと読んで」
黒瀬は自身の隣へ来るように、顎で示した。
それに逆らえる強さも術もない俺は、言いなりになる他ない。黒瀬の隣で、同じように窓に背を向けた。教室の引き戸は閉まっているが、鍵はかかってもいない、
それなのに俺は、茜色の残影の中に閉じ込められている感覚を覚えた。
震える手で台本を握りしめる。
目を向けずとも、黒瀬がこちらを注意深く窺っていることがわかる。背も体格も、あちらが圧倒的に優位。もやしの俺が、走力でも腕力でも勝てるとは思えない。抵抗できる手立てはない。
──やるしかない。
返してもらうためだと俺は覚悟を決める。
遠くから聞こえていたはず生徒の声や吹奏楽の音色も、今は止んでいた。
静まりかえった教室で、俺は意識を『HAKU-shion』のチャンネルに切り替える。
羞恥心がないわけではない。いつもの配信だって、何かと手伝ってくれている姉ですら、絶対に目のつかない所にいてもらっている。隣に誰かがいるという状況で、台本を読んだことはなかった。
ましてや、隣にいるのは校内一恐れられている男。
──今は忘れろ。これは『配信』だ。無理にでも、ここは配信場所である自室で、目の前にはマイクがあると思い込め。
俺はゆっくりと瞼を閉じ、肺の奥まで深く、冷たい空気を吸い込んだ。
やることはいつもと同じだ。過剰に演じる必要はない。いつもみたいに、情景を思い描く。自分なりに、台本の行間に潜む空気を読み解く。
俺は息を吐き出し、ゆったりと口を開く。
「『……どうしたの』」
黒瀬が息を呑む気配が伝わってくる。でも今の俺は、それに意識を割くことはなかった。
台本の内容は、すでに頭に入っている。
でも、単純に内容をなぞるだけのようには喋らない。その言葉が発せられるに至った体温や、距離感をシミュレーションし続ける。
「『ねえ、そんなに震えて……寒い? それとももしかして、俺のせい?』」
目を開く。
台本に視線を落としてはいるが、それは確認というより、集中を加速させるトリガーだった。
「『怖くないなら、もっと近くに来て』」
台本に書かれた、姉の妄想が詰まった甘ったるい台詞。それを一文字ずつ、丁寧に紡いでいく。具体的なシーンを、相手を思い描きながら、囁くように。目の前にいる相手を慈しむように。
そのまま、最後の一文字まで読み切った。
「…………」
──刺すような静寂が、教室を支配した。
俺はすでに我に返っていて、そこにある感情は、もはや羞恥心を通り越し、黒瀬の反応を死刑宣告を待つ囚人のような心地だった。
黒瀬が、「は」と息を吐いた気配があった。
「……やば……」
黒瀬のその言葉に、俺の呼吸は、喉に突っかかるようにして止まった。台本を持つ指先が震える。
……ああ、笑われる。
やはり『根暗な藍沢がこんなことを?(笑)』と、馬鹿にするのだろう。
機器を通していない不気味な俺の声は、そもそもノイズのように思えたかもしれない。
どうやっても受け付けない声だとか、内容だとか、それは人の自由だ。俺は強制も否定もするつもりはない。
でもだからって、こんな、無理に言わせて馬鹿にするような真似はないんじゃないか……俺が怒りとも悲しみとも言い切れない、嵐のような気持ちでいると、
「──最高」
掠れた声で、黒瀬が呻くようにそう零した。
見れば、黒瀬はズルズルと床に崩れ落ちていた。噛みしめるように目を閉じ、大きな手で必死に口元を抑えながら。
その顔は、耳は、夕日で誤魔化しきれないほど真っ赤に染まっていた。

