『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 終礼の挨拶が終わるや否や、俺は弾かれたように教室を後にした。
 部活動とは無縁の身だ。どこへ寄るでもなく駅へと急ぐ。とにかく、一刻も早くあの空間から離れたかった。

 駅のホームに着いたところで、ようやく張り詰めていた緊張が解け始める。

 ──逃げ切った。あの氷のような眼差しから。

 教科書を返してからの数時間。隣の黒瀬瑛理から、剥き出しの刃のような視線を向けられ続けていた。
 キョドっていた俺に対する、「何だコイツ、キモッ」という眼差しだったのかもしれないが──いやでも、そんな理由で放課後まで睨みつけてくるものか……?

 俺はそんな隣人に気づかぬふりをして一日をやり過ごし、終礼と同時に身の回りのものを鞄へ押し込み、逃げてきたのだ。

 ……プリント、ぐちゃぐちゃになってないだろうか。
 ふと気になって鞄のファスナーを開けたところで、俺は巻き戻しのように『爆弾』の存在を思い出した。

 教科書に挟みっぱなしの、甘ったるい『台本』のことを。

 心臓が嫌な音を立てる。何で忘れてた。よもやどこかに落としちゃいないだろうなと、俺は震える手で教科書を引き寄せた。

「……あ」

 指先に触れた背表紙の角が、不自然なほど鋭い。
 俺の教科書は、端がもっと丸まっているはずだ。恐る恐る取り出したそれには、わずかにあるはずの『不自然な厚み』もない。

 縋る思いでひっくり返し、裏表紙を見た。
 傾きかけた陽光の下、殴り書きの文字が躍っていた。

『黒瀬瑛理』

 ──一瞬、心臓が脈打つのを忘れた。

 指先から体温が引いていき、足元の地面がぐにゃりと歪んだ気がした。悪あがきのように教科書をめくるが、当然、三つ折りのプリントなんて挟まっていない。

 どこで黒瀬の教科書を手にしたのかなんて、考えるまでもない。
 あの時、パニックで拾い上げた二冊を、他の誰でもない俺が取り違えてしまったのだ。

 つまり俺の教科書は──あの台本が挟まったままの俺の教科書は今、黒瀬の手元にある。

「……終わった」
 普段、呪いのように抑え込んでいる声が、本物の呪詛みたいに喉奥から漏れ出た。

 もし、黒瀬が取り違いに気づき、あの台本を見つけ出していたら──羞恥心よりも、それを上回る圧倒的な恐怖が押し寄せた。

 絶対に、キモがられる。あるいは面白がってクラス中に言いふらすような、『遊びの道具』にされる可能性すらある。そこに待ち受けるのは、学校という社会での死。

 ──いや、まだだ。
 俺は崩れ落ちかけた膝をなんとか奮い立たせ、駅へと向かう人の流れに逆らって走り出した。

 まだ間に合うかもしれない。
 自習の間、黒瀬は教科書を一度も開かず、中身を確認する素振りもなかった。気づかれていない可能性の方が高い。

 机に入れたまま、すでに下校していたら御の字だ。こっそりと入れ替えて元に戻せば、何事もない日常に戻れる。ダラダラ教室に残るタイプでないことを祈りつつ、とにかく走る。

 不織布のマスクが呼吸を妨げ、肺が焼ける。鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。それでも、止まることなく足を動かし続けた。

 学校に辿り着いた頃には、辺りは夕暮れに染まり始めていた。

 部活動が盛んな高校だ。生徒のほとんどはグラウンドや体育館、あるいは部室やそれぞれの活動場所に集まっている。校舎内は、遠くから響く掛け声や吹奏楽の音色がよく聞こえるほど静かだった。

 俺は荒い呼吸を必死に抑え、階段を駆け上がる。幸運なことに、誰ともすれ違うことはなかった。廊下を突き進み、自分の教室の前で足を止める。
 心臓が肋骨を内側から叩き壊しそうなほどに暴れていた。

 ──大丈夫だ。あいつが、こんな時間まで残っているはずがない。
 自分にそう言い聞かせながら、引き戸に指をかけた。ガラリと静寂を裂く乾いた音が、廊下に反響する。

 夕日の差し込む教室は、燃えるような茜色に浸されていた。

 床に、長く伸びたひとつの影がある。
 ──窓際、一番後ろ。俺の席の、すぐ傍。

 窓に背を向けていた男──黒瀬瑛理が、ゆっくりと視線を上げた。

 その動きに合わせて、シルバーピアスを繋ぐ細いチェーンがシャラリと冷たく揺れる。
 窓から差し込む赤い残光を反射して、銀の鎖が、まるで獲物を捕らえた蜘蛛の糸のように鋭く閃いた。

 俺は、一歩も動けなかった。
 マスクの奥で、熱を帯びた呼吸が醜く震える。

 取り違えた教科書は、俺の机に置かれていた。そして黒瀬の手元には、あの三つ折りの紙があった。

「これ。お前の教科書に挟まってたんだけど?」

 黒瀬はその紙を──台本をひらひらと、弄ぶように揺らした。俺は唾を飲み込み、パニックで沸騰しそうな頭を必死に回転させる。

 ──まだ、誤魔化せる。
 それは俺のじゃない。いつの間にか挟まってたんだ。誰かの嫌がらせか、あるいは悪い冗談だ。そうやって、知らないふりを通せば──。

 その時。

「ねぇ、『HAKU-shion』って、藍沢でしょ」

 ──周囲の音が、消え去った。

 遠くの掛け声も、吹奏楽の音色も何もかも。
 世界の時間が、ぴたりと止まったかのような錯覚。

 黒瀬の薄い色の瞳が、確信を持って俺の奥を射抜いていた。

 体中に響く鼓動は、もうすぐそこまで迫った社会的死へのカウントダウンを刻んでいた。