『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 ──黒瀬、『好き』って言ったよな……。

 自宅でシャワーを浴びながら、何度目かもわからない自問を繰り返す。
 あの保健室での出来事から、すでに一週間以上経っていた。

 先週日曜日の配信は大事をとって休み、それから更に三日……今はもう水曜日だった。
 体調不良で伏せっていた数日間は仕方ないにしても、学校に復帰してからの六日の間、確かめる機会はいくらでもあったはずだ。

 それでも俺は、どうしても黒瀬にあの日のことを訊ねられずにいた。

 ──『だって…………好き、なんだから………仕方なくね?』

 聞き間違いだったのだろうか。
 意識ははっきりしていたつもりだが、体調不良の中で聞いた空耳だった可能性もゼロではない。あるいは、何かを聞き逃したゆえの曲解──いくらでも否定する材料はあった。

 それでも否定しきれないのは、あの日の黒瀬の体温を、俺の肩が、手が、覚えているからだった。

 浴室を出て髪を乾かしながら、なおも思案を続ける。
 今日は少し久しぶりに、黒瀬が泊まりに来ていた。……こうしてひとりになると、余計なことまで考えてしまうのは仕方のないことだと思う。
 彼は先に風呂を済ませ、今は俺の部屋でのんびりしているはずだ。まだ夜はそう深まっていない。時間はいくらでもある。
 気になるなら、とっとと聞いてしまえばいい。

 ──それはそうなんだけど……。

 黒瀬からあの発言について、何かしら言うことはなかった。
 だから俺から言い出せない──いや、それは言い訳だ。

 もし黒瀬に、「何のこと?」って笑って流されてしまったら……。俺はなぜか、それが怖くて仕方がなかった。

 のろのろと自室へ向かう。
 飼い猫のニナが入れるように、いつも僅かに開けてあるドアの隙間から、何とはなしにそっと中を覗き込んだ。

 黒瀬はベッドに腰かけ、目を閉じていた。
 ピアスを外した無防備な耳には、ワイヤレスイヤホンが部屋の灯りを浴びて鈍く光っている。……コイツ、本当に隙あらば聴いてるな。悪い気はしないが、なんとも複雑な気持ちで室内に入る。

 寝てしまっている可能性を考え、足音を忍ばせてベッド脇へ歩み寄る。
 サイドチェストに置かれたシルバートレイには、黒瀬のピアスが丁寧に置かれていた。
 黒瀬は本当に寝ているのか、あるいは集中しているのか、俺がすぐ傍まで来ても動かない。……こんなにすぐ近くにいるのに。
 俺は手持ち無沙汰に、つい、その銀細工のひとつを指先でつついた。

「それ、気になる?」
「うおっ……!」

 唐突な声にビクリと肩が跳ね、慌てて手を引っ込める。
 いつの間にか目を開けていた黒瀬が、イヤホンを外しながらこちらを見上げていた。

「わ、わるい」
「何で謝んの。藍沢だったらいいよ」
 黒瀬は一度大きく伸びをしてから立ち上がり、俺の隣に並んだ。
「どうしてつついてたの?」
「……何でって……」
 なんとなくではある。
 しかしその奥には、言葉にならない別の感情がほんの少しあったのも事実だった。

「もしかして、俺が構ってこないから──妬いちゃった? とか」
「……っな、なんでそうなる……!?」
 俺、黒瀬のその発言に、なぜかひどく狼狽えた。そんな俺の態度を黒瀬は否定と捉えたらしい。「なんだ、違うのか」と唇を尖らせた。……どうしてお前が拗ねる。

 黒瀬の体温を、すぐ傍に感じる。彼との距離は正直に言って近い。
 変声期以降、まともな友人関係を築いてこなかった俺には、これが『友達として』適切な距離なのか判断できない。

 もし、あの言葉が聞き間違いじゃなかったとして。
 黒瀬の言った『好き』は、『友達として』なのかもしれない。

 それはそれで、嬉しいと思う。
 だって、面と向かって好きと言われたのは、家族以外では生まれて初めてだったのだ。例え友達という前提であっても。

 ──『それはそれで嬉しい』って……じゃあ、『友達として』じゃなかったらどうなんだ。

 好きの種類はいくらでもある。
 両親や紗枝、ニナへの家族としての好意。作品やそれを通した先の作家に向けた敬愛。
 あるいは──ただその人を独占したいと願うような、ひどく熱烈で身勝手な想い。

「っ……」
 その思考に至った瞬間、俺はひどく動揺してしまい、ベッドの縁に足を引っかけた。
「藍沢……!?」
 黒瀬が咄嗟に手を引いてくれたが、勢い余ってそのままふたり、もつれるようにベッドの上に転がった。

 ちょうど俺が押し倒されたような形になり、黒瀬の顔との距離がひどく近い。さらりと流れた彼の髪が、俺の頬をくすぐる。
 睫毛の長さ。鋭く美しい瞳は、しかし今あまりに無防備だった。
 体は密着していて、顔と顔が触れてしまいそうなこの距離を、俺はまったく嫌だと感じていない。

 ──そんな風に思ってしまうのは、『友達として』適切な距離なんだろうか。

 黒瀬の鼓動が、ひどく早い。いや、これはもしかしたら、俺の心臓の音なのかもしれない。どちらのものか……あるいはふたりのものか、わからないほど重なり合っている。

 ふと、黒瀬の目がそっと伏せられた。そのまま吸い寄せられるように、顔と顔の距離がさらに縮まっていく。

「……くろ、せ……」

 自分でも、どんな感情でその名を呼んだのかわからない。
 けれど、俺の声を聞いたであろう黒瀬がピタリと動きを止めた。

「!!!!!!!!!! っっっっ……うわ、俺っ……ごごごごごごめっ……ちょ、なにしてんのおれっ……」

 黒瀬はものすごい勢いで俺の上から退くと、床の上に尻もちをついたと思ったら転がり、真っ赤な顔をしてあわあわとしている。
 耳の先、更に首筋まで真っ赤に染まっている。顔を両手で覆い、叱られた子犬のように丸まって震えていた。
「……い、いや謝らなくていいよ……俺が転んだのが悪いし……」
「ぜんぜんわるくない、藍沢わるくない……俺が、おれが……まじごめんっ」
「いいから……その、大丈夫だし、怒ってないし、顔上げて起き上がってくれると……」

 黒瀬はおずおずと起き上がり、その場に居住まいを正して正座した。
 ベッドの上で半ば呆然としている俺を見上げ、赤みの残る顔のまま、黒瀬は表情を引き締めた。

「……藍沢。俺、ちゃんとしたいっつーか……しかるべきシチュエーションでって考えてて……」
「? う、うん……?」
「本当に、今日はもう、っつーか、ちゃんとするまで変なこと……へ、変なことっていうか、うん、とにかく、妙なことはしない。いや、ちゃんとしてからも藍沢が嫌がるならしないし……や、説得力ないって自分でも思うけど……」

 ──しかるべきシチュエーション、とは?
 その問いを挟む隙もなく、俺はただただ、黒瀬の必死さに圧倒されていた。

「あの、さ……明後日、学校終わったあと、時間もらえる?」
「明後日っていうと、金曜日? いいけど……突然どうしたんだ?」
 いつもは当日に決まる放課後の予定を、わざわざ前もって取り付けられるのは初めてだった。緊張した口ぶりで、黒瀬が続けた。

「俺の家、来ないかなって」
「黒瀬の家? 行って良いのか?」
「うん、藍沢がよかったら……あ、あと、ご両親と紗枝さんの許可も……」
「それは大丈夫だと思うけど」
 黒瀬はホッと息を吐き、肩の力を抜いた。

「……今日はもう寝よ。今俺、テンパってるし、あんまし藍沢とやり取りしてると……またなんかしでかしそうで……怖いっつーか……」
「しでかしたのは俺の方だと思うけど……」
 何度も言うようだが、転んだのは俺なのだ。
 黒瀬はギクシャクとした動きで、ベッド脇に布団を敷いている。……明日も学校がある。まだそう遅い時間ではないが、早く寝て悪いということはないだろう。
 結局俺は黒瀬の提案に従って電気を消し、ベッドに潜り込んだ。

 ──明後日。
 ふと、「その日、特別何かがあっただろうか」と思い至り、俺は布団の中でそっとスマホのカレンダーを開いた。

 青白い光の中に浮かび上がったのは、12月24日という日付。
 クリスマスイブだった。