周囲の音が、時間が、すべて止まった気がした。
──今、何て言った……?
黒瀬は沸騰しそうなほど顔を真っ赤に染め、再び視線を、俺から逸らした。
聞き間違いでなければ、今、黒瀬は──。
俺は言葉の真意を訊ねようと、ひとつ息を吸い込んだ──その瞬間だった。
ガラリ、と無機質な音を立てて、保健室の引き戸が開かれた。
俺は弾かれたように、繋がれていた手を引っ込めてしまう。シーツの上に残された掌の熱が、急激に冷えていく感覚。それを寂しいと思う間もなく、ベッドを囲んでいたカーテンが勢いよく開け放たれた。
「あら、藍沢くん起きたのね。体調はどう? 少しは落ち着いた?」
現れたのは、柔らかな笑みを浮かべた養護教諭だった。
彼女の視線はまず俺の顔色を窺い、それから、俺の傍らで固まっている黒瀬へと向けられた。
「黒瀬くん、あなたまだいたの」
先生は、呆れたような、けれどどこか慈愛に満ちた溜め息をつく。
黒瀬は気まずそうに視線を落とし、「……だって」と子供のように唇を尖らせた。
「この子、休み時間のたびにここへ来て、私が追い出すまでずっといたのよ。藍沢くんが心配で、気が気じゃなかったみたい」
思わず黒瀬の方を見る。
彼は「うぐ」と小さく呻きはしたが、否定することもなく、耳先の赤みもそのままだった。俺がここで寝ている間も、黒瀬はわざわざ様子を見に来てくれていたのか。その事実に、胸の奥が熱く疼く。
「これから私、校外で打ち合わせがあるから、ついでに車で自宅まで送ってくね。鞄は──ああ、黒瀬くんが持ってきてくれてたの。助かるわ」
先生は淀みのない手つきで帰宅の準備を整えていく。
黒瀬が「俺も付き添います」と声を上げたが、彼女は「ダメダメ」と首を振り、それを遮った。
「先生の車はタクシーじゃないのよ。藍沢くんは『病人』として私が責任を持って送り届けるけれど、あなたまで乗せるわけにはいかないの。学校の決まり、わかるわね?」
ぐうの音も出ない正論だった。「でも」と、なおも反論しようとする黒瀬に、彼女は更に言葉を重ねる。
「それに黒瀬くん、あなた今日一日、ずっと気が張ってたでしょう? 藍沢くんが安心してお休みできるように、あなたも早く帰って温かいものでも食べて休みなさい。それが一番の『お見舞い』よ」
……黒瀬は、朝から──いや、下手をすれば昨晩から、ずっと俺を気にかけ続けてくれていた。
先生の言うことはもっともで、これ以上彼に負担をかけるわけにはいかない。
俺は黒瀬のスマホに『色々ありがとう。でも大丈夫。黒瀬も帰って休んで』と打ち込んだ。
画面を差し出すと、黒瀬は雨の中に置いていかれる大型犬の子犬のような、ひどく心細げな表情を浮かべた。……正直、その顔には弱いんだけど、譲るつもりはなかった。
黒瀬は最後、俺の袖を名残惜しそうに、弱々しく引っ張った。やがてなんとか飲み込んだようで、「……わかった」とその手を離した。
不安げな黒瀬を背に、俺は先生に促されるまま、夕闇が降り始めた保健室を後にした。
先生に送り届けられ、家にいた紗枝に連れられて向かった病院での診断は、疲労から来る軽度の風邪、および喉の炎症とのことだった。
声がうまく出ないことへの不安がなくなったわけではない。
けれど、黒瀬がくれた『それで藍沢のこと、価値がないとか、嫌いとか思ったりしない』という言葉が胸に灯り、以前のように暗い底まで落ち込むことはなかった。
翌日は学校を休み、泥のように眠り続けた。
そのおかげか、次の日には体調もすっかり戻り、喉を通る空気も瑞々しく、声もすっかり戻っていた。
***
念のため、さらに一日休養を挟み、ようやく学校に復帰した。
久しぶりの登校──教室のドアを開けるなり、席にいた黒瀬が弾かれたように立ち上がった。
「藍沢……」
駆け寄ってくる足取りは大型犬そのものだったが、目の前まで来ると、彼は急に遠慮したように立ち止まった。心配と、安堵と、それから爆発しそうなほどの喜びが混ざり合ったような、ぐちゃぐちゃな顔をしている。
「……おはよ、黒瀬。もうすっかり元気だよ」
そう告げると、黒瀬は一瞬だけ泣きそうな顔をして、それから「よかった、マジでよかった……」と、噛み締めるように呟いた。
「紗枝さんから、軽い風邪とは聞いてたけど……やっぱ、何あるかわかんないし、顔見るまでは気が気じゃなくて」
「……いつの間に連絡先交換してたんだ………」
さらりと出た姉の名前に、ひっそりと眉を寄せる。
……いや別に、うちの家族と黒瀬が仲が良いことは、むしろ喜ばしいことではあるんだけど。なんとなく、面白くない。
俺が休んでいる間、彼なりに配慮してくれたのだろう。メッセージひとつも送ってこなかったから、黒瀬とのやり取り自体が数日ぶりだった。
──少し前までは、黒瀬と一言も交わさないのが当たり前だったのに。
そう思うと不思議な気持ちになる。
朝から俺にベッタリな黒瀬の様子に、クラスメイトたちは「またかよ」といった半ば呆れ顔を見せつつも、どこか微笑ましいものを見るような空気で見守っていた。
……黒瀬の、「大型犬の再会」ばりの猛アタックを目の当たりにしたら、そんな空気にもなるだろう。相変わらず、一部の女子の目線は痛かったが。
黒瀬自体の近寄りがたさは、以前よりもずっと、緩和されているように思えた。
やがてホームルームが始まり、黒瀬の興奮も次第に落ち着いて、日常が戻っていく。
授業を受け、ノートを取り、休み時間にふたり、内緒話のように笑い合う。平穏な時間が過ぎていく。
何事もなかったかのように。
──あの日、夕暮れの保健室で、黒瀬が口にした言葉の真意を。
俺は、聞けないままでいた。
──今、何て言った……?
黒瀬は沸騰しそうなほど顔を真っ赤に染め、再び視線を、俺から逸らした。
聞き間違いでなければ、今、黒瀬は──。
俺は言葉の真意を訊ねようと、ひとつ息を吸い込んだ──その瞬間だった。
ガラリ、と無機質な音を立てて、保健室の引き戸が開かれた。
俺は弾かれたように、繋がれていた手を引っ込めてしまう。シーツの上に残された掌の熱が、急激に冷えていく感覚。それを寂しいと思う間もなく、ベッドを囲んでいたカーテンが勢いよく開け放たれた。
「あら、藍沢くん起きたのね。体調はどう? 少しは落ち着いた?」
現れたのは、柔らかな笑みを浮かべた養護教諭だった。
彼女の視線はまず俺の顔色を窺い、それから、俺の傍らで固まっている黒瀬へと向けられた。
「黒瀬くん、あなたまだいたの」
先生は、呆れたような、けれどどこか慈愛に満ちた溜め息をつく。
黒瀬は気まずそうに視線を落とし、「……だって」と子供のように唇を尖らせた。
「この子、休み時間のたびにここへ来て、私が追い出すまでずっといたのよ。藍沢くんが心配で、気が気じゃなかったみたい」
思わず黒瀬の方を見る。
彼は「うぐ」と小さく呻きはしたが、否定することもなく、耳先の赤みもそのままだった。俺がここで寝ている間も、黒瀬はわざわざ様子を見に来てくれていたのか。その事実に、胸の奥が熱く疼く。
「これから私、校外で打ち合わせがあるから、ついでに車で自宅まで送ってくね。鞄は──ああ、黒瀬くんが持ってきてくれてたの。助かるわ」
先生は淀みのない手つきで帰宅の準備を整えていく。
黒瀬が「俺も付き添います」と声を上げたが、彼女は「ダメダメ」と首を振り、それを遮った。
「先生の車はタクシーじゃないのよ。藍沢くんは『病人』として私が責任を持って送り届けるけれど、あなたまで乗せるわけにはいかないの。学校の決まり、わかるわね?」
ぐうの音も出ない正論だった。「でも」と、なおも反論しようとする黒瀬に、彼女は更に言葉を重ねる。
「それに黒瀬くん、あなた今日一日、ずっと気が張ってたでしょう? 藍沢くんが安心してお休みできるように、あなたも早く帰って温かいものでも食べて休みなさい。それが一番の『お見舞い』よ」
……黒瀬は、朝から──いや、下手をすれば昨晩から、ずっと俺を気にかけ続けてくれていた。
先生の言うことはもっともで、これ以上彼に負担をかけるわけにはいかない。
俺は黒瀬のスマホに『色々ありがとう。でも大丈夫。黒瀬も帰って休んで』と打ち込んだ。
画面を差し出すと、黒瀬は雨の中に置いていかれる大型犬の子犬のような、ひどく心細げな表情を浮かべた。……正直、その顔には弱いんだけど、譲るつもりはなかった。
黒瀬は最後、俺の袖を名残惜しそうに、弱々しく引っ張った。やがてなんとか飲み込んだようで、「……わかった」とその手を離した。
不安げな黒瀬を背に、俺は先生に促されるまま、夕闇が降り始めた保健室を後にした。
先生に送り届けられ、家にいた紗枝に連れられて向かった病院での診断は、疲労から来る軽度の風邪、および喉の炎症とのことだった。
声がうまく出ないことへの不安がなくなったわけではない。
けれど、黒瀬がくれた『それで藍沢のこと、価値がないとか、嫌いとか思ったりしない』という言葉が胸に灯り、以前のように暗い底まで落ち込むことはなかった。
翌日は学校を休み、泥のように眠り続けた。
そのおかげか、次の日には体調もすっかり戻り、喉を通る空気も瑞々しく、声もすっかり戻っていた。
***
念のため、さらに一日休養を挟み、ようやく学校に復帰した。
久しぶりの登校──教室のドアを開けるなり、席にいた黒瀬が弾かれたように立ち上がった。
「藍沢……」
駆け寄ってくる足取りは大型犬そのものだったが、目の前まで来ると、彼は急に遠慮したように立ち止まった。心配と、安堵と、それから爆発しそうなほどの喜びが混ざり合ったような、ぐちゃぐちゃな顔をしている。
「……おはよ、黒瀬。もうすっかり元気だよ」
そう告げると、黒瀬は一瞬だけ泣きそうな顔をして、それから「よかった、マジでよかった……」と、噛み締めるように呟いた。
「紗枝さんから、軽い風邪とは聞いてたけど……やっぱ、何あるかわかんないし、顔見るまでは気が気じゃなくて」
「……いつの間に連絡先交換してたんだ………」
さらりと出た姉の名前に、ひっそりと眉を寄せる。
……いや別に、うちの家族と黒瀬が仲が良いことは、むしろ喜ばしいことではあるんだけど。なんとなく、面白くない。
俺が休んでいる間、彼なりに配慮してくれたのだろう。メッセージひとつも送ってこなかったから、黒瀬とのやり取り自体が数日ぶりだった。
──少し前までは、黒瀬と一言も交わさないのが当たり前だったのに。
そう思うと不思議な気持ちになる。
朝から俺にベッタリな黒瀬の様子に、クラスメイトたちは「またかよ」といった半ば呆れ顔を見せつつも、どこか微笑ましいものを見るような空気で見守っていた。
……黒瀬の、「大型犬の再会」ばりの猛アタックを目の当たりにしたら、そんな空気にもなるだろう。相変わらず、一部の女子の目線は痛かったが。
黒瀬自体の近寄りがたさは、以前よりもずっと、緩和されているように思えた。
やがてホームルームが始まり、黒瀬の興奮も次第に落ち着いて、日常が戻っていく。
授業を受け、ノートを取り、休み時間にふたり、内緒話のように笑い合う。平穏な時間が過ぎていく。
何事もなかったかのように。
──あの日、夕暮れの保健室で、黒瀬が口にした言葉の真意を。
俺は、聞けないままでいた。

