なんとか、だましだまし授業を受けていたが、三時間目の授業が終わったあたりで、ついに限界を迎えた。
──とにかく、ダルい。熱はなさそうだが、さすがに保健室へ行った方が良さそうだ。
フラつく身体で立ち上がろうとした瞬間、隣から迷いのない手が伸び、俺の身体を横から支えた。……黒瀬だった。
黒瀬の表情は、言葉がなくても雄弁だった。眉を顰め、何かを必死に堪えているような、痛切なまでの心配の色。
「おんぶしてく」
「さっ……さすがにそれは……」
その場に膝をつきかけた黒瀬に、掠れた声で慌てて断りを入れる。学校でおぶられて運ばれる──しかも黒瀬になんて。目立ちすぎるなんてレベルじゃない。
結局、抱き寄せられるように支えられながら、ヨタヨタと保健室へ向かった。
カーテンで仕切られたベッドに倒れ込むと、どっと倦怠感が溢れてきて、俺は早々に意識を手放した。
***
……それから、どれくらい経っただろうか。ふと、チャイムの音で目が覚める。
遠くで響く運動部の掛け声とオレンジ色に染まった天井で、今が放課後であることをゆっくりと理解する。
視線を巡らせると、ベッド脇の椅子に腰かけた黒瀬が、不安を隠しきれない瞳でこちらを見下ろしていた。
数時間の睡眠のおかげか、倦怠感は幾分マシになっている。俺はゆっくりと上体を起こした。
「……あ、……くろ、せ……」
どうにか絞り出した声は、自分でも耳を疑うほど無残なものだった。「黒瀬」と呼ぶはずが、ほとんど音にならず、空気が虚しく漏れる。焦って何度も喉を鳴らしたが、出てくるのは「ひゅっ」という情けない呼吸音だけだった。
「大丈夫。無理に喋んなくていいから」
黒瀬が、慌ててペットボトルの水を差し出してくる。その行動に、揺れる瞳に、嘘があるなんてこれっぽっちも思っていない。黒瀬は本当に、心から俺を案じてくれている。
わかっている。
わかっている、のに。
──『無理に歌われる方が迷惑』
──『口パクでいいよ』
中学時代の、声変わりをした時の記憶が、唐突にフラッシュバックする。
変声期が落ち着き、今は当時よりはマシになった。
『HAKU-shion』として配信をすることで、対面はまだ怖くても、リスナーが、そして黒瀬という生身の存在が俺を肯定してくれていて、少しずつ声を発することへの恐怖は和らいでいた。
もしかしたら俺の声は、そこまで不気味じゃないのかもしれない──最近ではそんな風に、思い始めていて。
……でも、それって、ただの思い込みだったんじゃないか?
俺の発する『雑音』が、マイクを通すことで、たまたま『音』に変換されていただけで。
少しでも油断すれば、俺は、あの頃と変わらない、不気味な声の持ち主のまま。
今の声では、例え機材に頼っても『HAKU-shion』の声は出せない。
──そんな俺に、価値なんてあるのか?
「藍沢、顔色悪い……」
ペットボトルを受け取らぬまま、思考に沈んでいた俺を、黒瀬が覗きこんできた。
眉は慎重に顰められ、鋭利なはずの瞳は不安げだった。耳元で夕暮れの光を弾くピアスは変わらず美しいが、繊細な銀のチェーンが、持ち主の感情を表すように揺れている。
「……帰ろ。タクシー呼ぶし、送ってく」
そのまま、抱きかかえられそうになるのを制して、首を振る。……体調が悪化したわけではないのだ。
パクパクと、もはや声にならないノイズで、必死に「違う」と訴える。
黒瀬が迷うように周囲を見渡し、やがて、自身のポケットからスマホを取り出した。差し出された画面には、メモアプリが立ち上がっている。
俺は黒瀬の意図を察して、スマホを受け取り、指が震えそうになるのを必死に抑えながら、慎重に文字を入力していく。
『ごめん』
「謝ることじゃないでしょ。俺、全然迷惑って思ってないよ」
『それもあるけど、そうじゃなくて』
『声出ないから』
「最近めちゃくちゃ寒かったから、体調崩すのも仕方ないし」
『今の俺は、HAKU-shionの声、出せない』
「うん。リスナー大事にしてくれるのは嬉しいけど。今は、藍沢の喉、ゆっくり休める方が大事だし」
『ごめん。ありがとう。でも送ってくれなくて大丈夫。ひとりで帰れる』
「……もしかして、抱っこもおんぶも、そんなにイヤ?」
『そうじゃなくて』
──黒瀬が、好きだと言ってくれた声。
それが出せない俺の傍に、黒瀬がいてくれる理由が見つからない。
『HAKU-shionの声が出ない俺に、価値なんてないから』
俺は、黒瀬の顔を見るのが怖くて、画面に視線を固定したまま俯いた。
静寂が保健室に落ちる。
外から聞こえる部活にいそしむ生徒たちの声。
保健室から校庭まで、そう距離があるわけじゃないのに、まるで遠い世界のように思えた。
「……藍沢、さ」
やがて黒瀬が、ゆっくりと口を開いた。
「俺の作ったヤツ……アクセサリー。好きって言ってくれたでしょ」
視線を上げることなく頷いた。何度聞かれても断言できる。
──鋭いのに温かい。触れたら怖いかもって思うけど、少し近寄ればそれだけじゃない。
本当に、黒瀬そのものなのだ。
「もし俺が、もう作らないって言ったら、どうする?」
……俺は、その瞬間を可能な限り想像してみる。
惜しいとは思う。けれど。
『黒瀬がそう決めたんなら、尊重する』
「じゃあ、作れないって言ったら? ……嫌いになる?」
俺は、考えるより先に首を振っていた。そんなことは、あり得ない。
『事情は気になるけど。嫌いになったりなんてしない』
「うん……あ、ちょっと、なんか……そうはっきりそう宣言されると……やば、嬉しー……」
黒瀬の声が、微かに和らぐ。口元に手を当てたのだろう。声も若干くぐもっている。
多分きっと、大型犬の子犬のような表情をしている。こんな時だというのに、『黒瀬瑛理、可愛いヤツ説』がまた、積み重なっていく。
「それじゃあ、俺がこれまで作ったヤツ、全部捨てちゃったら?」
『黒瀬がそう決めたなら否定しない』
『けど、もったいないって思う。黒瀬のデザインとか、アクセサリーとか、好きって思う人に、できるだけたくさん届いて欲しいし』
「うっ……相変わらず真っ直ぐ褒めてくる……」
黒瀬が「うぐぐ」と小さく呻いている。
その顔を、表情を、見たいと思った。それでも、俺は堪えるように俯いていた。黒瀬は言葉を続ける。
「それでも、もし、本当に全部捨てちゃったらさ」
少し、躊躇するような間があった。
「藍沢は……俺のこと、嫌いになる?」
俺は、我慢しきれず顔を上げた。
しゃがれた声だなんて、ノイズで不気味だなんて、頭からすっぽ抜けたまま、気づけば声を上げていた。
「なるわけ、ないっ……」
──嫌いになんて、なるわけない。
顔を上げた先では、想像通り、頬を赤く染めた黒瀬がいた。
「ああぁぁ! ちょっ、藍沢、無理に声出すとしんどいでしょ。嬉しい、嬉しいけど……!」
黒瀬が、俺を宥めるように肩を撫でてくる。温かい、大きな手。それに絆されるように、俺はいからせた肩の力を抜いた。黒瀬は撫でる手をそのまま、静かに言葉を繋いだ。
「……俺もさ。藍沢と一緒」
肩にあった手がゆっくりと滑り降りてきた。そのまま、俺の左手を優しく握ってくる。
「もし、もう二度と聴けないってなっても、惜しいとか、もったいないとか、たくさんの人に届いて欲しいのにみたいのはあるけど。それで藍沢のこと、価値がないとか、嫌いとか思ったりしない」
黒瀬の手は驚くほど熱かった。少し、汗をかいている。
その生々しさを、俺は不思議な気持ちで肌に感じていた。
「俺は『HAKU-shion』のリスナーで、それがきっかけで藍沢とこうやって仲良くなったけど。でもそれは、藍沢だからだし」
黒瀬の指に、力が入った。痛くはない。
けれど、離さないという意思が伝わってくる。
「……そりゃ、最初は暴走して距離感ミスったけど。俺、ホントに『HAKU-shion』のガチ恋じゃないんだよ……だから、藍沢相手じゃなかったら、こんな……触りたいみたいなの、ない」
俺は、ほとんど息のままの声で、「触りたいんだ……?」と、ついこぼしてしまった。
呼吸に紛れて、聞こえなくてもおかしくはない。
けれど、それが『言葉』として黒瀬の耳にまで届いたのかどうかは、すぐにわかった。
黒瀬の顔が、夕闇に紛れてもなお隠しきれないほど、耳の先まで真っ赤に染まっていたからだ。
視線を忙しなくあちこちに泳がせ、「あー……」とか「ううぅ……」とか呻いた後、黒瀬はようやくこちらを真っ向から見据え、観念したように口を開いた。
「だって…………好き、なんだから………仕方なくね?」
──とにかく、ダルい。熱はなさそうだが、さすがに保健室へ行った方が良さそうだ。
フラつく身体で立ち上がろうとした瞬間、隣から迷いのない手が伸び、俺の身体を横から支えた。……黒瀬だった。
黒瀬の表情は、言葉がなくても雄弁だった。眉を顰め、何かを必死に堪えているような、痛切なまでの心配の色。
「おんぶしてく」
「さっ……さすがにそれは……」
その場に膝をつきかけた黒瀬に、掠れた声で慌てて断りを入れる。学校でおぶられて運ばれる──しかも黒瀬になんて。目立ちすぎるなんてレベルじゃない。
結局、抱き寄せられるように支えられながら、ヨタヨタと保健室へ向かった。
カーテンで仕切られたベッドに倒れ込むと、どっと倦怠感が溢れてきて、俺は早々に意識を手放した。
***
……それから、どれくらい経っただろうか。ふと、チャイムの音で目が覚める。
遠くで響く運動部の掛け声とオレンジ色に染まった天井で、今が放課後であることをゆっくりと理解する。
視線を巡らせると、ベッド脇の椅子に腰かけた黒瀬が、不安を隠しきれない瞳でこちらを見下ろしていた。
数時間の睡眠のおかげか、倦怠感は幾分マシになっている。俺はゆっくりと上体を起こした。
「……あ、……くろ、せ……」
どうにか絞り出した声は、自分でも耳を疑うほど無残なものだった。「黒瀬」と呼ぶはずが、ほとんど音にならず、空気が虚しく漏れる。焦って何度も喉を鳴らしたが、出てくるのは「ひゅっ」という情けない呼吸音だけだった。
「大丈夫。無理に喋んなくていいから」
黒瀬が、慌ててペットボトルの水を差し出してくる。その行動に、揺れる瞳に、嘘があるなんてこれっぽっちも思っていない。黒瀬は本当に、心から俺を案じてくれている。
わかっている。
わかっている、のに。
──『無理に歌われる方が迷惑』
──『口パクでいいよ』
中学時代の、声変わりをした時の記憶が、唐突にフラッシュバックする。
変声期が落ち着き、今は当時よりはマシになった。
『HAKU-shion』として配信をすることで、対面はまだ怖くても、リスナーが、そして黒瀬という生身の存在が俺を肯定してくれていて、少しずつ声を発することへの恐怖は和らいでいた。
もしかしたら俺の声は、そこまで不気味じゃないのかもしれない──最近ではそんな風に、思い始めていて。
……でも、それって、ただの思い込みだったんじゃないか?
俺の発する『雑音』が、マイクを通すことで、たまたま『音』に変換されていただけで。
少しでも油断すれば、俺は、あの頃と変わらない、不気味な声の持ち主のまま。
今の声では、例え機材に頼っても『HAKU-shion』の声は出せない。
──そんな俺に、価値なんてあるのか?
「藍沢、顔色悪い……」
ペットボトルを受け取らぬまま、思考に沈んでいた俺を、黒瀬が覗きこんできた。
眉は慎重に顰められ、鋭利なはずの瞳は不安げだった。耳元で夕暮れの光を弾くピアスは変わらず美しいが、繊細な銀のチェーンが、持ち主の感情を表すように揺れている。
「……帰ろ。タクシー呼ぶし、送ってく」
そのまま、抱きかかえられそうになるのを制して、首を振る。……体調が悪化したわけではないのだ。
パクパクと、もはや声にならないノイズで、必死に「違う」と訴える。
黒瀬が迷うように周囲を見渡し、やがて、自身のポケットからスマホを取り出した。差し出された画面には、メモアプリが立ち上がっている。
俺は黒瀬の意図を察して、スマホを受け取り、指が震えそうになるのを必死に抑えながら、慎重に文字を入力していく。
『ごめん』
「謝ることじゃないでしょ。俺、全然迷惑って思ってないよ」
『それもあるけど、そうじゃなくて』
『声出ないから』
「最近めちゃくちゃ寒かったから、体調崩すのも仕方ないし」
『今の俺は、HAKU-shionの声、出せない』
「うん。リスナー大事にしてくれるのは嬉しいけど。今は、藍沢の喉、ゆっくり休める方が大事だし」
『ごめん。ありがとう。でも送ってくれなくて大丈夫。ひとりで帰れる』
「……もしかして、抱っこもおんぶも、そんなにイヤ?」
『そうじゃなくて』
──黒瀬が、好きだと言ってくれた声。
それが出せない俺の傍に、黒瀬がいてくれる理由が見つからない。
『HAKU-shionの声が出ない俺に、価値なんてないから』
俺は、黒瀬の顔を見るのが怖くて、画面に視線を固定したまま俯いた。
静寂が保健室に落ちる。
外から聞こえる部活にいそしむ生徒たちの声。
保健室から校庭まで、そう距離があるわけじゃないのに、まるで遠い世界のように思えた。
「……藍沢、さ」
やがて黒瀬が、ゆっくりと口を開いた。
「俺の作ったヤツ……アクセサリー。好きって言ってくれたでしょ」
視線を上げることなく頷いた。何度聞かれても断言できる。
──鋭いのに温かい。触れたら怖いかもって思うけど、少し近寄ればそれだけじゃない。
本当に、黒瀬そのものなのだ。
「もし俺が、もう作らないって言ったら、どうする?」
……俺は、その瞬間を可能な限り想像してみる。
惜しいとは思う。けれど。
『黒瀬がそう決めたんなら、尊重する』
「じゃあ、作れないって言ったら? ……嫌いになる?」
俺は、考えるより先に首を振っていた。そんなことは、あり得ない。
『事情は気になるけど。嫌いになったりなんてしない』
「うん……あ、ちょっと、なんか……そうはっきりそう宣言されると……やば、嬉しー……」
黒瀬の声が、微かに和らぐ。口元に手を当てたのだろう。声も若干くぐもっている。
多分きっと、大型犬の子犬のような表情をしている。こんな時だというのに、『黒瀬瑛理、可愛いヤツ説』がまた、積み重なっていく。
「それじゃあ、俺がこれまで作ったヤツ、全部捨てちゃったら?」
『黒瀬がそう決めたなら否定しない』
『けど、もったいないって思う。黒瀬のデザインとか、アクセサリーとか、好きって思う人に、できるだけたくさん届いて欲しいし』
「うっ……相変わらず真っ直ぐ褒めてくる……」
黒瀬が「うぐぐ」と小さく呻いている。
その顔を、表情を、見たいと思った。それでも、俺は堪えるように俯いていた。黒瀬は言葉を続ける。
「それでも、もし、本当に全部捨てちゃったらさ」
少し、躊躇するような間があった。
「藍沢は……俺のこと、嫌いになる?」
俺は、我慢しきれず顔を上げた。
しゃがれた声だなんて、ノイズで不気味だなんて、頭からすっぽ抜けたまま、気づけば声を上げていた。
「なるわけ、ないっ……」
──嫌いになんて、なるわけない。
顔を上げた先では、想像通り、頬を赤く染めた黒瀬がいた。
「ああぁぁ! ちょっ、藍沢、無理に声出すとしんどいでしょ。嬉しい、嬉しいけど……!」
黒瀬が、俺を宥めるように肩を撫でてくる。温かい、大きな手。それに絆されるように、俺はいからせた肩の力を抜いた。黒瀬は撫でる手をそのまま、静かに言葉を繋いだ。
「……俺もさ。藍沢と一緒」
肩にあった手がゆっくりと滑り降りてきた。そのまま、俺の左手を優しく握ってくる。
「もし、もう二度と聴けないってなっても、惜しいとか、もったいないとか、たくさんの人に届いて欲しいのにみたいのはあるけど。それで藍沢のこと、価値がないとか、嫌いとか思ったりしない」
黒瀬の手は驚くほど熱かった。少し、汗をかいている。
その生々しさを、俺は不思議な気持ちで肌に感じていた。
「俺は『HAKU-shion』のリスナーで、それがきっかけで藍沢とこうやって仲良くなったけど。でもそれは、藍沢だからだし」
黒瀬の指に、力が入った。痛くはない。
けれど、離さないという意思が伝わってくる。
「……そりゃ、最初は暴走して距離感ミスったけど。俺、ホントに『HAKU-shion』のガチ恋じゃないんだよ……だから、藍沢相手じゃなかったら、こんな……触りたいみたいなの、ない」
俺は、ほとんど息のままの声で、「触りたいんだ……?」と、ついこぼしてしまった。
呼吸に紛れて、聞こえなくてもおかしくはない。
けれど、それが『言葉』として黒瀬の耳にまで届いたのかどうかは、すぐにわかった。
黒瀬の顔が、夕闇に紛れてもなお隠しきれないほど、耳の先まで真っ赤に染まっていたからだ。
視線を忙しなくあちこちに泳がせ、「あー……」とか「ううぅ……」とか呻いた後、黒瀬はようやくこちらを真っ向から見据え、観念したように口を開いた。
「だって…………好き、なんだから………仕方なくね?」

