『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 期末試験は無事に終わり、黒瀬のおかげで、俺の成績はかつてないほど良好だった。

 試験期間中に設けていた二週間の配信休止。今日は久々の配信日だった。
 そろそろ十二月半ばに差し掛かろうとしているタイミング。窓の外では、刺すような寒気が疎らに増え始めていた。

 ──喉、少しだけ変かも。

 朝から感じていた微かな違和感。寒暖差に乾燥、今の季節、理由はいくらでも挙げられる。
 紗枝も心配してくれたが、休むほどではない。二週間休んでいたこともあって、これ以上休むのもなという気持ちもあった。
 部屋の湿度にいつも以上に気を使い、ハチミツ入りの紅茶とのど飴で念入りにケアを施し、俺はマイクの前に座った。

 配信タイトルは『雪の日の休日』
 紗枝曰く「もうすぐクリスマスだし、甘さたっぷりで!」との要望に応えた台本とのことだ。
 数秒の専用BGM。環境音。俺はいつものように一度目を閉じ、深く呼吸を整えてから、静かに声を吹き込んでいく。

 ──『……外、すごい雪だよ。今日はもう、どこにも行かないで。……僕と一緒に、ここで温まってよう?』
 ──『大丈夫? まだ、寒い? ……おいで。僕が温めてあげるから』

 親愛と、ほんの少しの独占欲を混ぜた台詞。
 俺はいつものように、愛猫ニナを思い浮かべながら言葉を紡ぐ。……自然と、そんな彼女とじゃれ合う黒瀬が脳裏をよぎる。威嚇し合ったり、なぜか会話が成立していたりする、あの穏やかな光景。
 ふっ、と。無意識に張っていた肩の力が抜ける。

 ──配信開始から、十五分ほど。台本をすべて読み終え、配信の枠を閉じる。
 喉の違和感はあからさまに悪化してはいなかったが、いつもより声が出づらい感覚はあった。
 ……聞き取りづらい、みたいなことがないといいけど。

 一晩寝ればマシになるはず。そう自分に言い聞かせるようにして、俺は早々に身支度を済ませ、眠りについた。


 翌日の月曜朝。
 そんな俺の淡い希望は見事に打ち砕かれ、喉の状態は明らかに悪化していた。
 熱や倦怠感はないので、学校を休むほどではない。しかし、声を出そうとすると喉の奥がひりつき、なんとか出た声もカスカスに掠れてしまう。マスクはいつもしているが、念のため、のど飴をいつもより多めにバッグに詰め込んだ。

 昨夜のアーカイブをチェックした紗枝の話では、リスナーの反応は俺の不安をよそにポジティブなものだったらしい。
 曰く、「お大事に」という労わりのコメントと共に「いつもより掠れた声で、いいと思ってしまった自分もいる……」「貴重なボイス」などという具合に。

 ──「聞こえない」みたいなことがなくて良かった。

 黒瀬も、喜んでくれただろうか。

 ノロノロと登校し、席に着く。
 ──ちょっと、だるいかも……。
 座った瞬間にどっと疲れが押し寄せた。出掛けるときは平気に思えたのに、ここに来るまでの間に、明らかに体調が悪化している。
 俺はたまらず、机に上体を突っ伏した。

 それから数分程度経っただろうか。教室の喧噪の中、足音が近づき、俺のすぐ傍で止まった。

「藍沢……大丈夫? 昨日もメッセージの返信なかったし」
 低くて少しだけ急いたような声。見るまでもなく、誰かなんてすぐにわかる。黒瀬だ。
 俺は重い頭をどうにか持ち上げ、掠れた声で答えた。

「あ……スマホ。ごめん、全然見てなかった……」
 確認すると、黒瀬からのメッセージが数件。いずれも、俺を案じる必死さが伝わる内容だった。
「──声、しんどそう」
「そ、そう? いつもこんなもん……っ」
 強がろうとした言葉が、無残に掠れて途切れた。
「全然違うでしょ……昨日より悪化してる」

 黒瀬は険しい顔でスクールバッグを漁ると、のど飴、蜂蜜入りの紅茶、温かいレモネードなどを次々と俺の机に並べていく。
「え、こんな、わるいよ……」
 語尾が不自然にしゃがれた。
 黒瀬の大きな手が、俺の肩のあたりを撫で、「無理に喋んなくていいから」と宥めてきた。気遣いもできる、いい男だ。
 俺の──『HAKU-shion』のいつもと違う声を「貴重だ」と喜ぶよりも、俺の体調を心底案じてくれているようだった。

 その献身的な温かさが、嬉しいと思う反面、俺の心に暗い影を落とす。

 ──そりゃそうか。このまま長引いて、変に悪化して、声が出なくなったり、声質が変わったりしたら……『HAKU-shion』としての声が出なくなったら、黒瀬、嫌だろうし。

 黒瀬の求める声が出ない俺に、価値なんてない。

 そんな疑念が頭をよぎり、自分自身の身勝手なネガティブさに吐き気がした。
 ──俺、最低だな。黒瀬の気遣いを疑ってる。

「……ごめん……授業始まるまで、ちょっと寝とく」
「保健室行く?」
「行くほどじゃ……」
「……わかった。我慢できなくなったら、すぐ言って」
 本格的に机に突っ伏し、腕の中に顔を埋める。誰の視線も、どんな音も遠ざけたかった。
 ……ネガティブさに比例するように、体調も下降線を辿っていく。このまま、チャイムが鳴った後も、机にへばりついていたい。
 そんな微睡みの中で、ヒソヒソとした話し声が聞こえてくる。

「……藍沢くん、どうしたの……? 体調、悪いの……?」
「俺見てるし、いいよ」
 クラスメイトの──この声は、多分高城さん……? 彼女と黒瀬が、会話をしているようだ。内容は耳に入ってくるが、理解する前に霧散していく。
「これ……良かったら……」
「うん、渡しとくし」
 黒瀬の声は、どこか固く、拒絶に近い温度を孕んでいた。

 元々、黒瀬はこういう感じで、近寄りがたい。
 けれど近づくにつれて、俺は彼の温かさを知った。優しい手、穏やかな話し口調。

 ──でも、と。
 近づくほどに、どうしても思ってしまう。

 でもそれって、俺が『HAKU-shion』だからなんじゃないか?

 もし俺が、ただのクラスメイトだったら。
 彼を癒す声を持たない存在だったら。

『黒瀬瑛理』という男は、俺のことなんて歯牙にもかけなかったんじゃないかって。