「瑛理くん、これお夜食に。根詰めすぎちゃダメよ」
「ありがとうございます。いただきます」
母さんが差し入れた夜食のサンドイッチを、黒瀬は慣れた手つきで受け取る。
最初はあんなに恐縮していた彼も、何度か足を運ぶうちに、今ではすっかりこの部屋の住人のような顔をして馴染んでいた。
両親も紗枝も、黒瀬が来ると聞けばハチャメチャに喜ぶし、もはや泊まっていくことに誰も疑問を抱かない。それどころか、俺のクローゼットの片隅には、彼専用の着替えなどといった「お泊まりセット」もちゃっかり常備されている始末だ。
飼い猫のニナも、黒瀬を子分として認識しているのか、肩に乗り上げたり、唐突に猫パンチを繰り出したりと、ちょくちょく構いに来る。
当の黒瀬も乗り気でやってくるので、俺としても──正直、悪い気はしなかった。
「……藍沢、ここ。計算ミスってる」
「うわ……マジだ。ありがと」
ベッド脇の床にローテーブルを出し、向かい合わせでノートを広げる。
黒瀬の教え方は驚くほど的確で分かりやすい。多分、不得意教科とかないんじゃないか?
体育の授業もそつなくこなしている。つまり、運動神経も抜群なのだ。
天は二物以上を平然と与える──ノートに視線を落とした黒瀬の、睫毛の美しさをそっと見つめながら、そんなことを思う。
相変わらず目つきは鋭く、教室で見せる……ふとした拍子の、氷のような近寄りがたさは変わらない。クラスメイトたちも相変わらず、少し遠巻きにしている。
でも、決して悪いヤツじゃない。見た目の校則違反は『悪いこと』ではあるけど、うちの学校はその辺結構ユルイし、遅刻だって多分、彼自身ではどうしようもなかったのだろう。
やり取りが増えるにつれ、黒瀬の本質が穏やかなものであることが分かってきた。この素顔を誰にでも見せれば、一瞬でクラスの人気者になれるだろうに。……まあ、今だって女子たちの熱い視線を見る限り、十分すぎるほど注目は浴びているのだが。
──黒瀬は、もしかしたらわざと壁を作っているんじゃないか?
最近、ふとそんな風に思うことがある。
『ひとりでも作れるし、作ってる間は無心になれる』
──淡々と語った、アクセサリー作りへの向き合い方。
『なんか、いいなって思った』
『あれだけ賑やかな家族に囲まれてたら、藍沢、寂しくないだろうなって』
──俺の家族に向けた、少しだけ寂しげな笑み。
黒瀬が自分自身の家族について触れたことは一度もない。何度うちに泊まっても、家に連絡を入れている素振りさえない。
簡単に立ち入っていい話じゃない。それでも、時折零れる黒瀬の孤独な表情を目にすると──。
「……藍沢、見過ぎ」
「──はっ……!」
ぼんやりと見つめ続けてしまっていたことに、指摘されてから気がつく。
黒瀬が、上目遣い気味にこちらを見つめ返してきた。
「ご、ごめんっ」
「いいよ……何? もしかして見惚れちゃった?」
指先で耳に髪をかけながら、黒瀬が冗談めかして悪戯っぽく笑う。
「見惚れ──……まぁ、黒瀬、カッコいいしな……」
黒瀬の発言は事実であって、自意識過剰でも何でもない。実際、見惚れる人も多いだろうし。
「うっ……あの、藍沢。今の冗談だから……」
そう言って、黒瀬は耳まで真っ赤にして、そっぽを向いた。
「……藍沢って、人のこと真っ直ぐ褒めるよね」
「そ、そう? 別に、普通に思ったことを言ってるだけだけど」
「アクセサリーの感想とか。何か、めっちゃ、ストレートに言ってきたし」
「すごいものをすごいって言うの、当たり前じゃないか……?」
「……意外と、当たり前じゃないよ、そういうの」
黒瀬は、後ろ髪をわしゃわしゃと掻き乱した。
「でも、黒瀬だって『HAKU-shion』のこと、めちゃくちゃ熱く褒めるじゃん」
「いやまぁ、それは当たり前。誰が聴いても最高の世界の宝だし。……あ~、先週の配信も良かった……『真夜中の書庫』……ページを捲る音、時折走るペンの音。静かな息づかいに、時々ふと本を読み上げて確認する……どれも過剰すぎないし、タイミングも絶妙で、聴いてて気持ちいい。安眠導入にもいいけど、あれ、一緒に勉強してる感じにも思えるから、そっちの需要も満たせるし、助かってる。現に俺、あれ聴きながら──」
「ストップストップ! ホラ、勉強再開!」
黒瀬の方が真っ直ぐ褒めてくるじゃないか。言葉の物量も半端ないし。
呆れるような嬉しいような……ほんの少しチクリとするような。そんなごちゃ混ぜの思いで、俺は苦笑するしかなかった。
「んにゃ」
ノートに視線を戻した直後、ドアの隙間から入り込んだニナが、膝に乗り上げてきた。
「あ、ニナ。よしよし」
「……藍沢、勉強再開じゃないの」
黒瀬がじっとりとこちらを睨んでくる。唇を尖らせ、露骨に不満そうだ。
「にゃう」
「黒瀬が睨むから文句言ってる」
「いや、ニナ。絶対わざとやってるし。……ずっと独り占めさせない、ズルいって思ってるでしょ」
「うにゃうにゃ」
「いいじゃん。ニナはいっつも家で一緒だし、傍にいればよしよししてもらえるんだから、贅沢だって」
「会話してる……」
それから一時間ほど経ち、黒瀬が手洗いに立ったのを合図に、俺は休憩とばかりに伸びをした。ニナは気づけば部屋の外に行っていた。今頃は、いつものように両親の部屋で就寝している頃だろう。
暖房の効いた室内。そこそこ長く勉強をした頭は、程よい疲労と猛烈な眠気を俺に訴えかけてくる。
ひとつ、大きく欠伸をする。黒瀬が戻ってくるまでのつもりで、俺はローテーブルに突っ伏した。
……どれくらい時間が経っただろうか。
微睡みの端で、何かが、自分の左手に触れている感覚があった。
それは、俺の手の甲を羽のように撫で、迷うように彷徨ったあと、薬指の付け根にそっと止まった。
ひどく慎重に、壊れ物を扱うような手つきで。
何かを確認するように、俺の指をゆっくりとなぞっている。
──何だろう……くすぐったい……。
重たい瞼をどうにか持ち上げ、自分の指先に視線を向ける。
……指。俺よりも長く、骨張った指が、俺の薬指に触れている。これって──。
「…………くろせ?」
「──っ……!」
途端、傍にあった体温がものすごい勢いで遠ざかった。
何事かと顔を上げると、部屋の隅で中途半端な体勢のまま固まった黒瀬が、降伏を宣言するように両手を挙げていた。
「えっ……く、黒瀬……?」
「おおおおお起こしてごめん……」
「いや、それはいいんだけど……」
黒瀬はギクシャクと俺の隣まで戻ってくると、「そ、そろそろ寝ようか。もう眠いでしょ」とあからさまに誤魔化しつつ、逃げるようにローテーブルを片付け、布団を敷き始めた。
……まるで、イタズラが見つかった子犬のようだ。問い詰めても良かったが、実際、もう睡魔にほとんど負けていた。
結局俺は、黒瀬の差し出した「眠り」という提案に大人しく乗ることに決め、ベッドに潜り込んだ。
「ありがとうございます。いただきます」
母さんが差し入れた夜食のサンドイッチを、黒瀬は慣れた手つきで受け取る。
最初はあんなに恐縮していた彼も、何度か足を運ぶうちに、今ではすっかりこの部屋の住人のような顔をして馴染んでいた。
両親も紗枝も、黒瀬が来ると聞けばハチャメチャに喜ぶし、もはや泊まっていくことに誰も疑問を抱かない。それどころか、俺のクローゼットの片隅には、彼専用の着替えなどといった「お泊まりセット」もちゃっかり常備されている始末だ。
飼い猫のニナも、黒瀬を子分として認識しているのか、肩に乗り上げたり、唐突に猫パンチを繰り出したりと、ちょくちょく構いに来る。
当の黒瀬も乗り気でやってくるので、俺としても──正直、悪い気はしなかった。
「……藍沢、ここ。計算ミスってる」
「うわ……マジだ。ありがと」
ベッド脇の床にローテーブルを出し、向かい合わせでノートを広げる。
黒瀬の教え方は驚くほど的確で分かりやすい。多分、不得意教科とかないんじゃないか?
体育の授業もそつなくこなしている。つまり、運動神経も抜群なのだ。
天は二物以上を平然と与える──ノートに視線を落とした黒瀬の、睫毛の美しさをそっと見つめながら、そんなことを思う。
相変わらず目つきは鋭く、教室で見せる……ふとした拍子の、氷のような近寄りがたさは変わらない。クラスメイトたちも相変わらず、少し遠巻きにしている。
でも、決して悪いヤツじゃない。見た目の校則違反は『悪いこと』ではあるけど、うちの学校はその辺結構ユルイし、遅刻だって多分、彼自身ではどうしようもなかったのだろう。
やり取りが増えるにつれ、黒瀬の本質が穏やかなものであることが分かってきた。この素顔を誰にでも見せれば、一瞬でクラスの人気者になれるだろうに。……まあ、今だって女子たちの熱い視線を見る限り、十分すぎるほど注目は浴びているのだが。
──黒瀬は、もしかしたらわざと壁を作っているんじゃないか?
最近、ふとそんな風に思うことがある。
『ひとりでも作れるし、作ってる間は無心になれる』
──淡々と語った、アクセサリー作りへの向き合い方。
『なんか、いいなって思った』
『あれだけ賑やかな家族に囲まれてたら、藍沢、寂しくないだろうなって』
──俺の家族に向けた、少しだけ寂しげな笑み。
黒瀬が自分自身の家族について触れたことは一度もない。何度うちに泊まっても、家に連絡を入れている素振りさえない。
簡単に立ち入っていい話じゃない。それでも、時折零れる黒瀬の孤独な表情を目にすると──。
「……藍沢、見過ぎ」
「──はっ……!」
ぼんやりと見つめ続けてしまっていたことに、指摘されてから気がつく。
黒瀬が、上目遣い気味にこちらを見つめ返してきた。
「ご、ごめんっ」
「いいよ……何? もしかして見惚れちゃった?」
指先で耳に髪をかけながら、黒瀬が冗談めかして悪戯っぽく笑う。
「見惚れ──……まぁ、黒瀬、カッコいいしな……」
黒瀬の発言は事実であって、自意識過剰でも何でもない。実際、見惚れる人も多いだろうし。
「うっ……あの、藍沢。今の冗談だから……」
そう言って、黒瀬は耳まで真っ赤にして、そっぽを向いた。
「……藍沢って、人のこと真っ直ぐ褒めるよね」
「そ、そう? 別に、普通に思ったことを言ってるだけだけど」
「アクセサリーの感想とか。何か、めっちゃ、ストレートに言ってきたし」
「すごいものをすごいって言うの、当たり前じゃないか……?」
「……意外と、当たり前じゃないよ、そういうの」
黒瀬は、後ろ髪をわしゃわしゃと掻き乱した。
「でも、黒瀬だって『HAKU-shion』のこと、めちゃくちゃ熱く褒めるじゃん」
「いやまぁ、それは当たり前。誰が聴いても最高の世界の宝だし。……あ~、先週の配信も良かった……『真夜中の書庫』……ページを捲る音、時折走るペンの音。静かな息づかいに、時々ふと本を読み上げて確認する……どれも過剰すぎないし、タイミングも絶妙で、聴いてて気持ちいい。安眠導入にもいいけど、あれ、一緒に勉強してる感じにも思えるから、そっちの需要も満たせるし、助かってる。現に俺、あれ聴きながら──」
「ストップストップ! ホラ、勉強再開!」
黒瀬の方が真っ直ぐ褒めてくるじゃないか。言葉の物量も半端ないし。
呆れるような嬉しいような……ほんの少しチクリとするような。そんなごちゃ混ぜの思いで、俺は苦笑するしかなかった。
「んにゃ」
ノートに視線を戻した直後、ドアの隙間から入り込んだニナが、膝に乗り上げてきた。
「あ、ニナ。よしよし」
「……藍沢、勉強再開じゃないの」
黒瀬がじっとりとこちらを睨んでくる。唇を尖らせ、露骨に不満そうだ。
「にゃう」
「黒瀬が睨むから文句言ってる」
「いや、ニナ。絶対わざとやってるし。……ずっと独り占めさせない、ズルいって思ってるでしょ」
「うにゃうにゃ」
「いいじゃん。ニナはいっつも家で一緒だし、傍にいればよしよししてもらえるんだから、贅沢だって」
「会話してる……」
それから一時間ほど経ち、黒瀬が手洗いに立ったのを合図に、俺は休憩とばかりに伸びをした。ニナは気づけば部屋の外に行っていた。今頃は、いつものように両親の部屋で就寝している頃だろう。
暖房の効いた室内。そこそこ長く勉強をした頭は、程よい疲労と猛烈な眠気を俺に訴えかけてくる。
ひとつ、大きく欠伸をする。黒瀬が戻ってくるまでのつもりで、俺はローテーブルに突っ伏した。
……どれくらい時間が経っただろうか。
微睡みの端で、何かが、自分の左手に触れている感覚があった。
それは、俺の手の甲を羽のように撫で、迷うように彷徨ったあと、薬指の付け根にそっと止まった。
ひどく慎重に、壊れ物を扱うような手つきで。
何かを確認するように、俺の指をゆっくりとなぞっている。
──何だろう……くすぐったい……。
重たい瞼をどうにか持ち上げ、自分の指先に視線を向ける。
……指。俺よりも長く、骨張った指が、俺の薬指に触れている。これって──。
「…………くろせ?」
「──っ……!」
途端、傍にあった体温がものすごい勢いで遠ざかった。
何事かと顔を上げると、部屋の隅で中途半端な体勢のまま固まった黒瀬が、降伏を宣言するように両手を挙げていた。
「えっ……く、黒瀬……?」
「おおおおお起こしてごめん……」
「いや、それはいいんだけど……」
黒瀬はギクシャクと俺の隣まで戻ってくると、「そ、そろそろ寝ようか。もう眠いでしょ」とあからさまに誤魔化しつつ、逃げるようにローテーブルを片付け、布団を敷き始めた。
……まるで、イタズラが見つかった子犬のようだ。問い詰めても良かったが、実際、もう睡魔にほとんど負けていた。
結局俺は、黒瀬の差し出した「眠り」という提案に大人しく乗ることに決め、ベッドに潜り込んだ。

