「な、なんかごめん……」
通学路を並んで歩きながら、俺は申し訳なさと気まずさで身を縮めていた。
今朝の光景を思い返す。
『家族と一緒に、黒瀬と朝食を食べる』
それは、あまりに不思議な出来事だった。──そのまま、ただの『穏やかな非日常』で済めば良かったのだが。
紗枝は「黒瀬くんって顔もスタイルも最高だけど、声もめっちゃいいよね。配信とか興味ない?」と前のめりに食いつくし(黒瀬は一切の躊躇なく即、断っていた)、父さんと母さんは「おかわりもっといる?」とか「いっぱい食べて食べて!」と、終始フルスロットルのもてなしを見せていた。
玄関を出る際も、みんな「いつでもまた来てね」とニッコニコだった。
「うちの家族、朝からテンション高すぎだよな……。黒瀬、大丈夫だったか? 疲れてない……?」
「大丈夫。……ってか、むしろ『俺大丈夫だったかな』って方を心配してるっつーか……」
黒瀬が口にしたのは、意外な言葉だった。
「? どういう……?」
「そりゃ……藍沢の家族に、嫌われたくない、し……」
ぼそりと呟き、視線を逸らした彼の耳たぶが、朝日に透けて赤く染まっている。
銀細工の重みがない耳は、驚くほどあどけなく見えた。
──まぁ、俺の家族ってことは『HAKU-shion』の家族でもあるわけだし。印象良くしておきたいと思うのも当然か。
俺は自分なりにそう納得して息を吐いた。──また少し、胸の辺りがモヤつくのを自覚しながら。
「そういえば、ピアス、つけないのか?」
つけている方が落ち着くと言っていたのを思い出し、問いかける。
黒瀬は自身の耳に指先を這わせ、少しだけ驚いた顔をした。
「黒瀬?」
「……ああ、うん。学校に着いたら、つける」
彼はどこか落ち着かない様子で、今度は俺の口元をじっと見つめてくる。
「藍沢も、マスクは?」
「あ……」
口元に手を当てる。いつも覆っているはずの黒い不織布がない。
スクールバッグには常に予備が入れてある。指先をバッグのファスナーに伸ばしかけ──しかし、横を歩く黒瀬の「素顔」を思うと、手が止まった。
「……学校に着いたらつける」
不思議な感情の中で、俺も、黒瀬と同じような答えを口にした。
教室のドアを開けると、室内には不自然なざわめきが広がった。
遅刻の常連である黒瀬が始業前に、しかも相当余裕をもって登校してきたこと。そして、「モブ」の代名詞のような俺と、揃って現れたことで。
とはいえ、すぐさま「まあ、たまたま入り口で一緒になっただけだろう」という空気が流れた。当然すぎる帰結だ。……俺は、その空気に乗ることにした。
それでいい。俺みたいなのと関わりがあるなんて知られたら、黒瀬も迷惑だろう。俺は黒いマスクの奥で苦笑し、自分の席についた。
しかし。
「藍沢」
自分の席に座るのだと思っていた黒瀬が、なぜか俺の机の傍に立った。
クラス中の意識が、こちらに集中しているのがわかる。
「……ピアス、つけて」
甘えるような、有無を言わせない響きを含んだ声で。
黒瀬は緩く屈み、俺に視線の高さを合わせると、自身の耳を指さしながら、小さなアクセサリーケースを差し出してきた。
一瞬の静寂。
──直後、教室内をかつてないほどの激震が襲った。
誰かの息を呑む音、女子たちの短い悲鳴、椅子がガタッと倒れる音。
「へ……?」
混乱する俺をよそに、黒瀬は「ここ」と、もう一度無防備な耳を晒してみせた。逃がさないとばかりに鋭い瞳の中に、例の『大型犬の子犬』のような奇妙な可愛らしさを滲ませて。
そんな黒瀬から、俺が逃げられるわけもなく。
ほんの少し震える手で、黒瀬の白すぎる耳たぶに銀の針を差し込んだ。ひとつずつ、できるだけ丁寧に。
……俺は生きた心地がしなかったが、当の黒瀬は周囲の空気など一切気にならない様子で、俺の指先が自分の耳に触れるたび、満足げに目を細めていた。
***
「藍沢。今日の放課後、空いてる?」
ある日の休み時間。俺の席の横に、当然のような顔をして黒瀬が立っている。
慣れとは恐ろしいもので、かつては彼が俺に近づくだけで緊張が走っていた教室の空気も、今では「あ、またやってる」という雰囲気に向かっていた。
──あの『ピアス事件』から、すでに数週間が経っていた。
季節は十一月の後半。
肌を刺す風が更に冷たさを増し、制服の上にカーディガンやパーカーを羽織る生徒が目立つようになった頃。俺と黒瀬の「奇妙な交流」は、クラスの日常の一風景として定着しつつあった。
「……放課後? 空いてるけど……何?」
黒瀬は──多分、俺が声を張らなくて良いようにという配慮だろう。机に腕を乗せてその場にしゃがみ、こちらを少しだけ見上げる体勢をとった。ふたり、内緒話のように会話を続ける。
……落ち着きを見せ始めた教室の中でも、遠巻きに見守る一部の女子たちの視線だけは変わらず痛かった。紗枝が以前、黒瀬に対して、『影じゃ絶対、クッッッッソほどモテてるはず……!』と言っていた通りなのだろう。
というか、俺と黒瀬はそういう「モテ」とか、恋愛的なものとは無関係なので、お門違いではある。
黒瀬も「俺は『HAKU-shion』のガチ恋じゃない」と再三宣言しているし。
つまりそれは、『HAKU-shion』の中の人である俺に対しても、同じということで──。
──やめよう。この思考、すごくモヤモヤする。
俺が自分の中の嵐と戦っていると、黒瀬が放課後の予定を提示してくる。
「勉強一緒にしないかなって。ホラ、期末近いし」
「あぁ……なるほど」
当初は教師からも「黒瀬に脅迫でもされてるのか」と疑われていたが、最近の彼の懐きようと、激減した遅刻回数を鑑みて、今では「藍沢が猛獣を懐かせた」という評価に落ち着きつつある。……俺は違うと否定しているが、黒瀬が「別にいいんじゃね」とスルーしているため、その評価を覆すには至っていない。
黒瀬の不眠は、もうほとんど問題がないようだ。
「藍沢のおかげ」と黒瀬は言うが──以前の、安眠特化のASMRがそんなに効いたのだろうか。
まぁ、何にせよ、寝られているなら良かった。
というか、勉強……勉強か。
「正直、助かるかも」
黒瀬は、実はめちゃくちゃ成績が良い。
学年トップレベルだということを、こうして交流するまで知らなかった。かくいう俺はといえば、どこまでも平均的で可もなく不可もない、モブofモブだ。
「じゃ、決まり。どこにする? 図書館?」
黒瀬の目が、期待に煌めいている。
耳元のピアスを揺らしながら、小首を傾げて、上目遣い。……俺より随分でかい上に男であるのに、不思議と可愛いと思えてしまう。この、大型犬の子犬感──『黒瀬瑛理、可愛いヤツ説』は、すでに俺の中で確固たるものだけど、「あざとい」という気持ちは常に持ち続けている。
マスクの奥で苦笑しながら、俺は黒瀬の待っているだろう言葉を口にした。
「……うちで、する?」
「──うぐっ」
突然、黒瀬が突っ伏した。
それから慌てて周囲をキョロキョロ見渡す。その顔は、なぜか妙に赤い。
「黒瀬?」
「…………大丈夫。大丈夫だよな、俺だけしか聞いてない、よな……」
「黒瀬って、時々挙動不審だよな……」
「ってか、ホント、俺以外に言わないでね、そういうの……」
「どういうのだよ」
黒瀬は「わかんないかな……いや、わかんないままのが、いいか……?」と赤い耳先を隠すことなく、ブツブツと唸っていた。
通学路を並んで歩きながら、俺は申し訳なさと気まずさで身を縮めていた。
今朝の光景を思い返す。
『家族と一緒に、黒瀬と朝食を食べる』
それは、あまりに不思議な出来事だった。──そのまま、ただの『穏やかな非日常』で済めば良かったのだが。
紗枝は「黒瀬くんって顔もスタイルも最高だけど、声もめっちゃいいよね。配信とか興味ない?」と前のめりに食いつくし(黒瀬は一切の躊躇なく即、断っていた)、父さんと母さんは「おかわりもっといる?」とか「いっぱい食べて食べて!」と、終始フルスロットルのもてなしを見せていた。
玄関を出る際も、みんな「いつでもまた来てね」とニッコニコだった。
「うちの家族、朝からテンション高すぎだよな……。黒瀬、大丈夫だったか? 疲れてない……?」
「大丈夫。……ってか、むしろ『俺大丈夫だったかな』って方を心配してるっつーか……」
黒瀬が口にしたのは、意外な言葉だった。
「? どういう……?」
「そりゃ……藍沢の家族に、嫌われたくない、し……」
ぼそりと呟き、視線を逸らした彼の耳たぶが、朝日に透けて赤く染まっている。
銀細工の重みがない耳は、驚くほどあどけなく見えた。
──まぁ、俺の家族ってことは『HAKU-shion』の家族でもあるわけだし。印象良くしておきたいと思うのも当然か。
俺は自分なりにそう納得して息を吐いた。──また少し、胸の辺りがモヤつくのを自覚しながら。
「そういえば、ピアス、つけないのか?」
つけている方が落ち着くと言っていたのを思い出し、問いかける。
黒瀬は自身の耳に指先を這わせ、少しだけ驚いた顔をした。
「黒瀬?」
「……ああ、うん。学校に着いたら、つける」
彼はどこか落ち着かない様子で、今度は俺の口元をじっと見つめてくる。
「藍沢も、マスクは?」
「あ……」
口元に手を当てる。いつも覆っているはずの黒い不織布がない。
スクールバッグには常に予備が入れてある。指先をバッグのファスナーに伸ばしかけ──しかし、横を歩く黒瀬の「素顔」を思うと、手が止まった。
「……学校に着いたらつける」
不思議な感情の中で、俺も、黒瀬と同じような答えを口にした。
教室のドアを開けると、室内には不自然なざわめきが広がった。
遅刻の常連である黒瀬が始業前に、しかも相当余裕をもって登校してきたこと。そして、「モブ」の代名詞のような俺と、揃って現れたことで。
とはいえ、すぐさま「まあ、たまたま入り口で一緒になっただけだろう」という空気が流れた。当然すぎる帰結だ。……俺は、その空気に乗ることにした。
それでいい。俺みたいなのと関わりがあるなんて知られたら、黒瀬も迷惑だろう。俺は黒いマスクの奥で苦笑し、自分の席についた。
しかし。
「藍沢」
自分の席に座るのだと思っていた黒瀬が、なぜか俺の机の傍に立った。
クラス中の意識が、こちらに集中しているのがわかる。
「……ピアス、つけて」
甘えるような、有無を言わせない響きを含んだ声で。
黒瀬は緩く屈み、俺に視線の高さを合わせると、自身の耳を指さしながら、小さなアクセサリーケースを差し出してきた。
一瞬の静寂。
──直後、教室内をかつてないほどの激震が襲った。
誰かの息を呑む音、女子たちの短い悲鳴、椅子がガタッと倒れる音。
「へ……?」
混乱する俺をよそに、黒瀬は「ここ」と、もう一度無防備な耳を晒してみせた。逃がさないとばかりに鋭い瞳の中に、例の『大型犬の子犬』のような奇妙な可愛らしさを滲ませて。
そんな黒瀬から、俺が逃げられるわけもなく。
ほんの少し震える手で、黒瀬の白すぎる耳たぶに銀の針を差し込んだ。ひとつずつ、できるだけ丁寧に。
……俺は生きた心地がしなかったが、当の黒瀬は周囲の空気など一切気にならない様子で、俺の指先が自分の耳に触れるたび、満足げに目を細めていた。
***
「藍沢。今日の放課後、空いてる?」
ある日の休み時間。俺の席の横に、当然のような顔をして黒瀬が立っている。
慣れとは恐ろしいもので、かつては彼が俺に近づくだけで緊張が走っていた教室の空気も、今では「あ、またやってる」という雰囲気に向かっていた。
──あの『ピアス事件』から、すでに数週間が経っていた。
季節は十一月の後半。
肌を刺す風が更に冷たさを増し、制服の上にカーディガンやパーカーを羽織る生徒が目立つようになった頃。俺と黒瀬の「奇妙な交流」は、クラスの日常の一風景として定着しつつあった。
「……放課後? 空いてるけど……何?」
黒瀬は──多分、俺が声を張らなくて良いようにという配慮だろう。机に腕を乗せてその場にしゃがみ、こちらを少しだけ見上げる体勢をとった。ふたり、内緒話のように会話を続ける。
……落ち着きを見せ始めた教室の中でも、遠巻きに見守る一部の女子たちの視線だけは変わらず痛かった。紗枝が以前、黒瀬に対して、『影じゃ絶対、クッッッッソほどモテてるはず……!』と言っていた通りなのだろう。
というか、俺と黒瀬はそういう「モテ」とか、恋愛的なものとは無関係なので、お門違いではある。
黒瀬も「俺は『HAKU-shion』のガチ恋じゃない」と再三宣言しているし。
つまりそれは、『HAKU-shion』の中の人である俺に対しても、同じということで──。
──やめよう。この思考、すごくモヤモヤする。
俺が自分の中の嵐と戦っていると、黒瀬が放課後の予定を提示してくる。
「勉強一緒にしないかなって。ホラ、期末近いし」
「あぁ……なるほど」
当初は教師からも「黒瀬に脅迫でもされてるのか」と疑われていたが、最近の彼の懐きようと、激減した遅刻回数を鑑みて、今では「藍沢が猛獣を懐かせた」という評価に落ち着きつつある。……俺は違うと否定しているが、黒瀬が「別にいいんじゃね」とスルーしているため、その評価を覆すには至っていない。
黒瀬の不眠は、もうほとんど問題がないようだ。
「藍沢のおかげ」と黒瀬は言うが──以前の、安眠特化のASMRがそんなに効いたのだろうか。
まぁ、何にせよ、寝られているなら良かった。
というか、勉強……勉強か。
「正直、助かるかも」
黒瀬は、実はめちゃくちゃ成績が良い。
学年トップレベルだということを、こうして交流するまで知らなかった。かくいう俺はといえば、どこまでも平均的で可もなく不可もない、モブofモブだ。
「じゃ、決まり。どこにする? 図書館?」
黒瀬の目が、期待に煌めいている。
耳元のピアスを揺らしながら、小首を傾げて、上目遣い。……俺より随分でかい上に男であるのに、不思議と可愛いと思えてしまう。この、大型犬の子犬感──『黒瀬瑛理、可愛いヤツ説』は、すでに俺の中で確固たるものだけど、「あざとい」という気持ちは常に持ち続けている。
マスクの奥で苦笑しながら、俺は黒瀬の待っているだろう言葉を口にした。
「……うちで、する?」
「──うぐっ」
突然、黒瀬が突っ伏した。
それから慌てて周囲をキョロキョロ見渡す。その顔は、なぜか妙に赤い。
「黒瀬?」
「…………大丈夫。大丈夫だよな、俺だけしか聞いてない、よな……」
「黒瀬って、時々挙動不審だよな……」
「ってか、ホント、俺以外に言わないでね、そういうの……」
「どういうのだよ」
黒瀬は「わかんないかな……いや、わかんないままのが、いいか……?」と赤い耳先を隠すことなく、ブツブツと唸っていた。

