『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 俺の声は、とにかく低い。低すぎる。

 中学時代。声変わりをした時、「うわ、おじさんみたい」「不気味」などなど。子供故の残酷さで散々笑われた上、タイミングの悪いことに、校内の合唱大会と被ったのも大きかった。見事に浮いてしまい、周りには「無理に歌われる方が迷惑」「口パクでいいよ」なんて言われる始末。

 密かに憧れていた先輩にまで「低すぎて何言ってるか分からない……もっと普通に喋って?」と、悪意のない笑顔と共に困惑されてしまった。

 それらの出来事は、俺の喉に呪いをかけた。
『不気味』な自分の声を、俺自身も避けるようになったのだ。

 可能な限り喋らない道を選んだ結果、いつしか家族以外の人前では、過剰に緊張してうまく言葉が出なくなっていた。きっとこのまま、口下手のキモい陰キャとして人生を終えるのだろう──そう思っていたのだが。

 俺は今、はあろうことかその『不気味な声』を世界中に晒している。

 きっかけは、半年前。
 姉の紗枝が俺の寝言をASMRとしてネットに放り投げたことだ。もちろん、無断で。匿名での投稿だったとはいえ、ネットリテラシーはどうなってる。例え血のつながった姉弟であっても、承諾なしはどうなんだ。そう散々訴えるも後の祭りだった。

『この低音、鼓膜が溶ける』
『一生聴いていたい』
『奇跡の天然重低音』

 ──なんと、現実ではあれほど拒絶された声が、画面の向こうでは迎え入れられたのだ。

 そんなことがあり得るのか。俺の困惑をよそに、紗枝はひとりでどんどん先へ進んでいった。

 彼女のバイト代を注ぎ込んだらしい高級マイクや吸音材を突きつけられ、「これ全部返品不可。あんたが使わないなら、全部無駄になっちゃう……」と泣き落とされ、俺はなし崩し的にマイクの前で、ニ回目以降はもちろん寝言ではなく紗枝の台本を読み続け、今に至る。

 配信者『HAKU-shion』
 顔出しどころか指先ひとつ映さず、美しいシネマグラフに声を載せるだけのスタイル。

 対人ではないこと、そして台本という準備があるからだろう。普段と違い、どもることもなかった。不気味なはずの俺の声も、高性能な機材を通せば『宝物』のように聞こえてしまうらしい。

 多くの肯定的な反応に、ありがたい思いはあれど、今でもまったく実感が湧かない。『半信半疑』どころか、かなりポジティブな見解で、ギリギリ『一信九疑』くらいに思っている。

 裏方の業務は、すべて「任せろ!」と豪語する紗枝が取り仕切っている。収益はすべて家族に、と提案したが皆に拒否され、機材代を除いた利益はしっかり俺名義の口座に蓄積されていた。

 ──優秀とはいえ強引な紗枝に強く出られないのは、家族に心配をかけている自覚があったからだ。

『思春期だから』というある意味無敵の根拠で、『無口な弟』そして『無口な息子』を演じていた俺を、彼らは黙って見守っていてくれていた。干渉をストレスに感じる俺を尊重してくれていたのだ。
 その恩義があるから、アクロバットな行動に出た紗枝を、どうしても突き放せないのだった。

 家族以外は知らない、配信者としての俺の裏の顔。

 ──誰にも気づかれてはいけない。

 というか、気づかれたら終わる。
 もちろん配信という文化も、ASMRも悪いわけじゃない。『俺がASMR配信している』という一点に問題がある。

 だって、画面の向こうで俺を肯定してくれている人たちが、この黒いマスクの下で、コンプレックスに怯えている俺を知ったら。

 そして何より、クラスメイトに知られでもしたら、「え、根暗で地味な藍沢が、ASMR配信? あの声で?」「うわ、キモっ」──想像するだけで、胃のあたりが冷たくなる。

 俺は周囲をこっそり見渡した。
 クラスメイトたちは相変わらず、自習という名の自由時間を謳歌している。

 そして隣の席の男──黒瀬瑛理は。
 腕に顔を埋め、目を閉じたままだった。耳にかけたはずの髪がさらりと流れ、イヤホンを僅かに隠す。

 窓からの陽光を弾く銀のチェーンが、規則正しい呼吸に合わせて、微かに、本当に微かに揺れている。
 凶悪に見えていたピアスたちは、持ち主の眠りと共に、今はただ静かに沈黙していた。

 ──耳の形、綺麗なんだな。
 不意にそんな、場違いな感想が頭をよぎる。
 派手なピアスに惑わされていたが、その輪郭は端正で、どこか脆さすら感じさせた。

 この男は、どんな音を聴きながら眠っているんだろう。ずいぶんと寛いでいるように見える。長い足が窮屈そうだ。
 ああ、ホラ。机の広さを忘れているのか、肘にあたった教科書が落ちそう──。

「あ、」

 俺が思わず小さな声を漏らした瞬間、それは床へと吸い込まれるように静かに、俺と黒瀬の間の床に滑り落ちた。

 大声ではないが、人々の話し声があちこちで鳴りやまない教室では、教科書ひとつが落ちたところで誰も気に留めない。

 俺はどうしたものか、拾った方がいいのだろうかと、床に落としていた視線を黒瀬へと戻した。

 その時、眉を寄せ、小さく声を上げながらゆっくりと目を開いた黒瀬と、バッチリと目が合ってしまう。

 ──まるで、氷のようだ。
 黒瀬の鋭い眼差しに、心臓が凍りつく。

 それが恐怖だったのかは定かではない。
 とにかくパニックに陥った俺は、視線を逸らそうと大げさに動いてしまった。腕が、自分の教科書をなぎ払ったのに気がついたのは、落下した教科書の音が聞こえてからだった。

「っ、わ、悪いっ……」
 咄嗟に口をついて出た言葉は、何に対する謝罪なのか、自分でも曖昧だった。
 声は見事にひっくり返っていてみっともないの一言。最悪だ。

 俺は慌てて立ち上がり、ふたり分の教科書を拾い上げる。内心の動揺を隠しきれないまま、片方を黒瀬へと差し出した。

 黒瀬は、緩く目を見開いていた。
 ……そりゃそうか。驚くよな。隣の奴がいきなり静かにテンパってたら。

 彼は差し出された教科書を流されるように受け取ると、耳元のイヤホンを片方外して、低く呟いた。
「……どーも」
 それは、普通の反応とも言えたし、訝しげにも見えた。
 俺は逃げるように自席に戻り、課題プリントに集中するふりをして黒瀬の視線から逃げた。

 当然、そんな中で課題が進むわけもなく。結局、終わらなかった分は宿題として持ち帰ることになった。

 ──この時。
 落ち着きを取り戻すのに必死だった俺は、手元の教科書の厚みがわずかに違うことに、まだ気づいていなかった。