『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 カーテンの隙間から差し込む真っ白な光が、重いまぶたを容赦なく叩いた。
 心地よい微睡みの中で二、三度寝返りを打ち、シーツの感触を確かめてから、ようやく観念してのっそりと上体を起こす。窓の外に目を向ければ、昨晩の豪雨が嘘のように晴れ渡っていた。

 寝ぼけ眼のまま大きく伸びをする。そのまま、ふと視線を横に滑らせて──俺は呼吸ごと、すべての動きを止めた。

 ベッドのすぐ横、床の上。
 そこに敷かれた布団の中で、驚くほど安らかな寝顔を晒している黒瀬がいた。

 ──そ、そうだ。昨日、泊まってくことになったんだった……。

 黒瀬は、起こすのを躊躇うほど深く熟睡していた。
 整った鼻筋から零れる規則正しい呼吸。影を落とす長い睫毛は陽光を透かし、まるで芸術品のように繊細で、幻想的ですらある。
 けれど、同時にどこかあどけない。
 剥き出しになった額。唇はわずかに緩み、普段の黒瀬とは別人のような幼さを漂わせている。あまりに無防備な寝顔だった。

 ──ってか、人の寝顔をガン見とか……。
 俺の理性は、必死に視線を逸らそうとする。けれど、どうしても黒瀬から目が離せない。俺は金縛りにでもあったかのように、ただ固まって彼を見つめ続けてしまっていた。

「……ん」

 不意に、微かな唸り声が漏れた。
 黒瀬の睫毛が震え、ゆっくりと、重たげにその瞳が開かれる。
 焦点の合わない瞳が何度か瞬きを繰り返し、やがて、乱れた髪をかき上げながら上体を起こした。

 黒瀬はどこか呆然とした様子で、虚空を眺めている。
 陽光を背にしたその姿は、輪郭を白く光らせてどこか現実味がない。
 ここは本当に俺の部屋だろうか──そんな逃避じみた思考に耽っていると、ふいに黒瀬の視線がこちらを向いた。
 バッチリと、目が合う。

「あっ……お、おはよう」
 見つめていたことがバレた気がして、俺は慌てて視線を泳がせた。
 黒瀬はまだ霧がかったような瞳で、ぼんやりと俺を見つめていた。

「……おはよ、藍沢」

 掠れた、低い声。その響きに、背筋が震えた。
 逸らしたはずの視線は、吸い寄せられるように再び黒瀬を向いてしまう。
 その目は、まだとろんとしていて、眠そうだった。
 ──熟睡していたように見えたけど……。

「黒瀬……その、ちゃんと眠れた……?」

 昨夜、何か喋ってくれと乞われ、迷っているうちに彼は寝息を立て始めていた。俺もそのまま意識を手放してしまったが、その後はどうだったのだろうか。途中で起きてしまったりとかあったのかもしれない。
 黒瀬は自分の掌をじっと見つめ、ゆっくりと指を折り曲げて握り締めた。何かを確かめるように。

「……こんなぐっすり眠れたの、何年ぶりだろってくらい、よく眠れた」
「あぁ……俺を運んだりとか、気疲れとかあったろうし……」

「そうじゃなくて……」

 黒瀬は瞼を閉じ、一度深く呼吸をしてから、再び俺に視線を向けた。

「藍沢が……俺の、とな……り──」

 黒瀬の言葉が、急速に尻すぼみになっていく。
 それに呼応するかのように、彼の顔は耳の先まで、見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
 何事かと思っていると、黒瀬は次の瞬間、勢いよく布団の上へと転がった。

「えっ……? ちょ、黒瀬……!?」
「う、うわっ……え……そういう、こと……? まじ、まじか、俺……あぁ……」

 仰向けのまま両手で顔を覆い、黒瀬がシーツの上をごろごろとし始める。
 さっきまでの幻想的な空気はどこへやら。何やらひとりで悶絶し始めた黒瀬を、俺はただ呆然と見守るしかなかった。

 しばらくその奇行を眺めていると、異変を察知したのか、ドアの隙間からニナがひょっこりと顔を出した。
「んにゃ!」
「……おはようニナ」
 ニナは軽やかな跳躍でベッドに飛び乗ってくると、俺の膝に頭を擦りつけ、「撫でろ」と催促してくる。
 ……黒瀬、寝起きでテンションがおかしくなってるんだろうか。
 喉を鳴らすニナを優しく撫でながら、俺が困惑混じりに黒瀬を見下ろすと、いつの間にか彼は動きを止めていた。
 指の間から覗く瞳が、俺の手元を──ニナを撫でる俺の指先を注視している。どこか、じっとりとした視線で。

「──藍沢、俺やっぱ……『HAKU-shion』のガチ恋ではないってことが、ハッキリしたわ」
「と、突然だな……」

 唐突に、悶絶した末に辿り着いた答えがそれか。どこまで行っても『HAKU-shion』の話題に帰結するあたり、黒瀬は本当にブレない。

 俺はなんとも複雑な気持ちで、ニナの背を撫で続けた。