『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 風呂上がりの肌を、夜の廊下の冷気が心地よく撫でていく。
 リビングからは両親と紗枝の談笑する声が、微かに漏れ聞こえてくる。賑やかな日常を背に、俺は自室へと向かった。

 ドアの前まで来ると、そこはリビングの喧騒が嘘のように静まり返っている。
 ──もしかして、もう寝てしまっただろうか。
 ニナが自由に出入りできるよう、あえて数センチだけ開けておいた隙間から、部屋の様子を窺う。

 ベッドのど真ん中には、丸くなったニナが陣取っている。
 そのベッドの縁を背もたれにするようにして、黒瀬は床に直接座り込んでいた。
 手元のスマホに視線を落とす黒瀬の横顔は、教室で見かける姿──存在するだけで周囲の温度を下げるような、危うい空気を纏った『黒瀬瑛理』そのものだった。
 さっきまで『HAKU-shion』の存在に悶絶し、ベッドにひっくり返っていた姿が幻だったのではないか。そう思えるほど、今の彼は静謐で、その視線は冷ややかにすら見えた。

 なんとなく声をかけるのを躊躇していると、彼の耳元の銀色が、室内の光を鋭く弾いた。
 ピアスをつけたままの耳には、ワイヤレスイヤホンが差し込まれているのが見える。
 何を聴いてるんだろう。

 俺はふと、以前黒瀬に「いつも、何聴いてるんだ?」と問いを投げかけたのを思い出した。

『配信のアーカイブ』
『そればっかってか、それしか聴いてない』

 ──いや、まさか……まさかな……。

 その時、眠りから覚めたニナが、欠伸混じりに黒瀬の肩へと飛び乗った。
「え」
 不意の重みに驚いて顔を上げた黒瀬と、ニナ越しに目が合った。
 ニナはそのまま床へと飛び降り、何食わぬ顔で俺の足元までトコトコとやってきた。
「こら、ニナ。お客様に失礼だろ」
 静かに窘めながら、足首に頭を擦りつけてくる彼女を屈んで撫でてやる。
「しょうがないな……」
 ゴロゴロと満足げに喉を鳴らしたニナは、ひとしきり甘え終えると、ご機嫌な足取りで部屋から去って行った。

「…………いいな」

 ポツリと。
 仄かに聞こえる雨音にすら紛れるような小さな声が、黒瀬の唇から零れた。
 黒瀬へ視線を向けると、ニナの後ろ姿を追いかけるようにドアの隙間を見つめていた。

「? 何が?」
「……っ、いや、なんでもないっ……」

 黒瀬は慌ててイヤホンを外すと、耳まで赤くして視線を泳がせた。
 その過剰な反応の理由を量りかねて、黒瀬の隣へと歩み寄る。一度部屋を出て頭を冷やしたせいか、先ほど胸を焼いた妙なモヤつきは、不思議と薄れていた。

 ……と、いうか。
「あのさ……もしかして、今さっき聴いてたのって……」
 予想が合っていて欲しいのか、それとも外れて欲しいのか。自分でもよくわからないまま尋ねると、黒瀬は少しだけ、誇らしげに胸を張った。

「『HAKU-shion』のアーカイブ」

 ──本当にブレないなコイツ! そんで、何でちょっとドヤっとしてるんだ。
 したり顔で黒瀬が首を軽く傾げた拍子に、彼の耳元でピアスが揺れる。風呂上がりだというのにひとつも外していない。……そういうもの、なのだろうか。
 黒瀬の隣にそのまま座るのはなんとなく気が引けて、俺は結局、彼の斜め隣、ベッドに腰を下ろした。

「気になる? これ」
 視線に気づいた黒瀬が、耳元の銀細工に触れながら訊ねてくる。
「……そういうのって、風呂でもつけたままなのかなって」
 俺が湧いた疑問を口にすると、黒瀬は「あぁ」と応じた。
「人による。俺は基本、つけっぱ」
「ずっとつけてるの、重くない? 痛くなったりとか……」
「慣れた。今はむしろ、つけてる方が落ち着く。外の音が遮断される気がして」

 ──外の音を、遮断する。
 彼が語ったその理由は、単なるファッションとしてのこだわりよりも、ずっと切実で、どこか自分を守るための防壁のような響きを帯びていた。
 かけるべき言葉が見つからず、俺がただ黙って彼を見つめていると、黒瀬はふっと視線を落とした。

「……けど、さすがに寝る時には外すよ。寝返り打って引っかかったりしたら、マジで痛いし」
 冗談めかすようにそう言って、黒瀬は長い指先を自分の耳元へと伸ばした。
 ゆっくりと、一つ目のピアスが外される。ずっと凝視していいものではないだろう。けれど、俺は何故かそこから目を離すことができなかった。

「人前で外すことないから、なんか、すげー緊張する」

 少しだけ照れくさそうに、けれど拒絶の色は見せずに、黒瀬は作業を続けた。
 耳の飾りがひとつ、またひとつと取り払われるたびに、彼の耳たぶが無防備な形を露わにしていく。
 髪をかき上げ、首筋を晒しながらピアスを外すその仕草は、まるで心の奥にある柔らかい部分を、少しずつ見せつけられているようで。

 俺は「緊張って、何だそれ」と返しつつ、黒瀬のその仕草に、剥き出しの耳に、妙にドキドキしてしまっていた。
 風呂上がりの熱を帯びた、生々しい肌の質感。見てはいけないものを見ているような高揚感。他人のプライベートの奥深くに、ひどく踏み入ってしまったような罪悪感。

 やがて、すべてを外し終えると、黒瀬はそれらをひとつずつ丁寧にクロスで拭い、持参していた小さなアクセサリーケースに収めた。

「ピアスつけてみたい?」

 部屋を支配していた不思議な緊張感を打ち消すように、黒瀬がふと訊ねてきた。

「……いや、耳に穴開けるの怖いし」
「わざわざ穴開けなくてもさ、イヤリングとかイヤーカフとか」
「う、う~~ん……俺には似合わないと思う……」
 黒瀬だからこそ、あの銀の光は胸を焼くほど鋭く、格好よく見えるのだ。
 謙遜ではなく本音でそう告げると、黒瀬は迷いのない口調で断言した。

「似合うよ、藍沢なら」

 その言葉の強さに、俺はたじろいだ。
 ……黒瀬は、なぜか、俺を、『藍沢奏』を肯定してくれる。それを嬉しく思う気持ちは確かにある。

 けれど。

 黒瀬は、いまだに部屋の隅にある配信スペースを視界に入れないようにしているのを知っている。それだけ、意識している。『HAKU-shion』の存在を。
 俺と──『藍沢奏』と会話している今も、ずっと。

 視界の端に映る、グレーの防音ブース。
 黒瀬が今「似合う」と言ったのは、本当に、目の前にいる俺のことなのだろうか。
 ──『HAKU-shion』という色眼鏡を通しているから、そう思っているだけなんじゃないか。
 その疑念が、どうしても晴れない

「奏、お客様用のお布団、廊下に置いておくからねー!」

 空気を切り裂くように、ドアの外から母さんの声が響いた。
「う、うん。ありがとう」
 慌てて布団を運び込むと、黒瀬が柔らかく目を細めていた。
「藍沢の家って、あったかい感じする」
「うっ……だいぶポジティブに言ってくれてる気が……」

 気がつけば日付を越えそうな時間だった。
 床に布団を敷き終えると、どちらともなく「もう寝よう」という流れになり、俺は部屋の明かりを落とした。

 パチリ、と音がして光が消える。
 一気に深まった暗闇の中で、それまで気にならなかった雨音が、やけに大きく鼓膜を叩き始めた。
 俺はベッドに潜り込み、シーツの冷たい感触に身を沈める。

 ……誰かが自分の部屋に泊まるなんて、産まれて初めてだ。しかもその相手が、自分とは本来交わらないようなタイプの黒瀬だとは。緊張で目が冴えるかと思いきや、未だ寝不足が解消されていない俺の瞼は、そんなのお構いなしに重みを増していく。

「いつも『HAKU-shion』の配信聴いて、うとうとする感じだから。変な感じ」
 雨音に紛れるように、黒瀬の声がポツリと届いた。
「……眠れそう?」
 ──そうだ。俺はともかく、黒瀬は知らない部屋に突然泊まることになったのだ。眠れないのも当然と言えた。そうでなくても、黒瀬は不眠気味なのに。
 落ちそうになる瞼をなんとか堪えながら、「何か俺にできることある?」と問う。
「じゃあ」と黒瀬がほんの少しだけ、甘えた声を出した。

「──藍沢、喋っててくれる? ちょっとだけでいいし……何でもいいから」
 すぐ隣、床に敷いた布団から微かな衣擦れの音が聞こえる。
 縋るような、微睡むような声が続いた。

「……藍沢の声、好き…………」

 心臓を直接撫でられたような、祈りにも似た響きだった。

 ──本当に。
 本当に俺なのか。それは。

 だって俺は、地味で、根暗で、冴えないただのモブで。クラスの隅に縮こまっているのがお似合いの存在で。
 ……そんな俺に、黒瀬の言うほどの価値なんて、本当にあるのか?

 せっかく凪いでいた胸の内に、また、冷たいモヤが戻ってくるのを感じた。