『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

「うーん……これ、黒瀬に入るかな……」

 クローゼットの奥をかき回しながら、俺は独りごちた。
 黒瀬は、俺より頭ひとつ分は背が高い。細身とはいえ、肩幅はがっしりしているし、何より足が長い。自分の持ち合わせの中で、辛うじて着られそうな最大サイズのTシャツとスウェットを手に取った。

 自室のドアを開けると、リビングからはさらにボリュームを増した騒がしい声が漏れてくる。
 どうやら、仕事に出ていた両親がいつの間にか帰宅していたらしい。

「本当にかっこいいわね、黒瀬くん! ここまでのイケメン、お母さん生まれて初めて見たわ」
「いや、そんな……」
「ね! そうだよね! 世代性別問わないイケメンだよ? ね、お父さん」
「わかる。足も長い、僕の三倍はあるかも」

 ……リビングに足を踏み入れると、案の定、紗枝を応戦するように、父と母が代わる代わる黒瀬をちやほやしていた。
 黒瀬はといえば、嫌そうではないものの、じゃれつく大型犬の群れに囲まれた猫のように、どう反応していいか分からない様子で、曖昧な返答をしている。

「……あ、藍沢……」
 俺の姿を見つけるなり、黒瀬の瞳に助けを求める光が宿った。
「黒瀬困ってるって……!」
 先ほどの再放送のように、俺は黒瀬と家族の間に割って入った。
「ああ、ごめんね、黒瀬くん」
「奏がお友達連れてくるの珍しすぎて、つい……」
「そ、そういうのいいって……」
 心配をかけている自覚がある手前、俺の抗議は語尾に向かって尻すぼみになってしまう。……というか、そもそも「友達」と呼んでいいのかさえ、わからない。

 ……何にせよ、これ以上テンションの高い家族の輪に、黒瀬を立たせておくのは忍びなかった。
 両親や紗枝が悪いわけではない。
 ただ、初対面というだけで気を遣うのに、相手は「クラスメイトの家族」という、この上なく反応に困る集団だというのは、紛れもない事実だった。

 とにかく黒瀬をここから連れ出そうと、俺は腕に抱えていた着替えを差し出した。
「黒瀬。お風呂、先に入っちゃいなよ。タオルは脱衣所に置いてあるし……あ、下着」
「下着なら、お父さんが出張用に買っておいた新品を置いておいたわよ」
 母の準備の良さに、俺は素直に脱帽するしかなかった。い、いつの間に……。
 俺は会話が途切れた隙を逃さず、黒瀬の制服の袖を引き、脱衣所へと向かった。

「マジでごめん黒瀬……うち、いつもこういう感じで……」
 元を正せば、俺が店で寝落ちしなければこんな事態にはなっていなかった。申し訳なさで消え入りそうな俺に対し、黒瀬はふっと目元を和らげた。
「いいよ。なんか、いいなって思った。……安心したし」
「……安心?」
 脱衣所の扉を開けながら問い返すと、黒瀬は俺を真っ直ぐに見下ろした。
「あれだけ賑やかな家族に囲まれてたら、藍沢、寂しくないだろうなって」
「えぇ……? 何目線? それ」
 不思議に思いつつ黒瀬を見上げると、彼はほんの少しだけ、夜の雨に溶けてしまいそうな、寂しげな笑みを浮かべていた。

 黒瀬を案内し終えると、俺は自室に引っ込んだ。
 ベッドにぼすんと腰を下ろし、ひとつ、大きく息を吐き出す。
「んにゃ」
 声のした方へ視線を向けると、半開きにしていたドアの隙間から、愛猫のニナが顔を覗かせていた。
 いつものように、両親の部屋で寝ていたのだろう。寝起き特有のポヤポヤとした足取りで歩み寄ってくると、俺の脛に頭を擦りつけ、喉をごろごろと鳴らし始めた。
「おいで、ニナ」
 俺は彼女を抱き上げ、膝の上に乗せる。温かな重みを感じながら、柔らかな毛並みをゆっくりと撫でていると、どこかソワソワして落ち着かなかった気持ちが、少しずつ解けていく。

 しばらくして、リビングの方から「黒瀬くん、本当に背が高いわねぇ!」と、母のはしゃぐ声が微かに聞こえてきた。……母さんのあのテンション、ホント紗枝にそっくりなんだよな。血の繋がりを強く感じて、俺は苦笑する。
 また黒瀬が絡まれて困っていないだろうか。
 様子を見に行こうと、俺はニナをそっと床に下ろして立ち上がりかけた、その時だった。

 自室のドアが、遠慮がちに二回、ノックされた。
「……藍沢?」
「あ、入っていいよ」
 返事をすると、半開きのドアから黒瀬がひょっこりと顔を覗かせた。
 ──その現れ方は、先ほどのニナと驚くほど重なって見えた。
 俺の中で密かに提唱している『黒瀬瑛理、実は可愛いヤツ説』が、またひとつ強力な根拠を伴って補強されるのを感じた。

 部屋に入ってきた黒瀬の姿を正面から捉えた瞬間、俺は言葉を失って固まった。
「わ、悪い、やっぱ服……小さかったよな……」
 俺が着ればぶかぶかだったTシャツも、黒瀬が袖を通すと明らかにその余裕を失っていた。
 広すぎる肩幅に生地が引っ張られ、横に大きく開いた襟ぐりからは、鎖骨のラインが剥き出しになっている。
 丈は、なんとか「つんつるてん」を免れているといった危ういラインに収まってはいるが、黒瀬が少し動くたびに、裾から引き締まった腹筋の輪郭がチラリと覗いた。
 ……同性相手に何をと自分でも思うけれど、色気がすごい。なんとなく、見てはいけない気がして、足の方へと視線を落とす。
 下に履いたスウェットに至っては、完全に八分丈になってしまっていた。

「俺はヘーキだけど、伸びちゃったらごめ──」
「それは全然……黒瀬?」
 黒瀬の声が、中途半端に途切れた。

 彼の視線は、ベッドとは反対側の、部屋の隅に置かれたグレーの防音ブースに釘付けになり、そのままピシリと凍りついている。
 防音カーテンの僅かな隙間から、配信用のコンデンサーマイクが鈍い光を反射していた。

「……あれって、もしかして、配信してる場所……?」
「う、うん。そうだけど」
 俺が肯定した瞬間、黒瀬はズザッと大げさなほど後ずさった。
 そのままベッドの縁に足を引っかけ、派手な音を立ててマットレスの上にひっくり返る。

「く、黒瀬……!? 大丈夫?」
「おっ、おおおおお俺、俺見ないようにするからっっ、絶対!」
 黒瀬仰向けのまま、両手で顔を覆って激しく横に振っている。
「いや、見られて困るような物も置いてないし、変に気を使わないで大丈夫」
「むむむむむむり……っ! ちょ、『HAKU-shion』が、ここで配信してるのかって思うと……うわ……マジか……つまり、聖地ってこと……?」

 黒瀬は耳どころか、首筋まで真っ赤に染めて悶絶している。
 その様子をいつものように困惑と共に見守る──つもりだったが。

「…………」

 ──何だろ、この、変な気持ち……。
 胸の奥に、言葉にできない妙なモヤつきが生まれた。
 黒瀬が、『HAKU-shion』に対して、異様なテンションになるのはいつもの話だ。すでに見慣れている。反応に困ることはあれど、別に嫌な気持ちはしなかった、のに。

 目の前にいる「俺」ではなく、その背後にある『HAKU-shion』にばかり夢中になっている彼を見ていると──。

「おっ……俺、風呂入ってくる。適当にくつろいでて」

 俺は、自分の中に湧いた奇妙な感情から逃げるようにそう言って、自室を後にした。