『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 ──深いまどろみの底で、ゆらゆらと揺れていた。

 ふわふわした、ひどく曖昧な意識の断片。とにかく温かくて、心地良かった。
 頬に触れる、少し硬くて熱い布の質感。
 耳のすぐそばで、トクン、トクンと、自分よりずっと早いリズムで鼓動が響いていた。


 ふと目を開くと、視界に飛び込んできたのは、見慣れたリビングの天井だった。
「あ、起きた」
 聞き慣れた紗枝の声に、意識が急激に浮上する。
 ──あれ、俺、いつの間に家に……?
 ともすれば再び瞼が閉じそうになるのを堪えつつ、なんとか上体を起こした。
 どうやら、リビングのソファに寝転がっていたようだ。

 思考が定まらない中、まだ眠たい目を擦る。──視界の端に、場違いなほど背の高い人影が映った。
 ──ん……?
 ピントを合わせるように何度か瞬きをして、俺は息を呑んだ。
「──えっ。く、黒瀬!?」
 ダイニングテーブルの傍ら。キッチンカウンターに寄りかかる紗枝の正面で、気まずそうに視線を泳がせながら、黒瀬がそこに立っていた。な、何でここに……!?
「黒瀬くん、アンタのこと、おんぶして運んで来てくれたんだよ」
「おん、ぶ……っ!?」
 紗枝の言葉に、一気に血の気が引いた。脳内に、断片的な記憶が濁流のように押し寄せてくる。

 ──そうだ。うっすらとだが、思い出してきた。

 ……喫茶店で黒瀬の声に包まれて、そのまま意識を手放して。
 どれくらい経ったのか、肩を揺らす手の感触で目が覚めた。けれど意識は朦朧としたままで、黒瀬に促されるまま会計を済ませ、ふわふわした足取りで店を出たのだ。
 ──多分、相当危なっかしく見えたのだろう。
「……送る」
 そう短く告げてきた黒瀬に、肩を強く支えられたのを覚えている。

「電車通学? 最寄りどこ?」
 足元が覚束ない俺に、黒瀬は甲斐甲斐しく付き添ってくれた。満員の電車に揺られている間も、俺を囲うように立ち、周囲の人間から守るように壁になってくれていた。
 最寄り駅に着き、電車から降りて、改札を出た──ここまでは何とか思い出せる。
 ──ただ、ここからの記憶は、本当に曖昧だ。

「……藍沢。うち、どこ?」

 耳元で響いた、掠れた低い声。
 温かい体温と、寝かしつけられるような程よい揺れ。
 それが、あまりにも心地よい子守歌のように思えて──俺は、完全に眠りの中に沈んでしまったのだ。

「……ごめん。俺、本当……ごめん、黒瀬……」
 あまりの失態に、今度は顔が沸騰しそうなほど熱くなる。俺はそれ以上言葉が出なくて、両手で顔を覆った。寝落ちした挙句に、クラスメイトにおんぶされて帰宅とか──小っちゃい子供か俺……!

「や。俺が勝手に送るって言ったんだし。……気にしないで」
「ヒューー!! 黒瀬くんおっとこ前~~! えーもう奏ったら、こんな超絶イケメンと知り合いなんて言っておいてよ~~!」
「紗枝っ、茶化す場面じゃないって今!」
 テンション高! この面食い……!
「黒瀬くん、絶対モテるでしょ~」
「いえ、全然……」
「またまた~~! 黒瀬くんが気づいてないだけかも? 周りが高嶺の花すぎて手が出せないだけとか? そのちょっと危険な香りがするところも含めて、影じゃ絶対、クッッッッソほどモテてるはず……!」

 黒瀬は「……どーも」と、紗枝の勢いに圧倒されたように、タジタジになって後ずさっている。そのまま、避難するように俺の傍までやってきた。
「ホラ、もう。黒瀬、反応に困ってるだろ」
 ぐいぐい来る紗枝から守るように、俺はふたりの間に入った。
「ありゃ。奏、嫉妬?」
「違うって、この恋愛脳め……。とにかく、黒瀬に失礼だろ」
「あはは、ごめんごめん」
 紗枝はケラケラと笑って俺の抗議を受け流すと、ふと思い出したように手を打った。
「あ。そうだ。ねぇ、奏からも言ってあげてよ。今日はもう、泊まっていきなさいって」

 その言葉に、置物のように固まっていた黒瀬が、弾かれたように顔を上げた。
「……いや、大丈夫なんで。俺、帰ります」
「でもホラ、外見てよ」
 紗枝がリビングのカーテンを勢いよく捲る。窓の外は、バケツをひっくり返したような豪雨だった。
「うわ、土砂降り……」
「ね? 時間も時間だし、送ってくれたお礼もしたいしさ~」
「……うん。まぁ、それはそう、だけど……」

 俺は、隣で立ち尽くす黒瀬を見上げた。
 紗枝の言うとおり、夜に、しかもこの雨の中、帰宅させるのはあまりに忍びないし、何より心配だ。
 けれど、突然他人の家に泊まるのは彼にとって大きなストレスかもしれない。その気持ちは俺にもわかる。実際、帰りたそうにしてるし……迷惑じゃないだろうか。
 俺は、黒瀬の出す回答が強制させられたものにならないよう、「NO」と言いやすい余白を残すつもりで、でも、心配という気持ちも嘘じゃないという躊躇の元で、そっと、できるだけ声を落として問いかけた。

「黒瀬。……泊まって、く……?」

 ──何故か一瞬、リビングの空気が止まった。

 直後、黒瀬は喉を大きく鳴らし、見開いた目で俺を凝視した。かと思えば、キョロキョロと周囲を見渡し、パクパクと口を開閉させている。
 俺はわけもわからず、とにかく首を傾げるしかない。
「黒瀬?」
「っ……だから……そういうの……」
 彼は顔を林檎のように真っ赤にさせ、あーだのうーだのと要領を得ない呻き声を漏らしたあと、静々と顔を伏せ、
「……泊まります」
 ──と。なぜか、一大決心のようなテンションの敬語で回答してきた。

「ははーん?」
 紗枝の目が、獲物を見つけた猛獣のように怪しく光った。
「……何?」
 嫌な予感に、俺は半目になる。
「いやいやいや。奏も隅に置けないじゃないの、このこのっ」
「何の話だよ、マジで……意味わかんないって」

 紗枝の謎のテンションに辟易しながら、俺は黒瀬に貸すための着替えを取りに自室へと向かう。
 ──黒瀬でかいし、サイズ合うやつあるかな……。

「……じゃない、……こい、じゃない……がちこいじゃない……おれは……」

 背後からは、黒瀬が壊れたレコードのように、何かをボソボソと呟き続けているのが聞こえた。