翌日の月曜、朝。
俺は重い瞼をこじ開けながら、ふらつく足に鞭を打って通学路を急いでいた。
──安眠を届ける側の俺が、寝不足でどうするんだ……。
昨晩、配信を終えた後のことだ。
極限の緊張から解放された反動だろうか。心臓の鼓動はいつまでも速いままで、異様な高揚が脳を焼き、どうしても寝付けなかった。
これまでは『リクエストをくれた誰か』という、輪郭のぼやけた存在に向けていた言葉。
それを昨夜は、『黒瀬瑛理』という、隣の席に座る生身の熱を持った人物へと、真っ向から語りかけた。
その明確すぎるリアリティが、俺の平穏を根こそぎ奪っていったのだった。
──黒瀬は、聴いてくれただろうか。もし聴いたのなら、少しは深く眠れただろうか。
そんなことを考えながら、俺のようにギリギリを攻める生徒と共に、教室へ滑り込んだ。
足を踏み入れるのとほぼ同時に、始業のチャイムが鳴る。せ、セーフ……!
マスク越しで息が苦しい中、大きく一呼吸した。息を整えるために伏せていた顔を上げる。自然と教室の後方、自席の隣、黒瀬の席へと視線が向き──俺は、大きく目を見開いた。
驚いたことに、黒瀬はもう自席にいた。
いつもなら机に突っ伏していたり、気だるげに頬杖をついている彼が、今日は背筋を伸ばして窓の外を眺めている。
心なしか、今日の彼はいつもより表情が明るく、スッキリとしている──ように見えた。単なる俺の思い込みかもしれないけれど。
俺が席に着くと、隣から微かな視線を感じた。
何かを言いたげで、けれど踏み込むのを躊躇うような空気があった。
──どうなんだろうか。少しでも、力になれただろうか。
俺は襲いくる眠気を必死に噛み殺しながら、休み時間に小刻みな仮眠を貪ることで、どうにか一日をやり過ごした。
放課後、堪えきれぬ欠伸を零しながら、スクールバッグを手に取り、帰路へつく。
──そういえば、今日は家族の帰りが遅い日だ。
夕飯は各自で、ということになっている。家にあるもので済ませるか、コンビニで適当に買って帰るか。ぼんやりと考えを巡らせていた時、不意に脳裏を掠めるものがあった。
──あの店のナポリタン、美味しそうだったな。
黒瀬に連れられて行った、あの路地裏の喫茶店。
食欲をダイレクトに刺激する香ばしいケチャップの匂い。たっぷりの具材が太めの麺に艶やかに絡み、その上から惜しみなく振りかけられた粉チーズ──一度思い出すと、もうそれ以外は考えられなくなってしまった。
「……ここで、合ってるよな?」
心細さから、つい独り言を漏らしてしまう。
恐る恐る路地裏に踏み入れ、記憶を頼りに細い路地を曲がると、見覚えのある重厚な店構えを見つけてホッとする。
ひとりで入るのは勇気がいるけれど、空腹と好奇心に背中を押された。
カラン、と乾いた鈴の音を響かせてドアを開けた。
店内には他にお客さんの姿はなく、白髪のマスターが、カウンター越しに「いらっしゃいませ」と穏やかに迎えてくれた。
「お好きな席へどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
モゴモゴと挨拶を返し、以前座った席へ向かおうとして、レジ脇の小さな棚に目が吸い寄せられる。
前に来たときも気になった販売スペース。やっぱり、全体的に雰囲気が良い。
アンティークな置物やポストカードも良いが、中でも目を引くのは、鈍い光を放つシルバーアクセサリー。ピアスや指輪──おそらくハンドメイドなのだろう。同じ形状かと思いきや、ひとつひとつに違いがあり、その歪さすらも心地よい温かみに思える。
──黒瀬がつけてるのと、雰囲気似てるんだよな。
「気になりますか?」
マスターが柔らかく話しかけてくる。
「あ、は、はい。その、どれも目を引くというか……素敵なデザインだなって思って」
触れるのは憚られて、顔を近づけてじっくりと観察する。量産され、整えられた物とはまた違う。いずれも独特の存在感があり、どれも目を引く。
「その感想を伝えたら、きっと喜ばれますよ」
「え……」
「誰に?」と問うより先に、カランとドアベルが鳴った。
現れたのは、黒瀬だった。
彼は軽く目を見開き、こちらを凝視した。
「いらっしゃいませ」
黒瀬はマスターの声に軽く会釈を返すと、吸い寄せられるように俺の隣へ歩み寄ってきた。
「……気になる? それ」
「──うん。置いてあるの全部良い雰囲気だけど、この辺のシルバーアクセ、特に好きだなって」
「……ふぅん」
「ひとつひとつ違うのに、根っこの部分は繋がってる感じがする。同じ人が作ったんだろうな。……繊細で、どこか近寄りがたい鋭さもあるけど、不思議と温かくて……俺、好きだな、このデザイン──」
長々と語ってしまってから、唐突に我に返った。
「──って。ご、ごめんっ。俺、全然詳しくないのに、えらそうに……」
黒瀬はというと、不機嫌な顔をするでもなく、俺の動向を注視していた。射抜くような強い眼差しに一瞬ビビるが、そこに責める色はなかった。
黒瀬の耳元で揺れる銀のピアスが目に入る。──うん。やっぱり似てる。
「……黒瀬のつけてるのと、似てるよな。もしかして、ここで買った?」
「…………」
問いかけると、黒瀬は急に視線を逸らして黙り込んでしまった。口元を片手で覆い、何かを必死に堪えている。そして、白い肌に浮き出た耳の先端が、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「く、黒瀬……?」
何か、触れてはいけない話題だったのだろうか。不安になった俺の耳に、密やかで上品な笑い声が届いた。
「実はそちらのアクセサリー、黒瀬さんが製作されたんですよ」
「……えっ……!?」
衝撃に、思わず黒瀬の顔を見上げ、至近距離で覗き込んでしまった。
「ま、マスター!」
黒瀬が裏返った声を上げる。
けれどその瞳に怒りはなく、顔中を林檎のように赤くした彼は、いつもの鋭さが嘘のように、年相応の幼い表情で立ち尽くしていた。
俺は重い瞼をこじ開けながら、ふらつく足に鞭を打って通学路を急いでいた。
──安眠を届ける側の俺が、寝不足でどうするんだ……。
昨晩、配信を終えた後のことだ。
極限の緊張から解放された反動だろうか。心臓の鼓動はいつまでも速いままで、異様な高揚が脳を焼き、どうしても寝付けなかった。
これまでは『リクエストをくれた誰か』という、輪郭のぼやけた存在に向けていた言葉。
それを昨夜は、『黒瀬瑛理』という、隣の席に座る生身の熱を持った人物へと、真っ向から語りかけた。
その明確すぎるリアリティが、俺の平穏を根こそぎ奪っていったのだった。
──黒瀬は、聴いてくれただろうか。もし聴いたのなら、少しは深く眠れただろうか。
そんなことを考えながら、俺のようにギリギリを攻める生徒と共に、教室へ滑り込んだ。
足を踏み入れるのとほぼ同時に、始業のチャイムが鳴る。せ、セーフ……!
マスク越しで息が苦しい中、大きく一呼吸した。息を整えるために伏せていた顔を上げる。自然と教室の後方、自席の隣、黒瀬の席へと視線が向き──俺は、大きく目を見開いた。
驚いたことに、黒瀬はもう自席にいた。
いつもなら机に突っ伏していたり、気だるげに頬杖をついている彼が、今日は背筋を伸ばして窓の外を眺めている。
心なしか、今日の彼はいつもより表情が明るく、スッキリとしている──ように見えた。単なる俺の思い込みかもしれないけれど。
俺が席に着くと、隣から微かな視線を感じた。
何かを言いたげで、けれど踏み込むのを躊躇うような空気があった。
──どうなんだろうか。少しでも、力になれただろうか。
俺は襲いくる眠気を必死に噛み殺しながら、休み時間に小刻みな仮眠を貪ることで、どうにか一日をやり過ごした。
放課後、堪えきれぬ欠伸を零しながら、スクールバッグを手に取り、帰路へつく。
──そういえば、今日は家族の帰りが遅い日だ。
夕飯は各自で、ということになっている。家にあるもので済ませるか、コンビニで適当に買って帰るか。ぼんやりと考えを巡らせていた時、不意に脳裏を掠めるものがあった。
──あの店のナポリタン、美味しそうだったな。
黒瀬に連れられて行った、あの路地裏の喫茶店。
食欲をダイレクトに刺激する香ばしいケチャップの匂い。たっぷりの具材が太めの麺に艶やかに絡み、その上から惜しみなく振りかけられた粉チーズ──一度思い出すと、もうそれ以外は考えられなくなってしまった。
「……ここで、合ってるよな?」
心細さから、つい独り言を漏らしてしまう。
恐る恐る路地裏に踏み入れ、記憶を頼りに細い路地を曲がると、見覚えのある重厚な店構えを見つけてホッとする。
ひとりで入るのは勇気がいるけれど、空腹と好奇心に背中を押された。
カラン、と乾いた鈴の音を響かせてドアを開けた。
店内には他にお客さんの姿はなく、白髪のマスターが、カウンター越しに「いらっしゃいませ」と穏やかに迎えてくれた。
「お好きな席へどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
モゴモゴと挨拶を返し、以前座った席へ向かおうとして、レジ脇の小さな棚に目が吸い寄せられる。
前に来たときも気になった販売スペース。やっぱり、全体的に雰囲気が良い。
アンティークな置物やポストカードも良いが、中でも目を引くのは、鈍い光を放つシルバーアクセサリー。ピアスや指輪──おそらくハンドメイドなのだろう。同じ形状かと思いきや、ひとつひとつに違いがあり、その歪さすらも心地よい温かみに思える。
──黒瀬がつけてるのと、雰囲気似てるんだよな。
「気になりますか?」
マスターが柔らかく話しかけてくる。
「あ、は、はい。その、どれも目を引くというか……素敵なデザインだなって思って」
触れるのは憚られて、顔を近づけてじっくりと観察する。量産され、整えられた物とはまた違う。いずれも独特の存在感があり、どれも目を引く。
「その感想を伝えたら、きっと喜ばれますよ」
「え……」
「誰に?」と問うより先に、カランとドアベルが鳴った。
現れたのは、黒瀬だった。
彼は軽く目を見開き、こちらを凝視した。
「いらっしゃいませ」
黒瀬はマスターの声に軽く会釈を返すと、吸い寄せられるように俺の隣へ歩み寄ってきた。
「……気になる? それ」
「──うん。置いてあるの全部良い雰囲気だけど、この辺のシルバーアクセ、特に好きだなって」
「……ふぅん」
「ひとつひとつ違うのに、根っこの部分は繋がってる感じがする。同じ人が作ったんだろうな。……繊細で、どこか近寄りがたい鋭さもあるけど、不思議と温かくて……俺、好きだな、このデザイン──」
長々と語ってしまってから、唐突に我に返った。
「──って。ご、ごめんっ。俺、全然詳しくないのに、えらそうに……」
黒瀬はというと、不機嫌な顔をするでもなく、俺の動向を注視していた。射抜くような強い眼差しに一瞬ビビるが、そこに責める色はなかった。
黒瀬の耳元で揺れる銀のピアスが目に入る。──うん。やっぱり似てる。
「……黒瀬のつけてるのと、似てるよな。もしかして、ここで買った?」
「…………」
問いかけると、黒瀬は急に視線を逸らして黙り込んでしまった。口元を片手で覆い、何かを必死に堪えている。そして、白い肌に浮き出た耳の先端が、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「く、黒瀬……?」
何か、触れてはいけない話題だったのだろうか。不安になった俺の耳に、密やかで上品な笑い声が届いた。
「実はそちらのアクセサリー、黒瀬さんが製作されたんですよ」
「……えっ……!?」
衝撃に、思わず黒瀬の顔を見上げ、至近距離で覗き込んでしまった。
「ま、マスター!」
黒瀬が裏返った声を上げる。
けれどその瞳に怒りはなく、顔中を林檎のように赤くした彼は、いつもの鋭さが嘘のように、年相応の幼い表情で立ち尽くしていた。

