『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

「眠れない人向けの内容? 元々『HAKU-shion』の配信は、安眠導入がメインじゃない?」

 俺は帰宅するなり、早速紗枝に相談した。
 リビングでくつろいでいた彼女は、不思議そうに小首を傾げている。
 俺は脳裏に焼き付いた黒瀬の微かな隈を思い出しながら、必死に言葉を紡ぐ。

「もっと深く、沈むみたいに眠れるように……さらに『睡眠』そのものに特化したいっていうか……」
「なるほど。いつもはシチュエーション重視で、安眠導入はサブメインって感じだけど、今回は『寝落ち』のみにフォーカスするってことか。いいかも、面白そう」
 紗枝が乗り気になってくれたのを見て、俺は自分の提案が受け入れられたことに胸をなでおろした。

「──で? 何かあった?」
 ホッとしたのも束の間。
 気づけば、紗枝の瞳が逃がさないとばかりに俺を射抜いていた。
「な、何って……」
「アンタがそんな前のめりなの、珍しいし」
 ギクリと肩を揺らした俺を見て、紗枝は確信したようにニヤリと笑う。
 ──そもそも、配信に関わることも色々あったし、言っておかないとだよな。

 俺は観念して今日までの経緯をざっくりと説明した。
 正体が黒瀬にバレてしまったこと、彼が初期からのリスナーで、深刻な不眠に悩んでいそうなこと。

「ありゃ、バレちゃったんだ」
「うっ……ごめん」
「や、アンタが良いなら謝んなくていいよ。その黒瀬くんって子、問題ないんでしょ?」
「……うん」

 最初の方こそ──黒瀬曰く『頭が真っ白になって』──暴走気味ではあったが、それ以降は配慮の方が目立っている。『HAKU-shion』の正体を言いふらすどころか、今日だって、周りの生徒のようにスルーしたって良かったのに、俺を助けてくれた。
 黒瀬は、俺の「声」だけじゃなくて、俺という人間そのものを尊重しようとしてくれている──そんな風に、つい期待してしまいそうになる。

「でも、たったひとりのために内容を偏らせるのって、良くないかな」
 助けてくれたお礼の意味もあったが、いち配信者として、私情を挟むことにどこか後ろめたさもあった。
「そんなことないでしょ。今までだって、たくさんリクエストに応えてきたんだし」
 それに、と紗枝が不敵に笑う。
「『不特定多数の誰かへ』放つ言葉より、『ただひとりに向けて』届ける言葉の方が、よっぽど心に響くでしょ」

 ただひとりに……黒瀬に向けて。
 生身の相手を意識して、声を届ける。

「──改めて考えてみると、いつもより緊張するかも……」
「いつは『ニナ』に向けて言ってるもんね」
 紗枝がそう言うと、足元で自分の名前を呼ばれたと思った飼い猫のニナが、「にゃ」と短く鳴いて顔を出した。俺はニナを抱き上げ、その柔らかな背中を撫でてやる。

 ASMRの台本は……というか、すべての台本がそうだと思うが、具体的な相手が思い浮かばないとどうしても棒読みになりがちだ。
 当然俺に、俺に甘い台詞を囁くような特定の相手がいるわけもなく……だから俺はいつも、この愛猫に語りかけるように、慈しみを込めてマイクに向かっていた。
 でも、今回は──。

「よし! じゃあ、早速作ってみるね! とびきり深く眠れるやつ……腕が鳴るわ!」
 紗枝は勢いよく腕まくりをすると、「楽しみにしててね」と、足早に自室へ引っ込んでいった。


 配信は週に一度。日曜の夜十時。
 ──開始五分前、俺はマイクの前で、かつてないほどの緊張で震えていた。
 少しでも落ち着こうと、印刷した台本を何度も目で追う。紗枝が書き上げてくれた台本は、とっくに頭に入っている。それでも、読み返さずにはいられない。

 時計の針が十時ちょうどを示し、配信の幕が上がる。
 俺の配信に、フリートークはない。そんな器用な真似はできないからだ。
 緩やかな専用BGMが数秒。続いて、シチュエーションに適した環境音が続く。
 配信タイトルは、『眠れないあなたへ』

 俺は一度目を閉じ、肺の奥まで空気を吸い込んだ。覚悟を決め、マイクへと唇を近づける。

『──まだ、目が冴えてる?……いいよ、無理しないで。大丈夫。今は何も考えなくていい。君が眠れるまで……ううん、眠ってからも、ずっとそばにいるから。安心して』

 マイクに触れそうなほどの至近距離。
 脳裏に描くのは、ニナの柔らかな毛並みではない。

『僕の声だけ聴いて』

 ただひとり。
 教室の右隣で眠たげな目を擦る、あの横顔。

『……ゆっくり、僕の呼吸に合わせて、息を吐いてみて』

 彼が今夜こそ、少しでも深い安らぎを得られるようにと、俺は祈りを込めて声を出し続けた。