『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 昨日の夕暮れ、あの喫茶店で感じた暖かな空気は、一晩明ければ夢のようにすら思えた。

 教室の窓から差し込む朝の光は、昨日と何ら変わりない。
 俺はマスクの奥で、欠伸をかみ殺した。 

 黒瀬は始業ギリギリに現れた。いつも通り、気怠そうに。
 そうしてクラス中の視線を自然と集めながら、自分の席につく。見つめるでもなく巡らせていた視線が黒瀬と合った瞬間、彼はほんの少しだけ顎を引いて挨拶のような仕草を見せたが、すぐに視線を逸らした。
 それ以上の接触はなかった。

 黒瀬は相変わらず、教室の中心で唯一無二の、圧倒的な存在感を放っていて。
 俺は相変わらず、教室の隅で背景に溶け込む、地味で陰気なモブの生徒。

 昨日、ふたりで静かに過ごしたのが何かの間違いだったのではないかと思えるほどに、世界は「いつも通り」の形を取り戻していた。

 授業の間、俺は開いたままの教科書を見つめながら、今朝のリビングでの光景を思い出していた。
 寝癖のついた頭でトーストを齧りながら紗枝が、『次のASMR配信の台本、どうしよう~。これ! っていうのが浮かばなくてさ。何か案ない?』とぼやいていたのだ。
 推し進められた結果の活動ではあるが、いつも姉に頼りきりではいけない。
 俺はそっと、右隣に──黒瀬に視線を向けた。

 ──こんな俺の声を、良いと言ってくれる人がいる。

 今まで、曇りガラスの向こう側にいるような現実味のない存在だった『リスナー』が、黒瀬という実体を得たことで、急にリアリティを感じられるようになった。
 少しでも、彼らに満足してもらえる配信にしたい。

 ……けれど、そう前向きに考えようとするたび、昨日のことがノイズのように脳内を駆け巡る。
『もっとはっきり喋れ、気味悪いな』
 その声が呪いのように耳の奥で反芻され、思考は泥沼に沈むように落ち込んでしまう。


 結局、何も決まらないまま放課後のチャイムが鳴った。
 重い溜め息を吐き出し、逃げるようにスクールバッグを肩にかけ廊下に出た、その時だった。

「あ! ちょうどいいとこに。藍沢、ちょっといい?」」

 俺を引き止めたのは、同じクラスの男子数人だった。
 普段なら俺になど見向きもしない彼らが浮かべているのは、親愛とは程遠い、歪な打算の混じった笑み。

「日直の仕事、やっといてくんね?」

 彼らは日直の仕事──課題の束の運搬や学級日誌の記入だけに留まらず、図書室から借り出したままだった大量の参考書籍、特別授業で使った視聴覚機材の返却など、一日かけて溜め込んだと思しき雑務のすべてを、俺ひとりに肩代わりさせるつもりなのだ。

「藍沢、帰宅部だろ? 俺ら、これから部活あってさ~、お前と違って忙しいんだわ」

 廊下を通り過ぎるクラスメイトたちは、一様に足早だ。面倒に巻き込まれたくないと言わんばかりに、不自然なほど顔を背けて去っていく。
 俺だって、本当に困っているなら手伝う。
 けれど、彼らの態度は明らかに、御しやすそうな奴を弄んでいるそれだった。

「……いや、だから……」
 断ろうとして、声が喉に引っかかる。ただでさえ小さな声が、焦りでさらに細くなった。

「は? 何? 聞こえねーんだけど」
「もっとはっきり言えって、藍沢~」
 ニヤニヤと顔を近づけてくる彼らに、昨日の通行人の声が重なる。

『何言ってっかわかんねえよ。もっとはっきり喋れ』

 ──ああ……ホント、最悪。
 言葉が喉の奥で渋滞し、熱を帯びる。言いたいことはあるのに、音にならない。
 俺はうまく言い返すこともできず、ただ視線を地面に落として俯くことしかできなかった。

「何してんの」

 ……低く、冷え切った声が廊下に響く。クラスメイトたちの嘲笑が、一瞬で静まり返った。
 切り裂くようなその響きに、俺は伏せていた視線をゆっくりと上げる。

「藍沢、嫌がってるじゃん」

 ──黒瀬だった。

 彼はいつも以上に不機嫌そうに目を細め、彼は俺たちを囲んでいた男子グループを、射殺さんばかりの鋭い眼差しで見据えていた。

「……あ、ああ、黒瀬か。びっくりした」
 一瞬で凍りついた場の空気に、男子の一人が引きつった笑いを浮かべる。居心地の悪さを誤魔化すように、早口で言葉を繋いだ。
「藍沢、暇だから日直の仕事やってくれるって」

 ──そんなこと一言も言ってない……!
 俺は慌てて首を振る。マスク越しの、か細い息のような声で「言ってない」と唇を戦慄かせた。
 当然、周囲のクラスメイトたちにその拒絶の声は届いていない。

 けれど。

「──『言ってない』って」

 黒瀬の耳だけは、それを聞き逃さなかった。

「ってか、誰がどう見ても嫌がってるの、わかるでしょ」
 黒瀬の声は、氷のように冷たい。彼の見た目の印象そのままに、研ぎ澄まされた刃の先端を突きつけているかのような鋭さがある。
「いや、でも藍沢は帰宅部だし……ホラ、モヤシくんはちょっとは体動かした方がいいかなって親切心で……」
「俺も帰宅部だけど」
 さらりと言ってのける黒瀬に、相手は言葉を詰まらせる。
「く、黒瀬は、忙しいだろ。その、色々……」
「暇してるけど?」

 一歩、黒瀬が踏み出す。
 普段から彼の目つきは鋭いと思っていたが、それは生まれ持った造形が鋭利なだけで、普段はむしろその刃を鞘に収めているのだと、今この瞬間に理解した。
 本気で剣呑な気配を纏った彼の眼差しは、ただ視線を向けるだけで相手の思考を凍りつかせ、その魂までをも真っ向から刺し、射抜くような、逃げ場のない圧を秘めていた。

「……あっ、いや! やっぱいいや、自分らでやるわ!」
 黒瀬の放つ威圧感に耐えきれなくなったのか、彼らは蜘蛛の子を散らすように、慌てて重い機材やプリントの山を回収して退散していった。

 静かになった廊下で、俺は小さく息を吐き出す。
「あ、ありがと……」
「気にしないで」
 黒瀬は短く答えると、去っていった連中の背中を、先ほどの鋭い眼光の残滓を宿したまま忌々しそうに見送った。
「あいつら、藍沢が強く言えないからって──」
「い、いいよ、そもそも俺が……はっきり話さないのが悪い」
「悪くないでしょ、全然」

 当然だというように放たれた言葉は、先ほどまでの冷徹な響きとは違い、驚くほど穏やかで温かかった。

 張り詰めていた空気が霧散していく。
 黒瀬が、くわっと大きく欠伸をした。その仕草に、先ほどの剣呑さはどこにもなかった。

 いつも気怠げで眠そうな彼だが、よく見ればその目元は、微かな陰りを帯びている。
 ……整った顔立ちゆえに、その陰りすらどこか退廃的な色気のようにすら思えてしまってから、いや、これは隈だと思い直す。
 黒瀬の顔をまじまじと見たことなどなかったから気づかなかったが、昨日今日でできたものではなさそうだ。

 黒瀬はよく遅刻をしている。いつも、ひどく眠そうな顔をしながら。
 これまでは──失礼ながら「素行不良」というレッテルと一緒に片付けてしまっていたけれど、思い返してみれば、黒瀬は遅れてでも必ず教室に現れるし、一度でも顔を出せば、その後の授業を抜け出したりサボったりするところを見たことがない。
 見た目は校則違反のオンパレードだが、彼なりに学校へ通い、授業を受ける意思はあるように思えた。

 これまでは黒瀬の遅刻を、単なる夜遊びの結果だと決めつけて深く考えもしなかった。「素行不良」の名目の元で。
 けれど、最近の交流で知った彼は思っていたよりもずっと真っ直ぐで、内面まで擦れているようには見えなかった。

 単純に、朝来たくても来られないんじゃないか。

 ──もしかして、夜、まともに眠れていないから、とか。
 朝が来ても体が動かない──そんな、本人にもどうしようもない理由があるのではないだろうか。

 俺はそんな勝手な憶測を立てた。

「……黒瀬、その、もしかして、あんま、寝れてない……?」
「前よりずっとマシ」

 ──前より?
 俺が質問を重ねるよりも先に、黒瀬はトントンと、自身の耳にあるワイヤレスイヤホンを指先で示した。その振動で、ピアスのシルバーチェーンが緩く揺れている。

「おかげさまで、ちょっとは眠れてる」

 わずかに口角を上げ、満足げにそう告げた彼は、そのまま「じゃあ」と短く手を振って去っていく。
 俺はそれを、呆然と見送った。

 ──『おかげさまで』って。
 つまり……『HAKU-shion』の配信を聴くことで、少しは眠れるようになった、ということだろうか。
 何というか、むず痒い気持ちになる。

 ……けれど、『前よりずっとマシ』ということは、まだ根本的な解決には至っていないということで。
 俺は専門家でもないし、大層なことは言えない。けれど。

 可能な限り、深く、心地よく泥のように眠れるような音が届けられたら。
 そうすれば黒瀬の『前よりずっとマシ』な眠りが、『今より更にマシ』になる明日が来るかもしれない。

 ──次の台本のテーマ、紗枝に相談しよう。

 俺はスクールバッグの持ち手を強く握り締めると、駆け出すような足取りで校門へと急いだ。