『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

「──ま、マジ……?」
「マジ。そればっかってか、それしか聴いてない」
「……その……上級者すぎない?」
「音漏れしないヤツだし」
 そうであってくれないとあらゆる意味で困る。

 黒瀬は『HAKU-shion』のことを『推し』と呼び、『最古参』を自負していた。
 そんな熱心なリスナーが、実在し、それもクラスメイトで、隣の席の男子生徒──色んな意味で規格外に思えた。

「同性が……えと、ああいう配信視聴するの、珍しくないか?」
 偏見と言われればそれまでだが、実際に数値としても表れていた。紗枝が見せてくれたアナリティクスでは、リスナーは圧倒的に女性が多かったのだ。
「異性だろうが同性だろうが、良い声は良い声じゃね」
 黒瀬は、まったく迷いのない口調で断言した。
「確かに紗枝も同じようなこと言ってるけど……」

「──『サエ』……?」

 不意に、周囲の空気がピリつく。な、なんだ?
 黒瀬の眉間に皺が寄り、誰だ、とでも言いたげな剣呑な雰囲気に、俺は慌てて補足した。
「……俺の、姉だけど」
「──あぁ」
 途端に、黒瀬の肩から力が抜け「なるほど」と空気を緩めた。
 今のピリつきは何だったんだ。不思議な思いで黒瀬を見ると、決まり悪そうに視線を逸らし、少し拗ねたように唇を尖らせていた。
「……言っとくけど、俺、ガチ恋とかじゃなくて」
「いや、そんな勘違いはしてないけど」
「別に恋人とかいてもいいし、それ承知で聴いてるからいいんだけど」
 ──コイツ。雑談配信の内容、ガチで覚えてるな。

 以前、たった一度きりの配信で答えた、『恋人の有無』についての質問への回答。

『恋人がいてもいなくても、わざわざ公表したりはしない。だって、俺がいくら「いない」って言っても、信じない人は信じないから。だから、それを前提に、聴いてくれる人だけ聴いてほしい』

 ──陰キャ野郎が何をイキった発言をと我ながら思うが、こちらにもそれなりの言い分があった。
 紗枝が言うには質問箱は、恋人の有無を問う内容で溢れ返っていたそうだ。どうしてそう思い至ったのか、特定の誰かの影を勝手に読み取って一喜一憂する人たちすらいた。

「ガチ恋も視野に入れる?」と訊ねてきた紗枝に、俺は首を振った。
 俺なんかのプライベートに夢を見せてしまう申し訳なさもあったし、そもそも、言葉で否定したところで、疑う側の心までは縛れないという諦めもあった。
 結果、「誰が隣にいてもいなくても、ただこの声を聴きたいと思う人」に配信を届けることに決めた。
 その上での回答だった。

 黒瀬はまだ少し口を尖らせたまま、
「ただ、悪い女に騙されてたらヤだなって」
 そう、ボソリと独り言のように零した。
「わるいおんな……」

 ──紗枝。どうかな。いい面の方がたくさんあるけど。
 脳裏に、勝手にネットにアップして、今なお弟の生活を振り回している姉の顔が浮かぶ。
 状況だけ見れば、俺を『騙して(あるいは言いくるめて)』この世界に引きずり込んだ張本人であるからして……。
 いや、それでもずっと俺を心配してくれている、大事な姉であることには変わりない。
 俺は、紗枝が『悪い女』かどうかの判定を下すのを、そっと放棄した。

 その後は、運ばれてきた料理を口に運びながら、ポツリポツリと断続的な会話が続いた。
 大盛りのナポリタンを綺麗に平らげる黒瀬を横目に、俺もゆっくりとケーキを味わう。不思議なほどリラックスしていた。言葉が詰まることも、沈黙に耐えられなくなることもない。
 穏やかな空間に感化されたのか、それとも目の前の男が放つ空気に毒気を抜かれたのか。

「ここ、静かでいいでしょ」
 ふと、黒瀬が窓の外を見やりながら呟いた。
 いつの間にか、窓の向こうは街灯の灯りに切り替わっている。オレンジ色の光に照らされた黒瀬の横顔は、色素の薄い髪や、耳元で静かに光るいくつものシルバーピアスと相まって、どこか現実離れした美しさがあった。
 ……黒瀬への、近寄りがたさがゼロになったわけではない。
 けれど、以前抱いていたような「何やら危険そうな男」という勝手な印象からの恐怖は、以前ほど感じなくなっていた。


「ごちそうさま」
「どーいたしまして」
 会計を済ませ、店を出る。
 夜の帳が下り始めた路地裏から、大通りへ出ようとしたその時だった。黒瀬が足を止め、こちらを振り返った。

「藍沢の声、『よく聞こえない』って、俺が言ったの覚えてる?」
「……」

 ──『よく聞こえない』
 昨日の、黒瀬の突き放すような……責めるような言葉を思い出す。マスク越しの息が、詰まりかける。

「よく聞こえないの、もったいないって思って言ったんだけど、言葉足んなすぎだし」
 黒瀬の瞳には、後悔の色が滲んでいた。
「俺のそういうとこ、負担になってたでしょ……ごめんね」

 ……あれは、非難の意図はなく、惜しく思っていてくれたのか。
 返答に窮している中、黒瀬は無理に、俺の返答を強要しなかった。

「今日、飴ありがと。マジで助かった」
 黒瀬は「それから」と言葉を続けながら、ひとり、大通りに足を踏み入れた。
「俺ホント、普段の藍沢の声も、良いって思ってるから。……それだけ」

 じゃあ、と短く告げて、彼は背を向けた。
 あっという間に人混みに紛れていく。

 ──黒瀬瑛理。
 見た目の印象よりずっと穏やかで、案外、言葉選びも柔らかい。大型犬の子犬のような、妙な愛らしさすらある。……それでも。

 きっと、こんな風に深く関わることは、もう二度とないんだろう。

 そんな予感と共に、俺も大通りへ足を踏み出した。
 ……その直後だった。

「っと、あぶねえな!」
 急ぎ足の通行人と肩がぶつかり、俺の体は大きくよろめいた。
「……す、すみま、せ……」
 咄嗟に謝罪の言葉を漏らした俺に、その男は心底不快そうに顔を歪めた。
「あ? あんだよ、何言ってっかわかんねえよ。もっとはっきり喋れ、気味悪いな」
 そのまま男は、不愉快さを隠すことなく去って行く。
 吐き捨てられた言葉が、冷たい夜風と共に俺に突き刺さる。

 黒瀬は『藍沢奏』のことも肯定してくれた。
 けれど、それはきっと──彼の中に『HAKU-shion』という輝かしいフィルタがあるから、いいように見えているだけじゃないかな。

 化けの皮が剥がれれば、やっぱり俺は、誰の耳にもまともに届かない声を漏らすだけの、陰気で不気味な人間だ。

 急速に心が冷えていくのを感じながら、俺はズレかけたマスクを、これ以上何も漏れることのないように、しっかり付け直した。