『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 この辺りで飲食となると、自ずと選択肢は絞られる。
 俺たちはごく自然な流れで、駅の方角へと歩き出した。

 ──というか。
 誰かと一緒に帰路につくなんて、一体いつ以来だろうか。
 そんな緊張もあり、俺は半歩だけ、黒瀬の斜め後ろに位置取ってしまっている。
 彼の広い背中を視界の端に置いている方が、いくらか呼吸がしやすく思えたからだ。

「藍沢って、あんま喋りたくない人?」

 不意に投げかけられた問いに、俺は喉の奥を詰まらせた。
 確かにそれは、正解とも言えた。

 けれど、マイクの前で言葉を紡いでいる人間が「喋りたくない」などと言うのは、矛盾も甚だしいだろう。どう答えたものかと躊躇していると、
「喉大事にしないとだし、そりゃそうか」
 黒瀬は俺の沈黙を勝手に解釈し、深く頷いた。
「……っ、ち、違う」
 あまりにポジティブすぎる誤解だ。断じてそんな、高尚な理由じゃない。
 俺は俯き、マスクの下で唇を噛み、消え入りそうな声で本音をこぼした。

「……そういうんじゃなくて、面と向かって……人の、目の前で、声、出すの……苦手で……」

 くぐもった声は、夕暮れの街の喧騒に溶けてしまいそうだった。
 黒瀬が流し目を向けてくる。その瞳に宿る感情は読み取れない。
 ──また、「聞こえない」って言いたいのかも。
 俺は陰鬱な気持ちで、スクールバッグの持ち手を強く握りしめた。

 重苦しい沈黙が降りようとした、その時。
「──今から行く店、俺が決めていい?」
「え」と思う間に、ぐい、と制服の袖を引かれた。

 駅が近づくにつれて増していく人波を避けるように、黒瀬は「こっち」と、迷いのない足取りで路地裏へと踏み込んでいく。
 普段の俺なら絶対に足を踏み入れない、街の血管のような細い通り。黒瀬は躊躇なくその奥へと進んでいく。

 ──や、やばい店だったらどうしよう……ってか、テイクアウトとかじゃなくて、もしかして、一緒に食べる流れか……?
 ぐるぐると思考が渦巻く。
 そんな俺の混乱などどこ吹く風か、黒瀬はどんどん路地の深みへ入り込み──そして、入り組んだ角を曲がった先。一軒の店の前で、ぴたりと足を止めた。
 そこは、アンティーク調の重厚な扉を構えた、こじんまりとした喫茶店だった。
 
 カラン、と乾いた鈴の音が店内に響く。
 中は外観から想像するよりずっと奥行きがあり、磨き抜かれたカウンター席のほかに、深い深いワインレッドのベルベット生地が張られたソファ席がいくつか並んでいた。数人の先客がいるようだが、話し声はどれも囁き声のように控えめで、内容までは判別できない。
 時折生まれる沈黙を埋めるかのように、緩やかなジャズの旋律が流れている。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの向こうで、白髪のマスターらしき男性が、穏やかに声をかけてきた。

 ふと、レジの傍らに設けられた小さな棚が目に入る。ポストカードや小物が並ぶ販売スペースのようだ。木彫りの置物、独特な曲線を描く指輪やピアス──。

「藍沢、こっち」
 黒瀬に促され、俺たちは一番奥のソファ席へと腰を下ろした。
 他の客からは死角になるような位置で、優しい隔離感があった。窓から差し込む西日が、古いテーブルの木目をほの赤く染めている。
 黒瀬は、俺の斜め前の席に腰を下ろした。

「何頼む? 何でもいいよ」
「え、えぇっと……」
 渡されたメニューを開く。空腹ではあったが、あまり高いものを強請るのもさすがに気が引ける。俺は、本日のおすすめと書かれたケーキセットを指差した。
「足んなくない?」
 もっと頼め、と暗に促す黒瀬に、俺は小さく首を振る。
「返ったら、夕飯あるし」
 確かに遠慮もあるが、実際、これ以上食べると入らなくなる恐れがあった。……姉の紗枝に「せっかく作ったのに!」と小言を言われるのは勘弁願いたい。
「……ふぅん」
 黒瀬は、感情の読み取れない声音で言葉を返し、「じゃあ、俺は大盛りナポリタンのセット。あと、カツサンドと卵サンドも、単品で」と、そこそこワンパクな内容に決めていた。

 黒瀬が手を挙げてマスターを呼ぶ。そのまま流れるように、俺の分のケーキセットも注文してくれた。
「セットのお飲み物はどうされますか?」
「藍沢、どうする?」
「あ、え、っと、コーヒーで」
「俺は、コ──、」
 言いかけて、黒瀬の手がぴたりと止まった。
 メニューの上で指先がふらふらと行き場をなくしたように彷徨う。
「いや、俺もコーヒーで」
 ……何か遠慮したのだろうか。
 とはいえ、奢られる身で大層なことは言えない。無理をしてないといいけど。

 マスターが下がると、黒瀬は淀みない動作で鞄からイヤホンケースを取り出した。
 蓋を開けようとしたところで「あ」と決まり悪げに動きを止める。
「……ごめん。いつものクセで」
 そういえば、学校でも隙あらばイヤホンをしていることを思い出す。
 外界を遮断するのが、彼にとってのデフォルトなのだろう。

 ほどなくして、良い匂いと共に、湯気を立てたコーヒーが運ばれてきた。
 サービスで添えられたクッキーに黒瀬が指を伸ばす。俺もマスクを外し、同じようにクッキーを手に取った。

 窓の外に視線をやる。
 本来なら、対面の相手と会話を繋がなければならないこの状況は、俺にとって苦痛でしかないはずだった。なのに、不思議と喉の奥が強張らない。
 店内に流れるジャズの調べや、マスターの淹れるコーヒーの香り。
 そして何より、目の前の男が放つ、どこか不器用で穏やかな気遣いの空気がそう思わせるのだろうか。

 ──「人前で声を出すのが苦手」と言った俺の拒絶を、黒瀬は否定しなかった。単にリアクションに困っただけかも知れないが、少なくとも『否定されなかった』という事実が、驚くほど俺の心を軽くしていた。

「…………いつも、何聴いてるんだ?」
 自分でも不思議に思うほど自然に、言葉がこぼれた。
 学校でも、喫茶店でも。黒瀬は何を聴いてるのだろう。流行のアーティストだろうか、あるいは俺の知らないような洋楽だろうか。
 黒瀬はクッキーを口に運ぼうとした手を止め、ポツリと、本当に小さな声で答えた。

「……配信のアーカイブ」
 誰の、とは言わなかった。その『言うまでもないでしょ』という視線がすべてを物語っていたからだ。俺はコーヒーを吹き出しかける。

 ──コイツ、学校でも喫茶店でも。ASMR配信を……!?

 黒瀬のほんの少し赤く染まった耳が、それを肯定していた。