『ガチ恋ではない』と彼は言うけれど 〜隣の席の鋭利な一匹狼は、俺の声に心酔する古参リスナーでした〜

 急遽自習となった教室は、当初こそ紙やペンの音のみだったが、そうしない内にひそひそとした囁き声が満ちていった。

 高校一年生とはいえ、十月にもなればクラスという集団に緊張感は残っていない。自習という名の自由時間を謳歌し始める生徒が、徐々に増えていく。

 俺は頬杖をつき、口元を覆う黒いマスクの角を指先でなぞる。
 このマスクはもちろん、前提として衛生用品である。それでも俺にとっては、喉の奥に潜む不気味な『音』を外に漏らさないための防壁でもあった。

 窓際の一番後ろ。
 ある意味で最も外界に近く、最も誰の視界にも入りづらいここが俺の席だった。

「──あ、わり。藍沢、それ取ってくんね?」

 唐突な声に肩が跳ねる。数メートル先で男子たちがふざけ合っていた。俺の机の傍には、小さく欠けた消しゴムが落ちている。
 俺は無言でそれを拾い、軽く放って相手に返す。

「おー、サンキュ。……ってかアイツ、マジで喋んねーのな」
「やめろって。藍沢くんおとなしいんだからさ」

 ケラケラとした笑い声。俺は反応せず、再び教科書に視線を落とした。喋らなければ、誰にも気づかれない。
 声さえ出さなければ、俺はただ根暗なだけの『藍沢奏』でいられる。……自分の呼吸音すらノイズに感じて、眉間に自然と皺が寄った。

 ガラリ、と。唐突に扉が開く。
 教室のさざめきが一瞬で止まり、暴力的なまでの静寂が満ちた。

 扉を開けたのは、ひとりの男子生徒だった。遅刻も何のその、気だるげに入ってくる姿に、いわゆる一軍の生徒たちが安堵して軽く言葉をかけ、それ以外の生徒は近づきがたい毒気に当てられたような緊張感で、彼の背を視界の端で追っていた。

 ──黒瀬瑛理。

 制服をラフに着崩し、両耳に耳たぶから軟骨まで、いくつもシルバーピアスを突き刺した派手な容姿。すらりとした長身は筋肉質ではないのに、異様な威圧感がある。
 冬の月光を透かしたようなプラチナベージュの髪はどこか浮世離れした冷たさを湛え、耳元で主張する鈍い銀の輝きを一層引き立てていた。目つきは鋭く、見る者を拒むかのようだ。

 彼は、いわゆるスクールカーストにすら属していない。頂点でも底辺でもなく、ただ圧倒的に『異質』なのだ。

 誰とも群れない彼には、常に黒い噂がつきまとっていた。中学時代は海外。それ以前も他県。地元の繋がりが完全に欠落していることが、彼をいっそうミステリアスに仕立てていた。「怪しい繋がりがある」「危険なバイトをしている」──そんなフィクションめいた風聞さえも、彼の射抜くような視線を浴びれば「もしかしたら」と思わされるだけの凄みがあった。

 クラス内どころか、学校内で最も恐れられてると言っても過言ではない。

 俺とは、明らかに住む世界が違う。
 正直に言ってしまえば怖い。一番関わりたくない人物だった。

 黒瀬は急ぐ様子もなく、自身の席にやってくると周囲の密やかな注目など意に介さず腰を下ろした。
 俺はそれを、気づかれぬよう横目で見ていた。
 ──そう、黒瀬の席は、俺の右隣だった。

 視界の端で、黒瀬の耳たぶと軟骨を繋ぐ細いシルバーチェーンが揺れた。
 シャラ、と。
 冷たい銀の鎖が擦れ合う音が、俺の耳に直接流れ込んできた気がした。

 黒瀬は色素の薄い髪を耳にかけると、ワイヤレスイヤホンをねじ込んだ。流れるような動作でスマホをタップすると、耳元の銀が揺れる。そのまま目を閉じ、深い眠りへと潜っていく。

 それは、明確な拒絶に見えた。
 この教室に満ちるさざめきも、俺という隣人の存在も。
 彼にとっては、すべて耳を塞いでやり過ごすべきノイズに過ぎないとでも言うように。

 ──って。何を勝手に詩人になってるんだ。
 俺はマスクの奥で溜め息を吐き出し、とっとと自習を終わらせるべく教科書をめくった。隣からは規則的な呼吸音が、さざめきを取り戻した教室の隙間を縫うように聞こえてくる。

 ページを無造作にめくった指先が、不自然な厚みを捉えた。パラリと開いた隙間から、三つ折りにされたプリントが覗く。紛れるように差し込まれたそれを、俺は恐る恐る、ほんの少しだけ折り目を解いた。

『雨の日の密やかな誘惑(HAKU-shion用・決定稿)』

「……っ」

 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
 それは先日、姉の紗枝から渡され、既に配信で読み上げた台本だった。

 ──『ねえ、そんなに震えて……寒い? それとももしかして、俺のせい?』
 ──『怖くないなら、もっと近くに来て』

 作成した紗枝は「全然過激じゃないでしょ」と得意げだったが、そういう話ではない。全体的にとにかく甘ったるいのだ。

 これ、本当に俺が読んだのか?
 それが素直な感想だった。

 ──俺には、誰にも言えない秘密がある。