草創館に帰ってきて、なにげなくリビングを覗いた花崎先輩は驚いたような声をあげた。
「どうしたの、夜津。こんな朝はやくから」
「……花崎先輩……」
俺は腰を浮かせた。そこで先輩がトレーニング着姿で首にスポーツタオルをかけていることに気づく。
先輩は汗を拭きながら「ごめん、先にシャワー浴びてきていい?」と言ってきた。
「ランニングですか?」
「うん。部活はもう引退したんだけど、朝走らないと調子でなくて」
「先輩の部活って……」
「剣道部。……竹刀背負って帰ってくるところ、夜津も見たことあるはずなんだけどね?」
嫌みっぽい言い方ではなかったけど、花崎先輩が所属していた部活さえ知らなかったのかと思うといたたまれなくなった。そして、自分はこれからそのひとに昨夜の奇妙な出来事について相談しようとしている。
すみません、とうつむくことしかできない。
「いいよ、気にしてない。もう朝ごはん食べた? まだなら一緒に食べよう」
今日の朝食はトーストとベーコンエッグだった。食欲がなかったから俺はインスタントのコーヒーだけにした。
先輩の皿がからになってから俺は言った。昨日、だれかが部屋のドアをノックする夢と溺れる夢を見たこと。夢のはずなのに部屋の入り口付近が濡れていたことを。
先輩をからかうなと一蹴されてもおかしくなかった。もしくは、夕斗を失った俺がおかしくなって幻を見ているだけだと。
でも花崎先輩は真面目な顔で俺の訴えを聞く。
「――取りこわされたプールの霊……」
現場を見にいってもいい、と尋ねられてうなずく。
だけど、
「――なんで、」
俺の部屋のドア付近にあった濡れあとはきれいさっぱりなくなっていた。臭いもしなければ藻も存在しない。
――俺は幻覚を見ていた?
自分でも自分が信じられない。
動揺していると花崎先輩があごに手をあてた。そしてつぶやく。
「これは矴を呼ばなくちゃ」――と。
◇◇◇
「へえ。これはまたきれいに混ざってるね」
花崎先輩はだれかにスマホで電話をかけた。
十分後。やってきたのは金髪と青色の瞳が目立つ三年の先輩だった。身長は180以上ありそうだけど、本人の飄々とした雰囲気と細い体躯のおかげでそこまで威圧感はない。
矴吹と名乗った彼は、玄関まで出迎えた俺たちとの挨拶はそこそこに早速二階へいく。
そして俺と夕斗の部屋のドアを眺めて言った。これはまたきれいに混ざってるね、と。
「混ざってる?」と花崎先輩が聞く。ふたりは中学時代からの知り合いらしく、先輩の声には気安さがあった。
うん、と矴先輩はドアから目を離さずに応える。
「人間の無意識は繋がってるって話、聞いたことない?」と矴先輩。花崎先輩がちらっと俺を見たので自分が話しかけられているのだと気づいた。
「……なんとなくは。ユングでしたっけ」
「そうそう、集合的無意識。生まれや思想に関係なく人類は根っこの部分で繋がってるって話だね。さすが花崎から聞いてたとおり優秀だ。
――なぜか様々な国で似たようなかたちの話が伝わっている。英雄が悪を倒す冒険譚。試練を与えるシャドウ。アニマとアニムス。
これらの共通する要素はなぜ生まれたか? その答えが集合的無意識だとユングは提唱した。全員同じ塗り絵を与えられたようなものだね――塗る色は変わっても絵自体は変わらない。周りがどんなふうに色を塗っているかカンニングする必要もないってわけ。
でもさ、夜津くん。ひとつ気にならない?」
「なにがですか?」
「脳みそという器がある生者でさえそんなふうに繋がっているんだ。なら、器をなくした死者は? どんなふうに意識が繋がるんだろうね?」
返答に迷ったあと、「死んだら意識も消えるんじゃないんですか」と無難な言葉をえらぶ。ふつうはそうだねと矴先輩は横顔のままうなずいた。
「問題はふつうじゃなかった場合だよ。平家一族の話はわざわざ例にだすまでもないね――非業の死を遂げた人間は呪いとなる。何百年、何千年とかかっても晴れない呪いに。
現代だってそうさ。怨みの強さはかつて一族の滅亡をかけて戦った武士たちに遠く及ばないかもしれない。でもね、無念という気持ちは一緒さ。
ふつうに死ねなかった人間は呪いとなる。幽霊、って言ったほうがわかりやすいか。肉体を失っても魂は成仏できず、想いを残した場所に縛りつけられる。小松左京言うところの『影の国』にね」
「小松左京?」
日本の大御所のSF作家だ。祖父の書庫にも本があって、日本列島が沈むというスケールの大きい話ながら専門的な知識に裏づけされた文章はリアリティがあり、夢中で読みとおした記憶がある。
まさかこんなところで名前をだされるとは思わずぽかんとする。
「小松左京って……SF作家ですよね? 心霊現象とは真逆の科学的な話を書くひとじゃ……?」
「や、彼はホラー小説も書いてるよ。『牛の首』なんかは愛好家のあいだでも評価が高い。そして、SF作家と心霊現象が相性が悪いかというとそういうわけでもない」
「……?」
「コナン・ドイルが晩年、心霊主義に傾倒したという話は知っている?」
ホームズものを読めば巻末の解説にほぼ必ずと言っていいほど書かれていることだ。
「なんとなくは」と俺は答える。
「息子が亡くなったのをきっかけにはまったとか。降霊術とか、妖精の写真とか」
「そうだね。そしてそれを周りの人間たちは嘲笑した。もしくは批判した。または憐れんだ。息子の死を認められず、スピリチュアルなものに逃げたのだと」
「…………」
「でも意外だとは思わないかい? ドイルはご存じのとおり医者だ。無数の人間を救い、その何倍もの人間を看取ったはずだ。その経験を持ちながら、元軍医のジョン・H・ワトソンを語り手にしたホームズシリーズを執筆している。作中で人が死に、それを名探偵が鮮やかに解決する――人の死をおもちゃにしていると批判されることもある推理小説だよ。
それだけの精神力を持つ彼が果たして身内の死から逃げることがあるかな?」
「……どういうことですか?」
「俺は思うんだよ。ドイルは、ありのままを見てたって」
突飛な発言に思考が追いつかない。
ありのまま――死者の声も妖精も、ドイルがほんとうに見聞きしたことだったと?
「そんなの……」
「ありえない、とだれもが言う。そしてドイルの訴えを一笑に付す。
さて……それから百年後。ここに死者が視える日本人の作家がいる。彼はドイルが犯した過ちも知っている。先人の失敗をもとに、彼がしたことは――」
「真実を、はじめからフィクションとして書くこと……」
矴先輩はにこっと笑った。
「俺はそう考えているよ。小松左京の一部のホラー小説は、わかる人間に向けて書かれた注意喚起のようなものだった、ってね。
――『怨霊の国』は俺たちが暮らしている世界と、亡霊たちが暮らしている『影の国』はかさなりあっているという話だ。亡霊はいつもそこから俺たちを見ている……っていうね」
前置きが長くなったけど、と先輩は話を元にもどす。
「ここででてくるのがさっきの集合的無意識ってわけ。人類は無意識下で繋がっている。なら、『影の国』で暮らす死者は?」
俺はすこし考えてから言った。
「意識そのものが繋がっている……?」
「最高だ。俺の弟子になりなよ、夜津くん」
「……なんかいやです」
「フラれちゃった。――まあ、繋がるなんてかわいいものじゃないんだけどね。絵を描いたあとのバケツみたいに濁って混ざりまくる。分解もできないくらいに。
死者がそうなるとタチが悪いんだよ。親に虐待されて亡くなった子供と、山のなかで迷子になった結果だれにも見つけられずに亡くなった子供がいるとしよう。このふたりが混ざったとき、なにが起きると思う?」
「なにが起きるんですか」
「迷子になった子供を捜しにきた両親を襲うようになるんだ。
ただ、『親』に復讐するために。子供を必死に捜す『親』の呼びかけに応えるために」
「…………」
「死者は愛情も憎しみも混ざりあってしまう――だから怖いんだよ。マザリモノ、って俺たちは呼んでるんだけどね。呼応するなにかがなければ簡単には混ざらないとはいえ」
話が見えてきた。
昨夜現れた――夢ではないと仮定する必要はあるけれど――夕斗のノックの仕方を知っていて、濁った水を残していった幽霊。あれは……
「夕斗と、プールの霊が混ざったものだった……」
「そういうこと」
いざ言葉にするとショックだった。夕斗が成仏できず幽霊になっていることが。
昨夜は幽霊でいいから会いたいと思ったくせに。
「補足すると」と花崎先輩が口をはさむ。
「むかし、草創館のそばにプールがあったことは事実だよ。そこで溺死した生徒がいたことも。蕪木優太郎……三十年前の新聞に名前が載ってた。いじめかどうかはまでは書いてなかったけど、十二月に酔狂で学校のプールに入るとは思えない」
「……事実、だったんですか」
「もっともプールの取りこわしは老朽化とされている。当時いた先生に矴とふたりで話を聞きにいったんだけどね、いじめも確認していなかったとその先生は言った。先生が気づいていなかっただけかもしれないけど」
花崎先輩の言うとおり、好きこのんで冬のプールに入るとは思えない。いじめの結果彼は亡くなったと考えて間違いないだろう。
そこまで考えてから、「聞きにいった?」と俺は尋ねる。
花崎先輩は思案ありげに窓の外に視線を向けた。そこには雑木林が広がっている。
「去年。剣道部の後輩が夜に僕のところまで部の人間関係について相談にきて、その帰りに踏んだそうだ。雨でもないのにできていた水溜まりを。水溜まりからは腐った水の臭いがした――」
場所のちがいはあるが俺と同じだ。「そこで俺たちが調査に乗りだしたってわけ」と矴先輩がにやりと笑う。
「花崎の後輩は数日前に友人たちとあそこの林で肝試しをしていた。それだけならまだいいさ……でもそいつはこれじゃ物足りないと思った。友人を殴ったり蹴ったりするふりをして、いじめの再現をしたのさ。霊を刺激するために」
「……最低ですね」
俺はひととしてどうかと思うというつもりで言ったのだが、「そう、霊にたいして最悪の行為だよ」と矴先輩はうなずく。
「かれらはいつでもきっかけを待っている。こっちにくるきっかけさ。幽霊がでてくるんじゃないかと期待しながら肝試しをおこない……さらに、いじめの再現までおこなった。ターゲットになるのは当然だよね」
「…………」
「自業自得だ。取り殺されるまで放っておいてやってもよかったけど、花崎がさすがにそれは可哀想だって言う。だから俺たちは霊の誤解を解いた。あれはふざけていただけです、あなたの死とは無関係です――って」
予想していた展開とちがった。てっきり、この矴先輩に霊能力でもあって除霊したのかと。
疑問が顔にでていたのだろう、「期待外れですまんね」と矴先輩は両手をあげる。視線はまだドアに固定したまま。
「でも、生者が死者にできることなんてそんなものだよ。想像してみ? きみは悪質ないじめによって命を落とした。加害者たちは罰を受けることなくのうのうと暮らしている。とてもやりきれない。
そこに無関係な人間がやってきてきみを丁重に弔ってくれて、もう復讐なんてやめてくださいって言う。さて、きみの怨みは晴れるか否か?」
「……無理ですね。関係ない他人がなにを言ってるんだろうとしか思えません」
「そういうことだよ。だから、俺にできるのは霊とちょっとおしゃべるすることだけ。幸いおとなしい性質の霊だったし、生者に取り憑くタイプでもなかった。なんで去年の話はそこで終わったんだ」
取り憑くタイプ。俺が首を傾げると、今度は花崎先輩が右手のブレスレットをいじりながら説明してくれる。
「霊体のままのほうが都合がいいと考える霊と、生身の体を乗っとったほうが都合がいいと考える霊がいるってこと。……どうも僕は乗っとられやすい体質みたいでね。対処方法を捜しているうちに矴と関わるようになったんだ」
「それでいまではこんなに仲よし」
「妄言が多いのは欠点だけど」
「……もしかして、そのブレスレット」
花崎先輩は首肯する。「そう。矴からもらった。これをつけてれば霊に取り憑かれることはないから」
そんな話ぜんぜん知らなかった。彼が乗っとられやすいということも、去年プールの霊を調べていたということも。
花崎先輩が俺の話を聞いて即動いてくれたのは自分たちの経験があったからか。俺自身さえ信じがたい話だったのに。
「で、今回のケースだけど……」と矴先輩がそこでやっと俺を見る。どきりとするような深い青色の瞳で。
「西永夕斗を呼んだのは間違いなくきみだ。だが、彼は蕪木優太郎と混ざっている。おそらくこれから毎晩彼はやってくるだろう。もしドアを開けたら――」
きみはほんとうに殺されるだろうね。
ぎらぎらと輝く朝陽の熱さも忘れるほど、その宣告は冷たく響いた。


