夕斗の日記はそこで終わっていた。永遠に。
その先が綴られることは、もう、ない。
あの日、夕斗はどうしてたっけ。
いつもどおりだった。すくなくとも俺にはそう見えた。
眠そうなあいつを叩きおこして。飯食わせて。顔洗わせて。着がえるまで待って、それで一緒に登校した。六月なのに暑くない。そう言って夕斗はシャツの胸元をばたばた仰いだ。
いつもどおりの授業。いつもどおりの昼飯。
あの日はなにを食べたっけ? 食堂で俺と向かいあっている夕斗の顔は憶えているのに、そのまえに置かれているはずのメニューがわからない。
すこし眠い午後の授業。苦手な数学で指されて、答えを言って、間違えて、『すみません、勘で答えました』と開きなおる夕斗。しょうがなさそうに笑う先生と『しっかりしろよー』と野次を飛ばしながら笑うクラスメイトたち。
俺が斜め後ろにある夕斗の席を振りかえると、『りお、俺のこときらいにならないで!』と夕斗が拝んできた。『べつにこれくらいじゃならないし』と俺がつぶやくと、なぜか周りの生徒たちが囃したてるように笑う。その意味も、夕斗がでれでれと笑う理由も、俺にはわからなかった。
――最後は、じゃあまた、って言って別れた。
放課後。図書室にいく俺と体育館にいくあいつは一階の廊下で別れる。そこで夕斗はいつもみたいに笑顔で手を振ってきた。じゃあまた。寮で。
そのあと、だったのかな。
部活が終わったら俺に告白しようって考えてたのかな。
「っ……」
あの日、ずっと夕斗はどきどきしてただろう。俺になんて言おうか思うと気が気じゃなかっただろう。告白をやめようと思ったことだって何回もあったにちがいない。
でもあいつは自分で決めたことはちゃんとやりとげるやつだ。決意はゆるがなかったはず。
寮にもどったら俺に告白しようと決めて――
……なんて言おうとしてたんだろう? 夕斗は。
俺に、なんて告白しようとしてたんだろう?
ノートをどれだけ見つめても答えは書かれていない。夕斗の胸のなかにしかそれはなくて、そして、もう灰になってしまった。
なんで。
なんで、あの日だったんだろう。
「……返せよ」
発作を起こしたとき、夕斗はどんな気持ちだっただろう。体育館の床に倒れたとき、夕斗はだれのことを想っただろう。
――俺に告白できずに死んでいくなんて、
「返せよ……っ!」
涙を浮かべながら俺は叫んだ。相手は知らない。神さまでもなんでもいい、夕斗を奪っていったやつに。
夕斗が死んだことが悔しくて仕方なかった。あいつは死ぬべきじゃなかった。返せよ。返してくれ。
「夕斗――」
泣きじゃくりながら彼の名前を呼んだとき。とんとん、と部屋のドアがノックされた。
俺は息を呑む。
机の上に置いてあるデジタル時計で反射的に時刻を確認した。0:02。いつの間にか日付が変わっていたらしい。
こんな夜中に部屋を訪れるのは、
だれだ?
花崎先輩。ありえない。緊急の連絡でもないかぎり、彼がこんな非常識な時間にやってくるはずない。
……なら。
いやな三年の顔が浮かんだ。黒川か……。夕斗が不在なのをいいことに部屋まで押しかけてきたんだろう。
素直にでてやるほど俺もバカじゃない。ドアの鍵はかかっている。電気をつけたまま寝てしまってノックが聞こえなかったことにしてしまおう。
そう考えているとまたドアが叩かれた。
とん、とん、とん、と。ゆっくり三回。
「――――」
それは、俺と夕斗が決めた合図。
俺たちしか知らない合図のはずだった。
まさか、と心臓が早鐘を打つ。ありえない。偶然だ。たまたまそう聞こえただけ……
すると、動けないでいる俺に聞かせるように再び同じノックがくりかえされた。ふつうの速さで二回。三秒数えて、ゆっくり三回。
俺がひとりで部屋にいるとき、夕斗がしていたノック――。
「あ……」
信じられなかった。俺はノートを置いてベッドから立ちあがり、ドアを見つめる。
年代物の木製のドア。この向こうにいるのは。
「――夕斗……?」
気配がする。ドアの向こうに、だれかがいる。
そのだれかの耳に俺の声が届いた気配が、する。
「……夕斗。ほんとに、夕斗なのか?」
ドアの向こうのだれかはなにも言わない。でも充分だった。
帰ってきてくれたんだ。俺たちの部屋に。俺のところに。夕斗が。
幽霊でもよかった。夕斗と会える。その喜びで胸がいっぱいになり、鍵を開けようと俺はドアに近づいた。その直後、
ぴちゃ、と足が冷たい水にふれた。
「え……?」
意味がわからなくて足元を見下ろす。雨漏り? 雨なんて降ってないのに?
それはドアの下の隙間から部屋のなかにじわじわと流れこんできていた。藻が浮かんだ緑青色の水が。
……なんでこんなものが。
俺はあとずさる。理解できない現象。それにたいする恐れがあった。
――ああ、でも、これじゃドアを開けてやれない。ドアを開けなくちゃ。だけどどんどん濁った水は部屋に侵食してきて、フローリングを覆いかくし、あっという間に俺の足首の深さにまでなる。
なんで? どうして?
水位は止まることなく高くなっていく。腰の辺りまできたところでようやく俺は逃げることを思いついた。けれどそのときには藻が足首にからみついていて、髪の毛みたいなそれのせいで足を動かすことさえできなくなっている。
自分の足元すら見えない汚い水。
俺は足を動かして藻をちぎろうとしたが、余計からみつくだけだった。水はもう首まできている。
無我夢中で両腕を振りまわすと水が跳ねて苦い飛沫が大きく開けた口のなかに飛びこんできた。俺はずっとたすけてと叫んでいた。
『たすけて! ほんとに死んじゃう! たすけて!』
けれど水はついに俺の全身を呑みこんでしまう。体が勝手に息を吸おうとして大量の水が肺の中に入っていく。いやだ。苦しい。死にたくない!
視界が極彩色の光でちかちかする。指先が痺れて感覚がなくなっていく。水が意思を持って俺の体を水底へと引きずりこむ。たすけて、と叫ぶことすらもうできない。
ぷつんと脳のなかのなにかが切れた感触があった。死ぬってこんな感じなんだ、ともうひとりの自分がつぶやいた。
……そこで、目が覚めた。
「…………」
心臓がばくばくしている。俺は自分が死んでしまったのかどうなのかよくわからず、混乱する。体を起こす。
俺は寮の自分の部屋の床に横向きに寝ていたらしい。顔をドアのほうに向けて。
……あれは、夢?
カーテンの隙間からは朝陽が射しこんできている。部屋の蛍光灯はつけっぱなしだ。
昨夜、夕斗の日記を読んで……それで? 寝ぼけてこんなところで寝てしまったのだろうか。
深夜に部屋のドアが叩かれた。夕斗と俺しか知らないノックの仕方だったから、夕斗が幽霊になって帰ってきてくれたんだと思って俺は鍵を開けようとした。そしたらドアの隙間から汚い水が流れこんできて……溺れ死ぬ、ところで目が覚めたようだ。
夢。だとしたら、あのノックが聞こえたところから夢だ。
はあ、と息を吐きだす。いやな夢だった。口のなかに苦い味が残っている気がする。窒息するときの苦痛も体が覚えていた。
俺は眼鏡をはずして、自分の目元を手のひらで押さえる。落ちつくまでしばらくそうしてからまたかけなおして、すこしはやいけど顔でも洗ってこようと立ちあがったときだった。
濡れていた。
ドアの近くが。じっとりと。
俺は固まる。
……あれは夢だったはずなのに。どうして。
おそるおそる近づくと、濡れたあとにはかすかに緑色の藻が混ざっていた。そして、
『気をつけろよ。そいつが現れるときは、腐った水の臭いがするんだって』
腐った水の臭いが……した。


