俺の目が赤いことに花崎先輩は気づいていただろう。でもそれにはふれず、「すこしすっきりした顔してる」と夕飯の冷やし中華を食べながら言ってきた。
「そうですか?」
「なんとなくね」
夕斗の日記を読んだことが理由なのは間違いなかった。
食卓には俺と先輩とふたりだけ。夕斗は花崎先輩になついていたし、彼になら言っていいだろうと俺は日記のことを先輩に話した。
「夕斗、日記とか書くタイプなんだ」と先輩はまずそこに驚いたらしい。ですよねと俺も笑う。
「スマホでならまだしも、ノートに手書きで書いてたんですよ。毎日じゃなかったけど」
「夜津のこと書いてあった?」
「まあ、割と。花崎先輩のことも書いてありましたよ。『兄貴になってほしい』って」
そう、と先輩は目を細めた。「いいね。夕斗が弟だったら毎日楽しそうだ」
「あいつうるさいですよ。漫画読んでで『俺も気合い入れなきゃ!』って急に筋トレ始めたりするし」
「その辺は夜津に面倒見てもらうよ」
「……それ、俺にも弟になれって言ってます?」
「どうせなら多いほうがよくない?」
そういうものなんだろうか。夕斗も俺もひとりっ子で、まあたしかに、兄弟というものに憧れがないわけじゃないけど。
……夕斗が弟だったら、もっとちがってたんだろうな。
冷やし中華の醤油だれがやけに酸っぱい。
そう思ってから、なにかを食べて味を感じるのがひさしぶりだと気がついた。夕斗が死んでから。
苦手なミニトマト――ふつうのトマトは食べられる、こいつだけが俺の敵だ――を最後に残して、しばらく箸で転がしてから思いきって口のなかに入れて最低限噛んで飲みくだす。
もちろん花崎先輩はそんなことせずきれいに食べおえていた。ごちそうさまでした、と手を合わせる彼に俺は言う。
「また話聞いてもらっていいですか」
もちろん、と先輩は微笑んだ。
夕斗の日記は夏休みに突入していた。場所を机のまえからベッドの上に移し、俺はページをめくる。
『部屋帰ってもだれもいないのさびしい。りお~』
『りおが部屋にいる夢見た。俺、りおのこと好きすぎ』
『つか宿題なにもやってない!りおたすけて!!』
夏休み明け、『りおがいなくてさびしかったぁー!』と抱きつかれたけどこんなにとは思わなかった。だって、夕斗にはほかに居残り組の友達もバスケ部の仲間もいたんだし。
――去年の夏休みも残ればよかった。ちくりと刺すような後悔を覚えながら読みすすめると、いきなりバスケ部の夏合宿が終わっている。帰ってきてからまとめて書いたようだ。
『今日で合宿終わり!きつかったけどシュートのフォームがきれいになったって新キャプテンにほめられた。体力もついた。ほかにも色々。はやくりおに話したい。ひみつの話もあるけど』
秘密? と首をかしげながら読みすすめていく。
二日目の夜――一日目は疲れて爆睡したらしい――にバスケ部は怪談をしたようだ。夕斗は中学のときにあった『気がつくと片づいている体育倉庫』の話をしてそれ助かるだけじゃんと総ツッコミされた。
意外とこういうのが好きだったのか、夕斗は憶えているかぎりの話を箇条書きして、
『取りこわされたプールの霊』
これが一番怖かった、と書いている。
いまから三十年まえ。草創館の近くにプールがあった。そこでひとりの生徒の遺体が見つかる。真冬の話で、彼の死因は心臓麻痺――夕斗と同じだ――だった。
彼はある五人の同級生からひどいいじめに遭っていた。その日、彼は夜中に呼びだされてプールに連れていかれた。非常用に水が張ってあるプールに。
『そこに潜れ』とリーダー格の生徒が命令する。
ただ立っているだけでも震える気温だ。そんなの無理だと彼がいやがると、『あの写真ばらまくぞ』と脅された。裸の写真だ。
あんなものだれにも見せられない。彼は仕方なく服を着たまま濁ったプールに飛びこむ。
だれもが真冬の水の恐ろしさを見誤っていた。肩まで入った途端、手足の感覚がなくなり、彼は『たすけて』とプールサイドから自分を見下ろしているクラスメイトたちに叫ぶ。
だが五人はげらげら笑った。もがく様子がおかしかったのだろう。
『たすけて! ほんとに死んじゃう! たすけて!』
水を飲みながら彼は必死に叫んだが、同級生たちは喜ぶだけだった。やがて意識が闇に飲まれていく。
『なんかやばくね?』と五人のだれかがつぶやいたのは彼の体が水底に沈んでからだった。
『浮いてこねえじゃん』
五人は黙りこみ、見まわりにきた宿直の先生が『そこでなにをやってるんだ!』と怒鳴ったのをきっかけに悲鳴をあげて逃げた。
俺たちのせいじゃない、あいつが勝手にプールに入ったんだ、と言いわけしながら――。
それ以降、プールでは事故が起きるようになった。
泳いでいると足をひっぱられる。顔を上げようとするとだれかに頭を上から押さえつけられる、など。
死んだ彼が復讐しているのだとみんな怖がって授業にならなくなり、そのプールは壊されて新しく造られることとなった――
『でもその幽霊は成仏してないんだ。だって、彼をいじめてた五人も見て見ぬふりしていた生徒たちもまだ生きてるんだからね。でももう彼には人間の区別なんてつかない。目についた人間を見境なく襲う悪霊になってしまったんだ』
この話をした先輩はそうつけくわえ、さらに夕斗を見てこう締めた。
『気をつけろよ。そいつが現れるときは、腐った水の臭いがするんだって』
ベタな怪談だが、場所が草創館のそばということで夕斗には印象深かったのだろう。
『りおにはだまっておこう。夜中トイレいけなくなっちゃうから』と書いてある。余計なお世話だ。
『あと、これもりおにはだまっておく』
つづきにはそうある。俺が読んでいいのか迷ったけど、この際だと文字をたどっていく。
どうやら三日目の夜にバスケ部の先輩ふたりがキスしようとしていたところを目撃してしまったらしい。『笠森先輩と柳先輩って仲いいけど、つきあってるとは思ってなかった。びっくりした』と夕斗は綴り、
『――気持ち悪いって思ったか?』
『いえ、そんなことないです。特別なことだとは思わないし』
笠森先輩とそんなやりとりをして、先輩たちがちょっとがっかりした様子なのが不思議だったと書いている。『特別だって思ってほしかったのかな?』とも。
『でもべつに男同士でつきあってたって俺はいいと思うし。先輩たちはひみつにしてほしいって言ってたから、ひみつにしておくけど』
これが最初に書いてたひみつの話か。もっとも夕斗は『まありおは興味ないだろうな』とも書いていて、たしかに、俺も知らない先輩たちがつきあっているという話をされても『そうなんだ』としか言わなかっただろう。そうなんだ。
……そういや、夕斗がだれかとつきあってるって話聞いたことないな。俺がそういうのに疎いから話を振ってこないだけかと思ってたけど、ここまでで恋愛の話は一度もでてきていない。中学のときもだれともつきあってなかったんだろうか。
――俺って、夕斗のことなにも知らなかったんだ。
ただ毎日一緒にいる。それだけで充分だったから。
夕斗が話したくないなら話さなくていいし、話したいなら好きなだけ俺に話してくれていいと思っていた。夕斗も俺にたいしてそうしてくれていたから。
でも――もっといろんな話をすればよかった。居心地のいい関係から一歩踏みだしてみるべきだった。そう後悔した、けれど。
俺がほんとうに知らなった『夕斗』は。
ここから先に綴られていた。


