【完結】夏に溺れる。~俺のことがずっと好きだった親友は死んでからも俺を離さない~


 具合がよくなってから草創館に帰り、汗を洗いながそうとシャワーを浴びる。
 ルームウェアに着がえて部屋にもどる頃にはもう夕方になっていた。いつもなら授業が終わって図書室に向かう時間帯だ。夕斗なら体育館――

 ……今年はレギュラー有望だって、一年のとき以上にがんばってたのにな。

 大好きなバスケ中に命を落とすなんて夕斗自身も信じられなかっただろう。
 あの日にもどれたら。今日だけは部活をやめて帰ろうとあいつに言えるのに。

 東の空は藍色に暮れようとしている。
 明かりをつけるべきか迷う暗さだが、字を読むなら、と壁のスイッチを押した。古い蛍光灯は虫が鳴くようにじいじい音を立ててから薄暗い光を灯す。

 俺は夕斗の机のまえに立った。
 転がったままのオレンジの蛍光ペンとか。間違えて机にシャーペンで線を引いたあととか。バスケ部の先輩からもらったと言っていたグレープ味の板ガムとか。あいつがここを使っていた名残が強すぎて目眩がする。

 ……夕斗だって。
 いつもどおり、ここに帰ってくるつもりだったはずなのに。

 俺はしばらく動けなかった。でも、いつまでも突ったっているだけじゃ仕方ない。開けるからな、と断ってから一番上の引きだしを開ける。

 夕斗の日記はちゃんとそこに納められている。あいつが死ぬまえの日の夜、持ち主が入れていたとおりに。

『俺が死んだら読んでいいよ』

 なんでもない軽口。でも、いまとなってはあいつが俺に唯一残した遺言だ。
 表紙に印刷されたレトロな枠のなかにはマジックで『DIRLY』と書かれている。俺の記憶どおり。

 その字が俺を呼んでいる気がした。俺は緑がかかった灰色のノートを取りあげて、自分の机のまえに座る。使いふるされた紙特有のくたりとした手触りにあいつの手の痕跡を感じた。

 ……いいんだよな? 夕斗。

 心のなかで問いかけても返事はない。俺は一度深呼吸をしてから表紙をめくった。

『マンダリンオレンジ 回避!』

 いきなりわけのわからない文字が飛びこんできて面食らう。

「……は?」

 俺、夕斗の日記を開いたんじゃなかったっけ? ひょっとしてなにかのドッキリか。混乱したけど、よくよく読めばそれはちゃんと日記の一部だった。


4/6 入学式
 俺のクラスはB組。夜津も一緒。
 楽しそうなやつが多くてうれしい!
 夕飯にはなんとちらしずしがでた!うれしくて食堂を飛びまわってたらだれかが食ったオレンジの皮をふんでびっくりしてこけた。
 いみわかんね。
 あだ名が『マンダリンオレンジ』になりかけた。
 しょーがないから首から『俺はマンダリンオレンジではありません』って書いた紙を下げてねりあるいた。
 マンダリンオレンジ 回避!
 夜津もがまんできずに笑ってた。仲よくなれるかも。


 ……思いだした。去年の春。
 食堂の床に捨ててあったオレンジの皮を夕斗が踏んでびっくりして尻もちをついて、それを見ていた先輩たちに一瞬だけマンダリンって呼ばれてたんだった。で、ほんとにこう書いた紙を下げて寮内を歩きまわって。

 あのときはなんか変なやつと同室になっちゃったって思ってたっけ……。

 六日のまえにもなにか書いてあった。読んでみると、『4/5 ひっこし完了!俺の自由のはじまり!同室の夜津はかなりクール。よろしくって言ったら『先に言っておくけど、だれかと仲よくするつもりないから』って言われた。氷点下じゃん。』と書かれている。

 俺、夕斗にそんなこと言ったっけ? ぜんぜん憶えてない。でもあのときの俺は言ったかも。友達なんていらなかったし。

 ……これ、けっこう恥ずかしいな。

 幼稚な自分の言動にいたたまれなくなる。ページをめくると次は4/7。バスケ部に入部するなり、力試しで先輩たちと1on1をやったそうだ。高校生ってすげえ、と興奮した字で書かれている。

 ――この字、懐かしいな。右肩上がりの、けして上手とは言えない字を見て思う。読んでいると夕斗の声まで聞こえてきそうだ。

『夜津のこと下の名前で呼んでみた。びっくりはされたけどやめろって言われなかった。理央って名前、なんか知的でかっこいい。俺にも一文字わけてほしい。』
『りおは図書委員。よく部屋で本を読んでる。ここはミステリが豊富でうれしいそう。今日は林先生の都合で部活がなかったから図書室に遊びにいったらうるさいって怒られた。ごめん!』
『理央って、りおじゃなくてりおうって読むらしい。りおだと思ってた。ばれてないよな?』
『部活から帰ったらりおがおかえりって言ってくれた。めっちゃうれしい。俺もりおが帰ってきたら言おうと思う。』

 ページには俺と夕斗の日常がたくさん綴られている。物語にもならないような、他愛ない毎日が。

 彼が下の名前で呼んできた日の日付を確認したら、4/10だった。出会ってから一週間も経ってない。道理で夕斗に名字で呼ばれた記憶がないわけだ。

 日付は飛び飛びだけど着実に進んでいく。
 テスト前で部活ができなくてがっかりしたり、消灯時間後にチキンラーメンをこっそり作って俺にも食べさせて共犯にしたり。

 ちなみにこのことは花崎先輩にばれた。下のキッチンで器を洗っていたときに。
 先輩に叱られるなんて経験なかった俺は青ざめたけど、『火の始末にだけは気をつけて』と注意されただけですぐ解放された。
『花崎センパイやさしい!俺の兄貴になってほしい!』と夕斗は感激していた。

 五月の終わりには俺に名前で呼ばれて嬉しかったことも書かれている。

『りおが俺のこと名前で呼んでくれた!すげー照れてて俺も照れる。でもうれしい。
 りおってなんか、なつきにくいネコみたい。もっと仲よくなりたいな。』

 読んでると目の奥がつんとして、なんか文字が変だな、と思ったら俺は泣いていた。

「……なにしてんだよ……」

 泣くような内容じゃない。なのに涙があふれて止まらなかった。
 俺は眼鏡を外し、Tシャツの裾で目元を乱暴に拭う。

 会いたい。夕斗に会いたい。

 落ちついたと思っても夕斗の字を見るとまたぼろぼろ涙がでてきた。これじゃつづきが読めない。何度も何度も服で涙を拭き、洟をすすりあげながら俺はつづきを読みすすめる。

『黒川がりおにしつこくからんでたからキレてやった。ああいうやつ嫌い!
 冷静に考えるとかなり恥ずかしいこと言っちゃって恥ずかしかったけど、りおは少女漫画のヒーローみたいって褒めてくれた。俺、そんなかっこいい?笑』

 これは――黒川に二階の廊下でからまれて、腕をつかまれて無理やり部屋に連れこまれそうになったときだ。夕斗が走ってきて黒川の手をつかんで、

『俺のもんにさわらないでもらえます?』

 そう言って黒川がひるんだ隙に自分たちの部屋まで俺を連れて逃げてくれたんだった。
 俺の心臓はうるさく鳴っていた。黒川に腕をつかまれたときよりも、速く。

『……夕斗、すげえ。少女漫画のヒーローみたい』
『え、ほんと? 俺のダチって言おうとしたのに間違えちゃったんだけど。恥ずかし』
『かっこいいよ。俺のもんにさわらないでもらえます?』
『ちょっといじってんじゃん!』

 嘘だよ、と俺は笑った。『ほんとにかっこよかった。ありがと』
 夕斗はちょっとどきっとしたような顔をしたあと、『任せろ!』と親指を立てて応えた。

 あのときの夕斗はほんとうにかっこよかった。
 俺が少女漫画のヒロインだったらあそこで恋に落ちるんだろう。男同士だからなにも起きなかったけど。

 このあと、俺が部屋にひとりになったとき、間違えてドアを開けないためにノックを決めておこうという話になった。
 最初に二回。三秒待って、次はゆっくり三回。それが俺たちの合図。
『なんかCIAみたいでどきどきする』と夕斗は書いていた。CIA……?

 ページをめくろうとしたときドアがノックされた。ノートに集中していたせいで足音に気づかなかった。
 黒川のくだりを読んだばかりのせいで返事ができず、黙っていると、「夜津? いるよね?」と花崎先輩の声がする。

「あ、はい」
「よかったら一緒に夕飯にしよう。でておいで」

 普段なら理由をつけて断ったかもしれない。でも、夕斗の日記を読んだあとだとそんな気になれなかった。
 夕斗がいまの俺を見てたら『いってきなよ』と言うと思ったから。

 もう一度目元を拭き、俺は椅子から立ちあがる。

「はい、いま行きます」