「っ……う……」
苦しくて涙がにじんだ。
背後にいるものは心配したように優しく手を動かす。
その手は濡れていて、奇妙にやわらかくて、服越しでも人間のものではないことがわかる。腐りかけの死体をつめたい水で冷やしたみたいだ。なでられると骨まで凍りそうにつめたい。
それなのに、どうしようもなく夕斗だった。
夕斗そのものでしかなかった。
いっそ別人だったらこんなに苦しくなかったのに。彼は、夕斗は、なにも変わっていなかった。
あの日、俺の背中をさすってくれたときのまま。
「う、……っ」
手のひらから俺への気持ちが痛いくらい伝わってくる。
好きだって。この手は俺に恋をしているって、はっきりわかった。
――俺、りおを好きになっちゃった
夕斗ならいいと思っていた。ふつうにつきあえると思っていた。でもそんなのままごと同然の気持ちでしかなかった。
俺は――
『理央はほんとにいい子ね』
『さすがパパの息子だな』
『あんたなんて生むんじゃなかった』
『ごめん、こっちにももう家庭があるから』
母親も父親も俺を愛してくれていたはずだった。でもそれは簡単に崩れるものでしかなかった。母は俺を憎んで、父は俺を遠ざけた。俺にはふたりを繋ぎとめるだけの価値がなかった。
それでも、またふたりに愛してほしかった。ふたりの子供であることをゆるしてほしかった。
俺はずっとそれだけを求めていて。
――夕斗にも、それを求めていたのかもしれない。
親が子に与える無償の愛情を。
「……ごめん……」
そんなの与えられるはずがない。ただのないものねだりだ。
だって夕斗は俺と同じ高校生で。俺のことを親友として、恋愛対象として好きだったのだから。
向きあわなくちゃ。わかってる。
夕斗の想いは俺がほしいものとはちがうけれど。
それでも、
夕斗の大切な想いだから。
ぼろぼろ泣きながら俺は後ろを振りかえった。濁った水の匂いが強くなって、刺激されたように吐き気もひどくなる。
それでも俺は彼を見つめた。
涙でにじんだ視界と、水滴で濡れた眼鏡のレンズ越しに。
……夕斗は。
俺の目のまえにいる、"彼"は。
肌は腐った水を染みこませたみたいに暗い緑色をしていて目のような穴がふたりぶんあってでもそこにあるはずの眼球がどこかにいってしまっていて鼻が欠けていて唇も削がれていて耳も左側がなくて髪はすべて抜けおちていて全身が水を吸ってふくらんでいてあちこちに傷跡があって黒く腐った肉が見えていて首や指先に水苔が生えていて、かろうじてひとのかたちをたもっている、"彼"は。
唇がなくなって一本の黒い線みたいに見える口を動かした。
生前の記憶に従うように。
り、お、と。
「……夕、斗、」
親友の変わり果てた姿。でも、こうしたのは俺だった。
俺が夕斗の死を認められたなかったせい。彼に帰ってきてほしいと願ってしまったせいで。
彼は――こんなかたちで還ってくることになってしまった。
「ごめん、夕斗……」
『……、……?』
「だって。だって俺が、おまえに帰ってきてほしい、って、ずっと、」
それで還ってきてくれたんだよな。こんな姿になってでも。三十年まえに亡くなったひとと混ざりあってでも。
俺を、ひとりにしないために。
俺は夕斗の顔に手を伸ばす。俺の知ってる夕斗の顔にくらべると倍以上膨らんでいたし、なにもかもがちがうけれど。
彼の皮膚は力を込めるとずるりと剥けてしまいそうだった。だから、そっと手のひらを押しあてた。
ずぶ濡れで。ぶよぶよで。つめたい、その頬に。
空洞になった彼の眼が俺を見つめている。
夕斗がなにを考えているか俺にはわからない。
……いまだけじゃない。ずっとそうだ。彼がなにを考えているかわからないときはそのままにしていた。相手を尊重するとか都合のいい考えで。
でも、ほんとうは。
踏みこみすぎて夕斗にきらわれたくなかっただけだ。
そのせいで俺は知らなくちゃいけないことを知らずにいてしまった。
彼の想い。彼の苦しみ。
夕斗の日記を読まなければ、いまも知らないままだった。
――もう、後悔はしたくない。
「夕斗の考えてること、ぜんぶ教えてほしい」
『…………』
「夕斗のこともっと知りたい。どんなことでも。ぜんぶ……俺は、受けとめるから」
――俺の声は。きっと、夕斗の耳には俺がしゃべったとおり響かなかったにちがいない。
それでもわかる。彼が、俺がなにを言おうとしているか理解しようとしてくれていることが。
夕斗は俺の頬に手を伸ばす。
彼の指は泥と血で作ったゼリーみたいななんとも言えない感触がする。
気持ちいいのか悪いのかもわからない。夕斗の頬に手をあてたまま、俺は彼の手が自分の頬にぴたりと密着するのを感じる。
……あ、笑った。
夕斗の顔は変わらない。でも、手のひらから伝わってくる。夕斗が嬉しそうにしてるのが。
嬉しいって気持ちはあったかいんだ。俺の手のひらと、彼の手のひらから伝わってくるものを感じてそう思った。たとえ人間の体を失っていたとしても。
夕斗は頬にあてていた手を動かし、俺の髪をなでる。髪が腐った水で濡れて、ぽつりぽつりと滴が落ちてくる。滴が目に入らないように俺は片目を閉じなければいけなかった。
『りおの髪、さらさら』
夕斗が目を輝かせて言った気がした。
……だれかに頭をなでられるのなんて何年振りだろう。胸の内側がくすぐったくなってしまう。小さな子供にもどったみたいだ。
俺のこんな気持ちも夕斗には伝わるのだろうか。夕斗は俺の頭のてっぺんに手を置いて、優しくなでてくれる。
「っ……」
嬉しいはずなのに涙があふれた。夕斗が困ったように手を止める。
俺は彼から手を放し、眼鏡をはずして目元をぬぐった。
ちがう。彼を困らせたいわけじゃない。
ただ、俺は、――
何度も涙をぬぐっていると夕斗が俺を抱きよせた。
生きていたころとくらべると頼りない、ぐにゃりとした腕で。
夕斗の胸は頬と同じようにつめたかった。そことちがうのは、肋骨のかたさを感じられること。このまま体をあずけても大丈夫だって思わせてくれること。
俺は彼の胸に顔を押しあてる。
そうすると次から次へと涙があふれてきた。なんとか声は殺していたけれど、夕斗の手に背中をなでられ、堪えきれなくなって俺は大声で泣きさけぶ。
なんで死んだんだよ。
なんで言ってくれなかったんだよ。
「夕斗っ……ゆうとぉ、」
俺には夕斗だけだったのに。夕斗以外なにもいらなかったのに。
俺を置いて勝手に死ぬなんて。
そんな意味のことを大声で喚きながら泣く俺を夕斗はずっと抱きしめていた。背中をさすりながら。
『――俺だって』
『俺だって、りおを置いて死にたくなんてなかったよ』
そう、言うかのように。
――あの日、夕斗が死ななかったらどうしてた?
喉が嗄れるくらい泣きさけび、嵐が去ったあとに落ちる雨だれみたいにしゃくりあげながら俺は夕斗に尋ねる。声にはならなかったけれど。
夕斗はぴたりと手を止めた。
夏の夜の深い静寂。そこに俺のしゃくりあげる声だけがしばらく響いていた。
すべての生きものの気配が遠ざかって、ふたりきりで闇のなかに落ちてしまったみたいな沈黙のあとで彼は応えた。
言葉ではなく、行動で。
「っあ……」
ぬる、と手が入ってくる。
背中に。服の、皮膚の内側に。
「……? な、に、」
それは未知の感覚だった。つめたくて濡れた手が体内に入ってきて、俺の背骨を指先でなでる。
びくっと全身が震える。さわられたことのない場所にふれられて脳が混乱する。体の芯をなでられて、そこからしびれみたいなものが広がっていく。
「……っ」
怖い。のに、縛りつけられたかのように動けない。
夕斗の体は俺に密着していて。そこから、彼の感情が伝わってくる。
『きもちいい』
「ゆう、と……っ」
かすれた声で俺は彼の名前を呼んだけれど、夕斗は俺の骨をなぞるのをやめてくれなかった。
彼の指は上へとずれて。頚椎をくすぐり、爪でかるくひっかき、そうしてまた背骨へとすべりおちる。
全身の神経がぴりぴりした。おそらく、これは、ひとが知ってはいけない感覚。
背骨を堪能すると夕斗の手は尾てい骨へと下りてゆく。大きな手のひら。それで腰のあたりにある骨をなぞられて、「あ……っ」俺の口から勝手に声が漏れた。
怖い。部屋で、夕斗に右手の人差し指を持っていかれそうになったときと同じ。
欲情されている。
俺が抵抗できないでいるからか、それともこの行為自体に興奮しているのか、夕斗の手の動きはさらに激しくなった。片手で俺を抱きしめながら、もう片方の手を俺の胸のまえに持ってきて皮膚の下へと沈めてくる。
ぬちゃ、と肉がかきまぜられる音がした。
心臓に直接手のひらをあてて鼓動を聞かれている気配がした。
「あ、……っあ、」
夕斗の指が心臓のなかに入ってくる。全身に血を送るポンプとしての動きがそのせいで乱れて、血液が変なふうに血管に流れていく。
気持ちいいところを探るように指が動いた。血で濡れたそれで心臓の内側をまさぐられ、ふわりと全身が浮かぶような錯覚に襲われる。
――あ、俺、死ぬのかも。
そう思ったけどすぐに意識が鮮明になった。夕斗の爪が敏感な個所をかすめたせいで。
俺がびくっと肩を動かしたからだろう、彼はあわてて心臓から手を引きぬく。そして大丈夫か問いかけるように俺の顔を覗きこんできた。
「だ……だい、じょうぶ、」
途切れ途切れに俺は答える。そうしないと彼の気持ちを裏切ってしまうと思ったから。
夕斗がまたいなくなってしまうと思ったから。
「だいじょうぶ、だから……」
つづけてほしい。そう言おうとしたとき、夕斗が俺の頬に手のひらをあてた。
経験なんてないくせにどうしてそう思ったのかはわからない。わからなかったけど、彼の顔がゆっくり近づいてきて、俺は目を閉じる。
俺の唇に彼の濡れた皮膚が触れた。
初めてのキスは、腐った水の味がした。


