藍色の夜のなかを俺は駆ける。ほとんど花崎先輩に手を引っぱられるようにして。
途中、矴先輩が住んでいる寮の横を通ったけれど、いくつかの部屋に明かりがついているだけで建物はひっそりしていた。
彼はどうなったのだろう。たしかめたいが、いま引きかえしたら俺たちも無事では済まない。
――どうしてこうなってしまったのだろう?
足の裏に細かい砂が食いこむ。けれど右手の人差し指が異様な状態になっていて、意識がそっちに向いているせいで痛みは感じなかった。
人差し指にもう痛覚はない。むかし、輪ゴムをきつく巻きつけて遊んだときのように冷えきっていて。動かそうとしても動かせないのに、いやな存在感だけがある。
――俺はずっと"あれ"を夕斗だと思っていた。
最初の夜に夕斗と決めていた合図通りのノックをされたからだ。あんなものいくらでも真似できるのに。
顔も見ていない相手を、俺は、馬鹿正直に夕斗だと思いこんで迎えいれようとしてしまった。
その結果がこれだ。矴先輩を危険に晒して、花崎先輩まで危ない目に遭わせてしまっている。
ぜんぶ――ぜんぶ、俺のせいだ。
「……花崎、先輩、」
息を切らせながら俺は先輩の名前を呼んだ。先輩は走るのをやめずに「なに」と問いかえしてくる。
「俺を置いて、逃げて、ください」
花崎先輩は驚いたように立ちどまった。
「――え?」
「先輩ひとりなら、逃げられる、から。俺を置いて逃げてください」
「なに言ってるの」
「そもそもぜんぶ、俺のせいだったんです。俺が……俺がどうしても夕斗に会いたかったから。夕斗じゃないものを本人だと思いこんだせいで、こんなことに」
まだ正門は遠いのに俺の息はすでに上がっていた。運動なんてろくにしてこなかったせいだ。
でも花崎先輩はちがう。彼ひとりなら"あれ"から逃げられる。
先輩はすばやく背後を確認した。俺もつられて視線をやる。
あるのは等間隔にならんでいる寮と、その背後の雑木林と……かわいた地面。
――地面は濡れてない。
――追ってきていない?
てっきり水溜まりができているものと思っていたから意表をつかれた。"あれ"は草創館……もとい、プール跡のそばから離れられないのかもしれない。
だとしたら。
もう必死に走る必要はない、と安堵したとき。
こぽっと泡が生まれる音がした。
こぽっ、こぽっ、こぽっ。
間の抜けた音は足元から聞こえてきていた。俺たちが進もうとしていたほうから。
俺と先輩は視線を前方へと向ける。
石鹸の泡でも地面に撒いたみたいだった。ただし、泡はどれもこれも濁った緑色をしていたけれど。
舗装されていない殺風景な道を埋めつくす、丸い無数の泡たち。
それは俺たちが見ているまえでこぽっと音を立てて次々と地面の下から生まれ、あるものはふわりと浮かびあがり、あるものはべつの泡とくっつきあい、あるものはつるんと地面の上にすべりおちていた。表面を星明かりにぬらぬらと輝かせながら。
「な……」
あまりにも非現実的な光景に言葉がでない。
俺は、夢を見ている?
呆然としてしまった俺とは対照的に花崎先輩の判断ははやかった。俺の手をつかみなおし、「こっち!」と泡で埋めつくされているのとはべつの道を走りだす。
そうされて麻痺していた嗅覚がもどってきた。刺すような腐敗臭が鼻腔を刺激する。
「せんぱ――あれ、」
「いいから。いまは逃げることだけ考えて」
泡。腐った水から生まれた泡。
あれにふれたらどうなるんだろうと恐怖心から俺はつい後ろを振りかえってしまって、
「あっ――」
すぐそこまできていた泡に小さな悲鳴を漏らした。
それは気ままに浮かんでいるように見えるのに、はっきりとした意志を持って俺の顔めがけて飛んできていて、
「理央……っ!」
――当たる、と思ったその瞬間。花崎先輩が俺の手をほどくとその手を俺の顔のまえに差しだした。
ぱちんと泡が弾ける。
「花崎先輩!?」
「う……、」
先輩は右手の甲を反対の手で押さえた。その直前に俺は見てしまった、彼の皮膚がずるりと向けて赤い肉が剥きだしになっているのを。
なんでもない、と花崎先輩は痛みを押しかくして言う。
「でも……っ!」
「……そんなことより、理央」
彼は傷を俺に見せないようにしながらブレスレットを外した。いつも右手首につけている銀のブレスレット。
それを俺の胸に押しつける。
「これを持ってれば最悪の事態は防げる。……はやく行って。きみが逃げるくらいの時間は稼ぐから」
「なに言って、」
「はやく行けっていってんだよ!」
普段からは想像もつかない剣幕で怒鳴ると先輩は泡から俺をかばうように立った。その向こうではいくつもの泡がふわりふわりと浮かんでいる。
お願いだから、と花崎先輩は振りかえらずに笑った。
「最期まで頼りになる先輩でいさせてほしいな」
俺は銀のブレスレットをにぎりしめる。
はやく、と先輩に怒鳴られて足を動かした。本校舎につづく道を、毎朝登校のときに使っている道を裸足で駆ける。
息が苦しいのは、心臓が痛いくらい鳴っているのは限界を超えて走っているからじゃなかった。
――俺は花崎先輩を見殺しにした。そんな後悔が胸を締めつけてくるからだ。
花崎先輩ひとりでなら逃げられたのに。先輩は、俺のせいで――
どうして。どうしてこんなことになったんだろう。
俺は夕斗にもう一度会いたいだけだったのに。
それが間違いだったんだろうか。
俺がそう願ってしまったことがこの事態を引きおこしたんだろうか。
夕斗に会いたいと、あいつの心残りを晴らしたいと、そう願ってしまったせいで。
振りかえることもできずに俺は走りつづけた。そして、ある想いを持って中庭へとたどりつく。
がくがく震えそうな足を必死に動かし、あの日と同じ東屋へ向かうとベンチに手をつくようにして倒れこんだ。ずっと胸のまえでかかえていた夕斗の日記が地面にすべりおち、ブレスレットが手のひらに食いこむ。
"あれ"からは逃げきれない。
それなら、ここで終わりを迎えたかった。
夕斗が俺の背中をさすってくれたこの場所で。
自分の荒い呼吸の音がうるさい。いつもみたいに吐き気がこみあげてきて、俺はそれを必死に飲みくだそうとした。
気持ちが悪い。頭ががんがん鳴っている。体が熱いのか寒いのかわからない。
理由のわからない涙がにじむ。
どこかから蝉が鳴く声が聞こえてきたけど幻聴だったのかもしれない。
俺はベンチに顔を伏せた。
夕斗との思い出が残るこの場所。彼が俺に恋に落ちたというここでなら、夕斗のそばに逝ける気がした。
先輩たちを巻きこんでしまった俺にそんな資格はないんだろうけど。
でも、そう願うことくらいは許してほしい。あの世で、また、夕斗と友達になりたいと願うことくらいは。
……そのときは。
夕斗の心に、もう一歩踏みこんでみるから。
なにかの気配が近づいてくる。俺の背後に、もう、それはいる。
腐った水の臭い。……濃厚な死のにおいをまとったそれは、
びちゃりと音を立てて俺にふれると。
俺の背中を、手みたいななにかで上から下にさすりはじめた。
「…………」
あの日――夕斗が俺にそうしてくれたように。
俺は混乱する。俺は、困惑する。
だってこいつは夕斗じゃない。夕斗は俺にあんな、
(信じたくない)
あんなことするわけないんだから、
(信じたくない)
こいつは夕斗じゃないのに、
(夕斗が俺に欲情してるなんて)
……初めてできた親友だった。夕斗と出会って俺の世界は色づいた。陳腐な表現。でもそうとしか言えない。
人間が大好きな犬みたいな笑顔が好きだった。ひとりのときにふと窓の外を見る大人びたまなざしが好きだった。俺が話しかけると目を輝かせて笑ってくれるのが好きだった。だれかが困っていたらすぐにたすけに飛んでいくところが好きだった。バスケのときの別人みたいな真剣な表情が好きだった。近づくとミントガムの香りがするところが好きだった。俺以外の友達といるときの夕斗はきらいで、俺とふたりだけでいるときの夕斗が大好きだった。
俺と風呂に入るのが怖いと夕斗は日記に書いていた。俺はその意味を深く考えなかった。
そういう目で親友を見るということを、俺はもっとちゃんと考えるべきだったのに。
右手の指をなにかに喰べられかけたときに感じた。ああ、こいつは俺が好きなんだって。俺をそういう目で見てるんだって。
俺はそこにいるのが夕斗だとほんとうはわかっていたのに。
それが信じられなくて、信じたくなくて、そういう目で見られているのが怖くて、夕斗じゃないと思いこもうとした。
夕斗に告白されたらどうするか。あんなものただの空想にすぎなかった。
俺が向きあうべき現実は。
親友が最後に叶えたかった想いは。
こんなにも、生々しい。


