「――理央!」
0:02。スマートフォンの時計で時刻を確認した花崎と矴は緊張した面持ちで隣の部屋の気配を窺っていた。
隣の部屋のドアが開き、また閉じる。その部屋の主が帰ってきたかのように――当然のように。
――夕斗……
後輩の顔を思いだして花崎は瞳を曇らせる。
だれとでも仲よくできる彼のことを花崎もかわいがっていたが、夕斗には深い孤独があるような気がしていた。底が見えない井戸のように深く、つめたい孤独が。
その孤独をわかちあえるのはきっと理央だけだった。夕斗とは正反対の彼も同じような孤独をかかえていたから。
ふたりをお互い以上に理解できる相手なんていない。だから、ふたりの友情が永遠につづくことを願っていた。
文化祭の日をきっかけに夕斗の理央を見る目が変わってからは。
夕斗の気持ちが成就すればいいと願った。自分の気持ちは最初からなかったものとして。ふたりが――いまよりも親しい、恋人という関係になれればいいと願っていた。
夕斗のかわりになる、つもりはない。
理央も夕斗もそんなことは願わないはずだ。欠けた穴を他人が埋めることなんて。
ただの先輩として理央のことを近くで見守ることができればそれでいい。夕斗を失った彼が壊れてしまわないように、そばで支えていられればそれでいい。
この気持ちを恋だと自覚したのは。
夕斗の隣で楽しそうに笑う理央を見たときだったのだから。
隣の部屋のドアが開いて数分後、理央の悲鳴が聞こえてきて花崎は廊下に飛びだした。あとから矴もついてくる。
ふたりが使っていた部屋のドアを勢いよく開けはなった。
理央は右手を前方に差しだしていた。まるでだれかに手を取られているかのようだ。
だがその手は濁った水で濡れ、泥がこびりつき、人差し指は――
「――理央!」
花崎はベッドに腰かけている理央に駆けよる。
彼の右手の人差し指は紫色に変色していた。血の流れが止まってしまったかのように。
なにかから引きはなすようにして彼の右手をつかんで引きよせた。色が変わった人差し指を手で包みこむと完全に冷えきっていてぞっとする。死体のつめたさだ。そう、感じた。
「菫コ縺溘■縺ョ縺九o縺?>蠕瑚シゥ縺ォ縺ェ縺ォ繧偵@縺ヲ縺上l縺ヲ繧九s縺??」
矴がベッドのまえの空間に向けて言う。人間の耳では聞きとれないその言葉は死者の言語だという。
花崎たちには見えないなにかを視ながら矴はさらに言葉を紡いだ。
「縺阪∩縺ッ隘ソ豌ク螟墓沫縺倥c縺ェ縺??ゅ◎縺?□繧阪≧?」
「隘ソ豌ク螟墓沫縺ッ縺薙s縺ェ縺薙→縺励↑縺」
「縺サ繧薙→縺?↓螟懈エ・縺上s縺悟・ス縺阪□縺」縺溘s縺?縺九i」
――しん、と空気が静まりかえる。
ただの静寂ではない。なにかが耳を済ませ、矴の言葉に聞きいっている気配がした。
理央の無事を確認することで頭がいっぱいだったが、ベッドのまえには水溜まりがあった。腐った臭いのする深緑色の水だ。部屋の入り口からそこまで水を零したような跡もある。
――夕斗が入ってきた跡。
理央の手をにぎりしめながら、花崎はそこにいるであろう彼を見つめた。
そして。
ほんの数秒後。
ごぼっ、と血を吐くように矴が口から水を吐いた。
「あ……」
シャツに降りかかったそれを見下ろし、矴はつぶやく。ごぼごぼと水を吐きだしながら。
「……たのは……の、ほう……」
矴が肺のあたりを押さえた、のと濁った水をすさまじい勢いで吐きだしたのがほぼ同時だった。彼は床に膝をつき、口から大量の水を吐きだす。
そうしながらも矴は花崎を見た。花崎はうなずき、理央を立たせると彼の右手をつかんだまま部屋を飛びだす。
「菫コ縺ョ蜿倶ココ縺ォ縺ッ謇九?蜃コ縺輔○縺ェ縺――」
矴がえずきながらなにかに向けて叫ぶ。ふたりが逃げる時間を稼いでくれている――だが、彼の能力は霊の説得だけだ。
相手が聞く耳を持っていなかった場合。
彼の力は、無に等しい。
「こっち……!」
人形のように生気がない理央の肩をつかみ、階段を目指す。ばしゃっと水が床に叩きつけられる音が背後から聞こえてきたが、それがだれのどこからでてきたものなのかは考えないようにした。
理央と逃げろ。矴は、水を吐きながらもそう友人に訴えたのだから。
「く……っ、」
理央の体を引っぱりながら階段を降りた、だが中ほどまで降りたところで異常に気がつく。
一階は浸水していた。枯れた葉っぱや枝が浮いた深緑色の水が見慣れた草創館の廊下を水底に沈め、階段の途中まで覆っている。
一階には降りられない。理央の肩をつかみ、花崎は二階に引きかえした。
だが二階の廊下も無事ではない。理央の部屋から腐った水が流れだしてきている。
――矴は?
友人の安否が気にかかったが、ここで捕まっては彼の想いをすべて無駄にすることになる。
花崎はすぐ近くの自分の部屋に飛びこんだ。真っ先に窓を開け、飛びおりて、と理央に早口で言う。
「はやく!」
「……じゃなかった」
「え?」
ノートを片手できつくつかんでいた理央は震える声でつぶやいた。「あれは、夕斗じゃなかった」
「夕斗が……俺に、あんなこと……」
「……理央、」
「あんなこと、するわけない……」
『……たのは……の、ほう……』
矴が水を吐きながらなにかつぶやいたことを思いかえす。あれは――
『抑えてたのは……蕪木優太郞の、ほう……』
夕斗が止めてくれると理央は言った。だが。
蕪木にひとを殺めるつもりは初めからなかった。これまでの記録を振りかえっても死人はひとりもいない。痛めつけられれば彼はそれで充分なのだ。
黒川が溺死しなかったのは蕪木が止めたから。
そして今夜――蕪木と混ざったもうひとりの力のほうが強くでていたとしたら。
矴は、もう……
理央の人差し指には体温がもどってこなかった。花崎がずっとつかんでいるにも関わらず。
……壊死。恐ろしい言葉が頭をよぎり、それを振りはらうために花崎は手を離すと理央の背を押した。
「ここから降りて。はやく」
「…………」
「夕斗じゃないものに理央を差しだすわけにいかない」
夕斗じゃないもの。その言葉が理央を正気に返したらしい。
理央は浅く呼吸をすると、四角く切りとられた夜の景色に向けて身を乗りだした。一瞬ためらったあと、勢いをつけて地上に飛びおりる。
――理央の靴を用意してやるんだった。
いざというとき身軽に動けるように花崎は運動靴を履いて待機していた。理央のことまで考えが及ばなかったのは自分の失態だ。
内心で舌打ちしつつ理央につづく。窓の下にある枯れた花壇は衝撃をいくらか吸収してくれた。
二階の窓を振りかえったあと、なにも見なかったかのように視線をまえにもどして、どこから外に逃げるべきかすばやく考えをめぐらせる。
――学校の外まで逃げれば。蕪木優太郞の力の及ばないところまで逃げれば……
S高の敷地はコンクリートの塀でぐるりと覆われている。刑務所と呼ばれるもうひとつのゆえんだ。塀は高く、花崎が踏み台になったとしても理央を逃がせないことは試してみるまでもなくわかる。
ここからなら裏門のほうが近い。だが、それにはあの雑木林をつっきっていく必要がある。
たくさんの人間が溺死しかけた雑木林。かつてのプール跡。
それなら距離はあるが本校舎の横を回りこむようにして正門の横にある通用門からでたほうがまだいいだろう。そう思い、理央の右手をつかんだ。
「通用門から逃げよう。いい?」
理央はうなずく。
彼に視線を向けるまえに見たもの。
水死体のようにふくらんだ紫色の手が二階の窓のふちにかかっていたことに理央が気づかないよう祈りながら、花崎は駆けだした。


