線香花火が終わる頃に矴先輩はやってきた。
花崎先輩は連絡していなかったらしく、「花火やるなら俺も呼んでよ」と金髪碧眼の彼は口をとがらせていた。花崎先輩はあしらっていたけど。
明かりをつけていても草創館のなかはどこか薄暗い。
「今夜のことなんですけど……」と、靴を脱ぎながら俺は先輩ふたりに言った。
「俺だけにさせてもらえませんか。夕斗もそのほうがいいと思うから」
「……最初のときに殺されかけたこと、もう忘れたの?」
花崎先輩が低い声で咎めるように言ってくる。
たしかにあのとき、俺はほんとうなら死んでいてもおかしくなかった。すくなくとも蕪木優太郎にはそれができたはずだ。それをしなかったのは、
「きっと、夕斗が止めてくれます。だから大丈夫です」
「…………」
「……まあ、黒川はぎり死んでないしねえ」
矴先輩も渋い顔はしているけど、俺の提案には賛同寄りのようだ。「逆に俺たちがいたら不興を買うかも。夜津くんに手をだすなって」軽口にしか聞こえないそれになぜか花崎先輩はうつむく。表情を読まれないようにするかのように。
「いいよ、夜津くん。今夜はきみをひとりにしよう。でもなにかあったらすぐ飛びこめるよう隣の部屋で俺たちは待機する、いいね?」
「……はい」
「鍵……も、どうだろうねえ。一夜目のことを思うかぎりあってもなくてもどっちでもいいような気はするけど。むしろ俺たちが入れないほうが困るかもしれない」
ドアの隙間から濁った水が入ってきたときのことを思いだす。この古くて隙間だらけの草創館では、先輩の言うとおり鍵をかけても意味はないような気がした。
「なら鍵は開けておきます。あとはなにかありますか?」
「そうだね。どこまで効果があるかはわからないけど、お守り」
矴先輩はポケットから白い紙きれを取りだすと俺に差しだしてくる。
小さなヒトガタだった。陰陽師が使っていた式神みたいな。
「これは……?」
「有事の際にはきみの身代わりになってくれる。こういうのは得意分野じゃないけど、気休めくらいにはなるよ」
「……ありがとうございます」
俺はそれをシャツの胸ポケットに入れた。うんうん、と矴先輩は満足げにうなずいてみせる。
「あとはそうだねえ。ちゃんと帰ってくるって約束してくれたら嬉しいかな」
「それは……」
「わかってるよ。きみにとって西永夕斗が特別だったことは。でも、ここにだってきみを大切に思っている相手がいることはちゃんと知っていてほしいな」
俺はそれにどう返事をすればいいのかわからなかった。
――俺を大切に思ってくれる相手なんて夕斗以外にいるはずない。でも俺を心配してここまでしてくれた彼にたいして口にするのははばかられた。
「……わかりました」
空疎な言葉を俺は吐きだす。
花崎先輩はちらりと俺を見て、なにか言いたそうにしたあと、けっきょくはなにも言わずに自分の腕を片手できつくつかんだ。
蛍光灯をつけると抜け殻みたいな俺たちの部屋がぼんやり照らしだされる。
どうしてだろう。ずっと変わらずたもってきたはずだったのに、夕斗が暮らしていたスペースが、なんだか遠い。
昼間の熱を逃がすために窓を開けて、俺は夕斗が使っていた机のまえに立った。
ペン立ての位置も、転がったままの蛍光ペンも、捨てるのを忘れたらしい消しゴムのカスもぜんぶそのままだ。いつでも夕斗が帰ってきて使えるようにしてある。なのに。
――遠く感じるのは、俺が変わってしまったから?
いつだったか、娘をなくした両親のドキュメンタリーを見たことがある。娘は通学の途中で交通事故で亡くなっていた。
『まだ部屋を片づけられないんです』母親は涙まじりに語った。『もう十年にもなるのに。あの子が帰ってきそうで』
カメラが映しだした部屋は当時のままだった。ベッドに置かれたぬいぐるみも、机の上の参考書も、プリントが捨てられたごみ箱も。遺影の娘は永遠に若いまま、両親だけが残酷に年を取っていく。
俺もそうなるんだろうと思っていた。永遠に夕斗を待ちつづけるんだろうと。でも、変わってしまったのは、
夕斗が、
ほんとうに還ってきてくれることを知っているから。
――ごめんなさい、矴先輩。
隣の部屋にいる彼に心のなかで謝る。
俺はポケットに入れたヒトガタを取りだし、頭からまっぷたつにちぎった。
――夕斗がそれを望むなら。
――俺は、ぜんぶあげたってかまわないんです。
ひとのかたちをしていたものをゴミ箱に捨てる。ドアの鍵は開けたままだけど、夕斗がきたらかけてしまおうと思った。だれにも邪魔されないように。
零時二分が待ちどおしい。
俺はベッドの上に置きっぱなしだった夕斗の日記を抱きしめると、今日だけは自分のほうじゃなくて夕斗のベッドの上に腰を下ろし、そのときを待つことにした。
◇◇◇
りおとひとつになりたい。
境界線なんてなくなってしまうくらいどろどろになりたい。
生きてるときはそんなこと思わなかった。だって、どろどろに溶けてた母親とあの男の姿は妖怪みたいで気持ち悪かった。あれが愛情で、あれが夫婦なら俺はなにもいらないって思った。
人間は気持ち悪い。体温がある。汗を掻く。髪の毛が、爪が、唾液が、存在すべてが気持ち悪い。
でも、りおはちがう。
なにがあってもきれいなまま。潔癖さを感じるくらい透明で。
だから、ふれてみたいって思った。
だから、けがしてみたいって思った。
俺のことでぐちゃぐちゃになってほしい。体も、心も、頭も、隙間なんてなくなるないくらいぜんぶ俺で満たしたい。汚れてほしい。息もできないほど強烈に。
いまの俺ならそれができる。
好きって気持ちでりおを埋めつくせる。
0:02。
俺は、俺たちの部屋のドアノブに手をかける。
ふれられるところとふれられないところがあるのは不思議だった。たとえば草創館の壁はすりぬけられる。でもこのドアは鍵がかかっていたら入れない。幽霊にもなにかしらのルールはあるらしい。
今夜、ドアに鍵はかかっていなかった。ノックの必要はない。
考えてみたら当然だ。もう黒川は俺が■したんだから。秘密の合図は必要ない。
この部屋に帰ってくるのは、俺とりおだけ。
ドアを開けると蝶番が甲高い音を立ててきしんだ。りおははっとしたように顔をあげる。今日は俺のベッドに座っていて、俺が生きていたときはふつうだったそれを見て胸がじわりと熱くなる。
りおは声にならない声で俺の名前を呼んだ。
……待っててくれたんだ。俺のこと。今夜は、ちゃんとひとりで。
べた、べた。
濡れた足で歩くみたいにフローリングが濡れる。濁った水が俺の足跡を残す。
りおには俺の姿は見えていないみたいだ。息をつめてその跡を見下ろしている。
りおは小さな子供が大切なぬいぐるみを抱きしめるみたいに俺の日記を胸のまえでぎゅっと抱きしめていた。そんなに俺のことが好きだったんだ、と思うと切ない。
ひとりぼっちにしてごめんね。
さびしくさせてごめんね。
『ただいま、りお』
もう、大丈夫だから。
俺はりおのまえに立った。たちまち床に水溜まりができる。
りおはやっぱり濡れたところだけを見ている――俺の顔はこっちにあるのに。
……俺のこと、見て。
俺はりおの頬に手を伸ばした。
ぽつ、とりおの頬に滴が落ちる。
緑色に濁った水は彼の白い肌をたった一滴で汚す。
『螟墓沫……?』
りおがこわばった声でなにかつぶやく。きっと俺の名前を呼んでくれたんだと思う。俺の耳には、もう、りおの声すらちゃんと響かないけど。
俺はりおの右の手首をつかんだ。冷たかったのか、りおはびくっと体を震わせてノートから手を離す。そんな反応がかわいい。
神経質的に爪が切られた指はつるりとしていてマネキンみたいだ。
俺はりおの指に自分の指をからませる。彼の肌が濡れて、水分を吸った土がざらりとからみつく。
それでもきれいなままのその手をどうにかしたくなって、俺は彼の手を引きよせた。自分の胸の高さまで持ってきて顔を寄せる。
『縺?d縺?……!』
りおが手を引きぬこうとする。くすぐったい? ごめんね。
でもすぐ気持ちよくなるから。
俺はりおの指に舌を這わせた。りおはいやがってもがく。だから俺は手首をにぎる手に力を込めて、逃げられないようにして、彼の人差し指を口にふくんだ。
音を立てて吸う。りおの指はびっくりしたように俺の口のなかで飛びはねて、その動きが、無力さが、俺のなにかを掻きたてる。
俺はりおの指に歯を立てた。りおは押しころした悲鳴をあげる。
『逞帙>縲∝、墓沫……』
口を離すとりおの白い肌に俺の歯形が残っていた。所有の証みたいに、くっきりと。
赤いその跡を見ていたら頭がくらくらしてきた。この跡を全身に刻みつけたい。りおを俺だけのものにしたい。獣みたいな、本能的な欲求が暴れだす。
俺は怯えたようにノートを片手で抱きしめているりおを見つめる。恐怖で潤んだ眼が、不規則な呼吸が、かわいくて仕方ない。
ねえ、りお。
喰べちゃっても、いい?


