「夕斗ってさ、他人と距離取るの上手かったんだよな」
夏休みの生徒サロンは閑散としている。あちこち汚れた丸テーブルを使っているのは俺たちだけだ。
四階にある音楽室からは吹奏楽部の弾けるような演奏が聞こえてくる。暑いのによくやるよな、とユニフォーム姿の先輩は感心したように言った。
「……バスケ部だってそうじゃないですか」
「あ、そか」
テーブルも椅子も彼には低いらしく、笠森先輩は片足を折りまげて反対の脚の上に置いていた。「夜津とこうやって話すの初めてだよな」と言われ、そうですねと俺は返す。
「夕斗がよく夜津の話してくれるからなんか勝手に知り合いみたいな気してたんだけど。そっか、だよな」
ひとりでうなずいたあと、「俺に話って夕斗のことでいいんだよな?」と確認してくる。
「なんでもいいので聞かせてください」と返事をすると、笠森先輩は言ったのだった。夕斗は他人と距離を取るのが上手かったと。
「試合中の話ですか?」
「んー……そっちもあるよ。たしかに。いてほしいとこにいてくれたり、カバーが上手かったり。でも試合の外でもそうだったんだよな。
あいつ、ああいう性格だから同級生はもちろん先輩にも先生にも物怖じせずいくじゃん。でも絶対に近づきすぎないの。他人のパーソナルスペースがわかってるって感じ? これ以上踏みこまれたらやだな、ってとこには絶対に踏みこまなかった。だれとでも仲いいけど、べたべたはしないっていうか。意外とドライだった。
だから、夕斗が夜津と話してるとこ見たときは驚いたな」
「どうして……?」
「夕斗が夜津には近づきたいって思ってる気がしたから」
「…………」
「本人に言うのも悪いけど――夜津って神経質そうっていうか、関わらないでオーラだしてるよな。距離取るなら大幅に取らなきゃいけない相手。でも夕斗はさ、それをわかった上で夜津の内側に入っていこうとしてるみたいに見えた。ルームメイトとかそういうのなくても」
俺は他人と接することが苦手だけど――夕斗には不思議と感じなかった。彼はむかしからずっとそうだったかのようにそばにいてくれた。
だれかから見たらそれは近づきすぎているように見えたのかもしれないけれど。俺には、居心地のいい距離だった。
「だから……あー……まあ、あんま驚かなかったよ。夕斗からその相談されても」
友達を好きになってしまった、という相談だ。
目顔で詳しい話を知っているか問いかけてくるので「夕斗の日記に書いてありました」と答える。
「日記? そういうの書くタイプだったんだ」と笠森先輩は花崎先輩と同じように驚いてから、
「なら……された? 夕斗から。告白」
と聞いてくる。俺は首を小さく横に振った。
そか、と先輩は目を伏せる。
「どっちかな、って思ってた……夜津に告ってからああなっちゃったのか、それとも告るまえだったのかなって。ずっと気になってたんだよ。でもまさか夜津に聞くわけにいかないし」
「……夕斗、気にしてました。当事者じゃなかったから先輩に軽々しく『気にしてない』って言えたんだって」
「ああ……」
そのことも日記に書いてあったんだ? と笠森先輩に聞かれ、失言だったかもしれないと危ぶみながら肯定する。直接は聞いてません、と補足して。
「わかってるよ。夕斗ってひとの秘密ぺらぺらしゃべるやつじゃないもんな」
「……はい」
「どっちがよかったのかなあ。夕斗があの日……ああなるのは変わらないとして。言ってからのほうがよかったのかなあ……」
返事は求められていないと感じたので俺は黙っていた。笠森先輩はふいに脚を下ろすと目元を手のひらで覆う。
「――悪い。もっとはやく気づいてやりゃよかったなって、そう思ったらさ、夕斗に申しわけなくて」
「笠森先輩が気にすることじゃ……」
「でもあいつの悩みをわかってやれるのは俺だけだったんだよ。せめて、せめてさ。もっとはやく背中押してやればよかった」
――夕斗の気持ちは、もう、俺には届かない。
ふつうは……そうだ。でも。夕斗は。
――夕斗は……。
しばらく笠森先輩は引きつるようにすすり泣いていた。その向かいで唇を噛んでいる俺は彼の悔しさと悲しみに共感しているように見えただろう。半分はそう、だったけれど――
夕斗は、還ってきたんですよ。
俺のところに還ってきてくれたんですよ。
そう明かしてしまいたいのを、必死に堪えていたのだった。
……どうせ言ったところで信じてもらえやしない。俺と笠森先輩たちが住む現実は、地層がずれるように決定的にずれてしまっている。こうやって同じテーブルについていても。
ごめん、と洟をすすって笠森先輩は顔を上げる。
彼は知らない。夕斗が二回も俺のところに来ようとしてくれたことを。
「……夕斗、先輩からアドバイスしてもらえて嬉しかったと思います。ありがとうございました」
「あ、……うん」
俺が礼を言うのが不思議だったのだろうか。深く考えず言った言葉に先輩は目を丸くし、ユニフォームで目元を拭く。それからもう一度俺を見てきた。
「どうかしました?」
「いや……なんかいま……」と瞬きをして、「やっぱなんでもない。夕斗もたまにそんなふうに笑ったなって思ったんだけど……親友だもんな。似てるとこあって当然だ」
俺と夕斗が似てる? ありえない。夕斗は俺とは正反対だったのに。
なんでそんなことを思ったんだろう。奇妙に感じていると、先輩は壁時計を確認する。
「ごめん、そろそろ部活もどるわ。また顔見せてくれる? ってか、俺が寮までいけばいいのか。夏休み残るの?」
「はい、そのつもりです」
「じゃあ行くから。夜津もさ、夕斗の話聞かせてくれよ」
俺に手を振ると笠森先輩は玄関のほうへ歩いていく。バスケをやってるだけあって手のひらが大きいなと思い、夕斗もそうだったことを思いだした。
サロンからは中庭が見える。文化祭の日、俺と夕斗が過ごした東屋も。
あの日、夕斗は俺を好きになったと書いてあった。俺の背中をなでたときに。
俺は……彼に甘えていただけだったのに。
笠森先輩がもっとはやく夕斗の背を押していたらどうなっただろう。夕斗は俺に告白して……それで? 俺はなんて応えた?
……夕斗なら、いいよ。
自然とそんな思いが胸のなかに浮かびあがってきた。
夕斗ならいい。だれかとつきあうなんて考えたことなかったけど。
朝起きておはようって言う相手も。夜におやすみって言う相手も。ぜんぶ、ぜんぶ、夕斗がいい。
そう思ってから、これじゃつきあうまえと変わらないなと苦笑した。おはようもおやすみも俺たちは毎日言ってたんだから。
ただの友達がしないことと言ったら――
『笠森先輩と柳先輩が合宿所の裏でキスしようとしてたところを見ちゃった。俺、タイミング悪!』
夕斗の日記の一節を思いだす。……キス。夕斗と。
できるかどうかで言ったら、――
想像しようとしたけど急に虚しくなってやめた。
夕斗は還ってきた、でも、その手が俺にふれることはきっとない。キスどころか手を繋ぐことも、あの日のように背中をなでてもらうこともできない。
……夕斗の手、好きだったな。
大きくて。指が意外とがっしりしてて。俺のぜんぶを受けとめてくれそうな頼もしさがあった。
あの手は、もう――。
ふっと思った。俺も体育館の扉の横にガムを供えよう。地上に降りる途中にあるコンビニで。
夕斗がひいきにしてたメーカーの、ミント味のガムにしよう。そうして失ってしまったことを悼もう。
夕斗の魂じゃなくて。
彼が永遠になくしてしまった、体という器のことを。


